3. ケガ・病気は病院へ
shock ―衝撃
「……」
「先生?」
お客さんを迎え入れるための大掃除の最中、リーネア先生――正確に発音するならばリナリア先生が、何やらカレンダーを見てぼうっとしていた。
何の変哲もないカレンダーだ。一か月ごとに季節の絵柄がついていて、いまは8月が前面にかかれたカレンダー。
先生は暗号の関わるセキュリティの専門家として、東京にある寛光大学で出張講義を頼まれている。東京へ行く日付も近づいてきているので、それにまつわる用でも思い出したのかもしれない。
「どうかしました?」
「あ……うん。悪い」
べりっと無造作に、カレンダーを壁から剥いだ。
「ちょっ……ま、まだそれ今年のですよっ?」
「あ、ああ。……そっか」
フックにカレンダーを掛け直す仕草からは、逡巡が見て取れた。
「あの……先生って、カレンダー嫌いなんですか?」
「……嫌いじゃない。でも、なんか……こう……落ち着かない」
「?」
このシリーズのカレンダーは、毎年、ドーナツ屋さんで配っているものを私がもらってきている。
3年目の付き合いでいきなりこうなるのはなぜだろう。
「…………。じゃあ、あとで私の部屋に持ってきますね」
「え、あ」
中途半端に持ったままだった先生の手から、カレンダーを受け取り、伏せてテーブルの上に置いておく。
「……そういうんじゃ、ない」
「じゃあ壁にかけておく?」
「…………」
少し困ったような顔で首を横に振った。
「悪い」
今まで気にしていなかったが、先生だって夏バテになったりするのかもしれない。
最近、なんだか元気がなかったし……
「先生は休んでてください」
リーネア先生のお父さんであるオウキさん、お姉さんであるルピナスさんを迎え入れようとしているのだ。先生には英気を養ってもらわなければ。
ご家族で楽しく過ごしてほしい。
先生が幸せにしている姿が見られるなら、私は壁の花となり、お茶出し係ともなろう。
「あとはコンロと換気扇周りだけですし! 私一人でも大丈夫です」
過保護な先生は、私に重たいものの一つも持たせてくれなかった。
恩返しを兼ねて換気扇掃除で一仕事したい。
「平気だって」
リビングから押し出そうとするが、彼の身体能力は人間離れしている。
体幹と脚力でたやすくバランスを維持して私を振り向く。
「ちょっとぼうっとしただけだ」
「その『ぼうっとする』のが体調不良の兆しですよ」
昨今の風邪には、咳も鼻水もなく、ぼうっとするだけの風邪というのもあるらしい。
気づかぬうちに症状が進行し、深刻な体調悪化を引き起こすこともあるのだとか。
「ね。お昼寝してきてください」
「…………。じゃあ、20分だけ……」
「少ないよ」
20分なんて、寝付けないまますぐに経ってしまう。
「気にせず寝てきて。ね?」
「……」
先生はため息をついて、私の額をつついた。
「水だけ飲ませてくれ」
「はい」
気を利かせて、冷蔵庫の両開きの扉を開ける。
っガン!
こもった金属音。
「いっ……」
――先生の頭に、上から落ちてきた煎餅の空き缶が直撃する。
「っ……‼」
戸棚の整理に! 空き缶をあちこちの高い家具家電の上に置いてたのっ! 忘れてた‼
でも、冷蔵庫の上に物を置いていたのは先生のはずで、彼はそういうことにはとても記憶力が良いはずででもなんで一つだけ回収し忘れて――?
私の思考がぐるぐるしていると、先生が腕を払って落下してきた空き缶を弾き飛ばす。
壁に当たってごわんごわんとけたたましい音が鳴る。
「っつ――」
一瞬、先生の長いオレンジの髪の毛が赤く染まった。
――ように見えた。
「先生‼」
ふらふらした先生は、台所の食器棚に寄りかかる。
声をかけたが受け答えがはっきりしない。
こわい。
どうしてかわからないけれど――大切な人がぐったりとしていることが怖い。
(……おち、つかなくちゃ)
そうだ。まず必要なのは落ち着くこと。
まずは落ち着くこと。落ち着いて、考える。
頭を打ち、意識が混濁する原因で考えられることは何か?
外的衝撃で頭が揺さぶられたことによる脳震盪。
または深刻なダメージによる意識低下。
他の部位ならともかく、頭へのケガは専門家でもない素人が判断できることではない。
(私に出来ることじゃない。びょういん。きゅうきゅうしゃ)
ああ、でも。こわい。
こわい。
恐くて仕方がない。
自分のスマホを掴んで119番を押そうとするのに、指が震えてボタンが押せない。
「なん。で、押せない……⁉」
「……ん。けい」
先生に呼ばれて振り向くと、彼はとても無邪気な笑みを見せて――髪を赤く染め上げた。
一瞬で、色が変わった。
「…………」
普段の髪が夕焼けならば、この赤はルビー。ゆっくりと毛先から夕焼けに戻っていく。
不可思議な現象を見ていると、少し落ち着いた。
私は、封じ込めた記憶の中に病院と救急車にまつわるトラウマを持っている。
故に――救急車を呼べない。
ならば。救急車を呼べる人に電話をすればいい‼
心の中でそう宣言して自分を鼓舞したは良いものの。私は泣き虫で怖がりで。情けないことに、声は震え切っていた。
私はただのわがままで、彼の友人にして私の憧れの人に電話を掛ける。
「翰川先生、翰川先生……‼」
スマホを手に取り、番号を呼び出した。
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