doctor ―医者
翰川先生は、すぐにマンションまでやって来てくれた。
彼女は世界で唯一、生身でコードによる瞬間移動を成し遂げる天才。
ネットで調べて、彼女と親しい森山くんからも聞いていたから知っている。
「……翰川、先生」
家に入りこんできた彼女は台所に踏み込み、息を切らして私に会釈する。
「インターホンを鳴らさない無礼を許してくれ」
「だい、じょうぶ、です……」
足に力が入らなくて震えてしまう私を、翰川先生が撫でる。
「キミの方こそ、大丈夫なのか? ……不安だったろう」
「……ごめんなさい……‼」
「謝らなくていい。というか、リーネアが頭に衝撃を受けた程度で撃沈する方が変だ」
何気に酷いことを言いながら、台所に寝かしたままのリーネア先生の様子を見始める。
保健体育の授業で、頭にけがを受けた人を下手に動かすのは良くないことだと教わったので、その通りにしていた。
「…………。普通に寝ているだけに見えるが、本当に頭を打ったのか?」
「え……わ、私の目の前で、この空き缶が頭に……」
壁際から回収してきた煎餅の空き缶を彼女に見せる。
蓋は一辺が20センチほどの正方形で、高さは煎餅一枚の直径分。
頭が当たったため、少し形が歪んでいる。
「中身は?」
「空です」
「……」
翰川先生は物凄く不思議そうな顔をしていたものの、すぐに振り払って表情を真剣なものに変えた。
「とにかく、病院に行こう」
びょういん。
「京?」
「死んじゃう? 死なないよね」
「…………」
優しさと苦しみに満ちた顔をして、彼女は私の肩を叩く。
「死なないよ。彼は生きているのだから」
瞬間移動で辿り着いたのは、翰川先生がかつて札幌に来たばかりの時に入院していた病院だった。
リーネア先生のことは事前に伝えてあったようで、意識を失ったままの彼を複数人で他の部屋に運んでいった。
「…………」
どうしてか、私はずっと涙が止まらない。
待合室傍の『休憩室』とプレートがかかった個室で、翰川先生に背を撫でてもらってしまっている。
「……先生、死んじゃう……」
「死なない死なない。思い詰め過ぎだよ、京」
彼女は優しい。
私を追い込まないように明るく、かといって不謹慎にならないように優しく。面倒くさいメンタルの私に根気よく付き合ってくれている。
「翰川先生……好きです……ファンです……」
明晰さも、その優しさも。恋い焦がれてやまない憧れの人。
「ありがとう。……告白も嬉しいが、泣き止んでおくれ、京。僕がリーネアに怒られてしまう」
「ふえっく……」
「そうそう、さっさと安心して泣き止みたまえ、お嬢さん。人は頭に空き缶が落ちてきたくらいじゃ死なない」
扉が開く音と共に、朗々とした女性の声が響く。
「ふ、ぅ……?」
みっともないことに鼻をかみながら顔を合わせていることが恥ずかしく、慌てて姿勢を正して女性に向き直る。
女性は口元に自信に満ちた笑みを佩いてこちらを見ている。
――その女性は、シェル先生に限りなく似ている。
「初めまして」
「は、初めまして……」
戸惑う私の横で、翰川先生は無邪気に喜んでいる。
知り合いのようだ。
「私はアリス・ヴィアレーグ。異種族特化のお医者さんだよ」
アリスさんは私の隣に腰掛けて『よいせ』と軽い呟き。
「……」
「見つめられると恥ずかしいのだがね?」
「っ……ご、ごめんなさい」
光を浴びると色の変わる艶を持つ髪。
真っ白な肌と、意思のこもった大きな瞳。
見た目の年齢と性別こそ違うものの、彼女は何度見てもシェル先生にそっくりだ。
違うのは、髪色と瞳の色。
彼女の目は――炎が燃え上がっている。
完全燃焼を示す青から、地を焦がすような太陽の黄金まで、すべて炎。
髪はワインレッドで、光を浴びるたび青に輝く。
「私の目と髪は母上譲りだから仕方がないか。見惚れてしまうほど美しいだろう?」
自慢しているのは母親のことであって自分のことではないらしい。
その微妙なズレ様も、なんとなくシェル先生を思い起こさせる。
「しかしまあ、ずっと私を鑑賞している必要もない。さっさと貴様の先生のお話に移ろう」
「!」
白衣と首から下げたカードホルダー。
アリスさんはお医者さんだ。
