おしまい
最近の私は、頑張っていると思う。
父にも褒められてお気遣い頂いたし、紫織からは愛情表現と感謝の言葉を、佳奈子からも優しい気持ちをもらっている。
あとは――母にも褒めてほしい。
「母上」
「なあに、ルピネ?」
母は美しい。灼熱するマグマのような髪を揺らして私を振り向いた。
父がかつて贈ったという、髪の端を緩くまとめる髪留めが輝く。
「私は……最近。頑張っている」
「うん。シュレミアがルピネのことずーっと褒めてたから、知ってるわ」
頑張って口を開く。
「褒めて撫でて欲しい」
「まあ……そういう可愛いところ、生徒さんと友達の前でも見せたらいいのに」
苦笑しながらも私を撫でてくれる。
「威厳を保ちたい。……それに、緊張してしまって恥ずかしいからだめ……母上にだけ特別」
「可愛い娘。ルピナスとは会えた?」
「ああ。なぜかアルミエ伯母と共にいた」
「あらあら」
「また明日から頑張ります」
「頑張って」
――*――
「先生は、あたしと紫織のどっちの味方なの?」
グリーンハイツにあたしを送ってから自宅に帰ろうとする先生を、玄関先で引き留め問いかけた。
「あなたたちは戦争をしていないでしょう? 軽々しく敵味方を持ちだすのはやめなさい」
「言葉の綾!」
そう表現するのが正しいと思わされるような心境ってこと!
「……『言葉の綾』は、微妙な意味合いを表すためなどに使われる巧みな言い回しのことなので、そこだけは訂正しておきますね。勢いで口をついて出た言い過ぎや言い間違えのことではありません。あくまでも巧みでなければ」
「あんたなんなのよ――っ!」
「論文を読んで審査する立場に居ると、言葉の意味は気にしてしまうものですし……」
「あたしはいま、論文を書き上げてるわけじゃないの! 文句を言ってるの‼」
『先生への文句』というタイトルでレポートを書ける気はするけど!
実を言うと、先生に座敷童としての保護と大学受験へのサポートを頼んでからというもの、あたしは事あるごとにレポートを書かされている。
「文句とやらを聞きましょう。内容がもっともなら沈黙し、すべて聞き終えたのちに謝罪をします」
反論される未来しか見えない。
でも、言わざるを得ない。
「紫織の、スペル。”契約”なんて生易しいものじゃなかった……‼」
――あたしが味わった恐怖は、紫織への友情だけで乗り越えられるとは思えない。
「おや。感じ取るのですね」
「なんで他人事なのよ。だって。あれは……」
窓の外に淡い夕日色が見え始めて、あたしにもうっすらと犬猫の影が見えるようになった。
牙をむき出しにした犬が紫織に飛びかかってきそうになっていた。
紫織が瞳に白い火花を散らしてスペルを発動させると、紫織の手からは綱。綱は犬と猫に伸びて首輪が現れた。
動物たちの唸り声は意にも介さない。
無意識に首輪と手綱を握りしめて、怒りと憎しみでたけり狂う犬猫を支配していた。
……支配は言い過ぎだ。どこまでも無意識。
明らかに自分に敵意を向けている大勢の動物に対して恐怖も抱かず、握りしめた手綱から『敵意はない。あなたたちを救いたい』という善意を伝えて――伝えきった。
それが完璧な善意からの振る舞いだということは、傍から見ていたあたしにもよくわかった。
だからこそ、リーダーのドーベルマンは他の子たちを落ち着かせて、紫織に敬意を払ったのだろう。
七海家の先祖は、神を鎮める巫女。
紫織はその先祖返り――
「巫女は心から清純であることが望ましいのです。あの能力は、紫織が世間知らずで性善説信者で優しいから成り立っています。そこだけは信じてあげてください」
「わかってる」
世間知らず過ぎて、あの京にすらやきもきさせたり、すれたあたしを苛立たせたりするけれど、紫織はとてもいい子。
でも、怖かった。
あたしは幽霊で座敷童――やっぱり、人とは違う。
「幽霊のままだったら、あたしにも、あの首輪はくっついてたの?」
「有り得ません。俺とルピネが傍に居るのですから危険は一切ない。……説明不足を謝罪します、佳奈子」
先生に撫でられると、心の中に温かい気配が溶け込んでくる。
……彼は、基本的には優しい魔法使いだ。
「万全を期した状態でこそ試すべきだと思っていました。試さなければならないと思いました。それに、紫織は誰かのためでなければ魔法を使えないのです」
「……あたしが居たから?」
「はい。あなたを巻き込んでしまった責任感も含めて」
「…………」
人を苛立たせるのも純粋だからで。人のために献身的になれるのも純真だから。
紫織が眩しい。
「自分の体調を安定させるための集中や瞑想では、魔力の維持も30秒もてばいい方で……まだまだ修行中です」
先生がため息をついた。
「……紫織が想像以上に健気で愛しい。さっきまで怖がってた自分が……申し訳なくて……」
「あなたも単純ですね」
「うにっ」
今度はデコピン。
「座敷童は、神または妖怪に分類される魔するもの。幽霊よりも存在の安定が一段上ですが、紫織が自らの力を極端に暴走させてしまった場合は強制契約がかからないとは限りません。警戒心を持ってください」
「警戒心持てったって……あの牙剥き出しの犬でもどうにもならなかったのに」
「あれらは幽霊なので一切の拒否権はありませんでしたが、あなたは存在として一段上。適度な警戒心を持つだけでも、初手から首輪がかかる事態にはならないはず」
「適度な、警戒心……」
「言い換えれば、距離感と信頼です。何事もまずは互いを知ることからだと思います」
先生は頭が狂っているのに、やっぱり年長者で、深みある人生の持ち主だ。
たまに至極真っ当なアドバイスをしてくるから面喰う。
「……」
あたしが黙ると、彼が淡々と口を開く。
「文句はこれで終わりですね」
「せめて疑問形にして?」
「文句はこれで終わりですね?」
「そうじゃない……」
やっぱりどこか変だ。
頭のねじが抜けているというより、頭の歯車が高速逆回転をしているような感じ。
「最近、娘にも似たようなリクエストをされるんですよね……何が不満なのかわからなくて」
娘さんへの対応で悩むのは人間味があってちょっと親近感を覚える。
でも、そうじゃない。学習してあげて。
「語尾上げてクエスチョンついてる感じでも意味合いほぼ変わらないし。なんなら変わる前より悪化してるし……」
『見ればわかること』主義者の先生にとっては自明の理なのかもだが、あたしの心情的には納得しがたいものがある。
「難しい要求ですね。今度レポートに――」
「それは嫌」
「……」
先生がちょっと落ち込んだ。
無表情な彼の感情も、なんとなくわかるようになってきた。
「ごめん。……引き止めちゃった」
しかも送ってもらった部屋の玄関先で……
「いえ。女性に一人で夜道を歩かせるなど出来ませんし、あなたが俺に吐き出したい文句があるなら聞くべきですから」
サイコホラーかと思えば、非常に優しい。
「他には?」
「先生があたしと紫織を助ける動機は?」
「若者は幸せであってほしい。幸せになるのならどんな手段を使うことも厭わない」
「……本気なんだ、そのセリフ」
前にも一度聞いたことがある。
彼は精神構造が妙なのだ。
――まるで、心を無理やり型に押し込んだように見えた。
「あたしが幸せになったら、先生は嬉しい?」
「はい」
「幸せになるために他の人の幸せを摘まなきゃならなかったらどうするの?」
先生は間髪入れずに答えた。
「光太への恋心を指すのでしたら、それは俺が手出しできることでは」
「みゃ――‼︎」
「違うんですか?」
「あっさりと心を読むなっ‼︎」
「佳奈子の幸福が他者と競合するのはそれくらいしか」
「何もかも、見抜くの……やめて……」
彼は不機嫌そうな顔でそっぽを向く。
「1+1を見て2と思わぬ人がこの世のどこにいるのか」
先生は『見ればわかることです』とよく言う。
本当に、見ただけで何もかもわかるから、その技能については疑問ですらないのだろう。
「先生の親の顔が見てみたい」
「今度紹介しましょうか」
「やっぱナシで」
さっきのは慣用句です。
――*――
少し上機嫌な夫が、我が家に帰ってきた。
「何かいいことあった?」
ルピネは紫織ちゃんの家に戻っている。頑張る娘が誇らしい。
少し寂しかったけれど、夫が戻ってきたなら寄り添えるから平気。
「ああ」
「それは良かった」
「いつもありがとう、アネモネ。苦労をかけてばかりですまない」
「……あなたのためなら苦労なんかじゃないわ」
ほんとうにそう思う。
「土産を買ってある」
「お酒がたくさんね。嬉しい」
「札幌と小樽のそれぞれの名物だと聞く。子どもたちとも一緒に味わおう」
「うん」
嬉しくて幸せで仕方がない。
「どうした」
「私の前でだけ、敬語なしでもいつも通りで平気。うふふ」
彼は、ルピネが相手でも少し緊張している。
「気心知れたお前だから安心して素を出せる。愛している、アネモネ」
「私も愛してる」
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