「私が見たところ、リーネアの体に問題は起きていない」
「……速い、ですね?」
レントゲンも済ませたのだろうか。
「見ればわかることだろうに、仰々しいことだ」
やれやれとため息をつくアリスさん。
ふと気になって質問する。
「あの。シュレミア・ローザライマさんとはごきょうだいですか?」
「ん? ああ、そういえばあいつも札幌に居るんだったか。実弟だよ」
私が固まっていると、翰川先生がこっそりと教えてくれた。
「シェルが『見ればわかること』とよく言うのは、間近にシェルをも凌ぐ天才である彼女が居たからだよ。口癖が伝染したんだ」
本来ならば、短所や長所、性格などの他者との差異を認識するはずの成長の過程。
シェル先生の傍には、自分と同等かそれ以上の天才であるお姉さんが居た。
だから、彼は自分の才能を自覚しなかった――
(佳奈子が聞いたら、卒倒しそう……)
「おい、ひーちゃん。いま話すべきは弟ではなくリーネアについてのことだ。キミが口を挟むと脱線して仕方がない」
「む。済まない」
「良いよ」
あっさりと鷹揚な人のようだ。
「キミの先生は諸事情あって非常に頑丈だ」
「……はい」
知っている。
先生はケガをしても治るのが異様に速い。
「前に私の弟に後頭部を殴られていたが、2秒後には平然と反撃していたよ」
「えっ」
それはおかしい。
「だから、脳天に空き缶が直撃した程度で意識を失うのはおかしいのさ」
「え、あの」
口を挟もうとすると、翰川先生に『しーっ』とされた。
すごく可愛い。森山くんは毎日これを見ているのか。
「キミとおんなじ能力によるものだよ。パターンの機能の一つだ」
「!」
内世界改造。
ときに、自分の心や体すら改造してしまう内向きのパターン。
「いたいけなお嬢さんに受け入れやすく端的に説明すれば……そうだな。あの子は、どんなダメージを受けようとすぐに体を動かせるように、意識を持続させられるように……パターンで自分を調整している」
先生は、戦争が巻き起こりやすい世界出身だ。そういうことをしていてもおかしくはない。
「それが揺れるとしたら、精神が揺れた時しかない。そして、元々感情の薄いリーネアが揺れることはよほどのこと」
彼女は
だが、踏み込む勇気は持てない。
続きの言葉をじっと待つ。
「……」
彼女は困ったように笑ってから、私を撫でた。
「リーネアは、何か考え事をしていなかったかな?」
「考え……ごと……」
「なんでもいいよ。普段と違うことこそヒント。一緒に暮らすキミの方が詳しいだろう」
違うことがあるとするならば。
大掃除の最中――……
「カレンダーを見ていました」
「どういうふうに?」
「壁かけのカレンダーなんですが……なんだか、見たくないみたいにしてて。私がお昼寝してきてって伝えて、寝る前にお水を飲もうとして……冷蔵庫の上にあった缶が落ちてきたんです」
アリス先生はふんわりと笑って手を合わせた。
「ああ、わかった」
「!」
早い!
「……でも私が言うべきことじゃない」
「? アリス。それは……」
口を開きかけた翰川先生が、次第に呆然として、それから黙り込む。
苦い顔をした。
「ひーちゃんはわかるだろう?」
「…………。うん。僕も言うべきじゃない」
何か、事情があるらしい。
私はわからない。
「不安そうにするな。こんなにも貴様に心配をかけたんだ。普通に目覚めたら、リーネアは自分から話すよ」
「で、でも……」
「私は予知能力なんてないが、直近のことなら予言が出来る」
「……」
シェル先生とは全く違う自己評価の高さに圧倒されていると、彼女はそれすらお見通しなのか、またもふんわりと笑った。
「とにかく。若者が思い詰めた顔をするのは良くない。気を落ち着けて待ちなさい」
「はい」
「泣いて喉が渇いただろう。何か買ってくるよ」
翰川先生が立ち上がって扉に手をかける。
「あ……い、いや」
「京は緑茶で、アリスはミルクティー。僕はリンゴジュース!」
上機嫌に部屋を出て行った。
「ひーちゃんは今日も可愛い」
「……そうですね」
私を元気付けてくれている、優しい人だ。
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