4

 彼に付いていくと、白い引き戸の前に着いた。


 彼がそこを開けた瞬間、薬、いや消毒液だろうか。病院の匂いがした。


 そしてその部屋は、他でもない診察室そのものだった。


 部屋に入ると彼は言った。


「ごめん、僕は君に1つ隠し事をしていたんだ。」


「実はね、僕、医者なんだ。」


 そう言うと彼は、椅子の上に掛かった白衣を翻した。


「さて。椅子にどうぞ。」


 私は言われるがまま、丸く、背もたれの無い椅子に座った。


「ピアノはあの扉の奥にあるんだ。でもその前に左手、見せてもらってもいいかな?」


 ぎくっ、とした。お医者さん、ということは、この傷をどうにかしたいのだろうか?


 見るだけ?いや、なにか処置をするのだろうか。


 恐る恐る左手を出すと、彼は一気に肘まで袖をめくった。驚いたことに、包帯には血が滲んでいた。今までにこんな事、一度も無かったのに。


「これ、外すよ。」


 有無も言わさず、包帯を外される。包帯に滲んだ血はどんどん色が濃くなり、ついに皮膚が露わになった。


「ずいぶん切ったね。こりゃ痛かったでしょう。」


 そう言うと、彼は消毒液が染み込んだ脱脂綿を出してきた。


「ごめん、ちょっと、いや、かなりしみると思うけど、我慢してね。」


 ピンセットで摘まれた大きくひたひたとした脱脂綿。あれがこの皮膚に塗られるのかと思うと身震いがした。


 すると彼は、私の左手を握った。彼の手はいつも温かく、そして大きい。


「動くといけないからね。いくよ。」


 なんとも言えない痛みが傷から広がる。彼の手をぎゅっと握る。


「痛い。」


 口から言葉が漏れる。そんなこと言ったって、この傷をつけたのは紛れもなく自分自身だ。


 痛みと、悔しさ、自分への嫌悪から、涙が溢れた。息を殺して、すすり泣く。


 しかし彼は一切作業の手を緩めなかった。


「大丈夫だよ。もう少し、もう少し。」


 そう言いながらも、終わる気配がない。少なくとも私には、ものすごく長い時間が経ったように感じられた。


 その時、私の手を強く握り返していた彼の手の力が、ふっと抜けた。


「はい、終わり。よく頑張りました。」


 そう言うと彼は、まだ血が滴る傷口にガーゼをかぶせた。


「これで、終わりですか?」


「うーん、僕も終わりだと言いたいんだけどね。どうやらこの傷は君が思っているより重症らしい。」


「というと?」


「いくつかの傷は、縫わないと治らない。」


 縫う、なんて思ってもみなかった。針と糸でちくちくと、裁縫のように縫うのだろうか。それとも、医療ドラマなどでよく見るホチキスのようなものなのだろうか。


 いずれにしても、痛い事に変わりはなさそうだ。


「それって、痛いんですか?」


「なるべく痛くないように、傷跡残らないように縫うから。安心して。」


 質問は上手くはぐらかされてしまったが、もうこの際、痛くてもなんでも、それでいいと思った。


「じゃあこっち。ピアノのある部屋に行こうか。向こうの部屋は処置室と兼ねてるから。」


 そう言われて、痛む左手に注意しながらドアを通る。するとそこにはかなり大きな窓と、真っ白なグランドピアノ、そしてゆったりとしたベッドがあった。


 一瞬、まるでセレブの別荘のようだと思ったが、右側にある大きな衣装器具の棚が処置室であることを思い出させる。


「ベッドに寝て、ちょっと待っててね。」


 言われた通り、ベッドに寝転がる。ふかふかしていて、心地がいい。


 しばらくすると、処置に必要な道具を持って、彼がやってきた。


 先程とは違い、マスクと手袋をしている。


 彼はベッドの脇に台を置いた。恐らく左手を乗せるためだろう。


「はい、じゃあ左腕、ここに置いてね。」


 急に緊張が高まる。今からただでさえ痛い傷口を縫われるのだ。


「ちょっと傷口見てもらえる?今回、ここと、ここと、ここ。この3つがかなり深くて恐らく放っておいたら治らない。だから縫って、なるべくきれいに治そうね。」


 はい、というのも変な気がしたので、分かりました。と答える。


 消毒液が染みたガーゼで傷口を拭かれる。痛い。


「君、こういうの見てても大丈夫な人?」


「多分…大丈夫です。」


「分かった。じゃあこれで縫っていくからね。」


 彼は細い縫い針と、透明な糸を動かしてみせた。


「多分、麻酔の注射をするくらいなら、そのまま縫ってしまったほうが痛くないと思う。どうしても君が麻酔をしてほしいというのなら、してもいいけどね。」


 麻酔なんて、人生で一度もされたことがない。でもお医者さんの言う事だ。恐らく麻酔しないほうが痛くないのだろう。


「じゃあ、麻酔無しで…お願いします。」


「分かった。しばらく痛いけど、我慢ね。動いちゃだめ。」


 そういった瞬間、縫い針の先が、傷口の皮膚を貫通した。鋭い痛み。動いてはいけないと分かっていても、体がびくっと動いてしまう。


「ごめんなさい」


 か細い声で言う。


「うん?謝らなくたっていいんだよ。でもやっぱり固定しといた方がいいかな。」


 マジックテープがついた紐で、手首を固定される。まるで囚人のようだ。


「じゃあ、再開するね。泣いても喚いてもいいけど、動かないでね。」


 針が皮膚の中を移動する感覚。そしてその後、糸がすーっと抜ける。


 その全てが痛みを伴い、辛いものだった。


 彼は、驚くほど細かい間隔で皮膚を縫っていく。恐らく綺麗に治るように縫ってくれているのだろうが、もう少し雑に縫ってくれればそんなに針を刺さなくたって済むのに。と思う。


 3針縫い終わったあたりから、涙が止まらなくなった。


 痛みには耐えられる。でもそれ以上に耐え難いのが、押し寄せる感情の波だ。


 声にならない嗚咽。


「大丈夫大丈夫。いい子だね。頑張ってるね。もうすぐ終わるからね。」


 まるで小さい子と会話するかのような優しい言葉遣いで話しかけられる。


 そうこうしているうちに、1つ目の傷の縫合が終わった。


「はい、1個目終わり!よく頑張ったね。」


 こくん、と頷いた。本当はありがとうございます、と言いたかったのだが、話す事が出来なかった。


「痛いのは傷口だけじゃないもんね。いい子だね。よく頑張ってるね。」


 そう言いながら、彼はゴム手袋を外して私の頭を撫でた。


 どうしてこの人はこんなにも優しいのだろう。どうして私なんかに優しくしてくれるのだろう。私なんて、どうでもいい人間なのに。


 そう思いつつも、心の奥底でずっと求めてきた無償の優しさ。人の手の温かみ。


 心がぎゅっと締め付けられる。


「うん。いっぱい泣きな。今は誰もいないんだから。」


 彼は優しく背中を撫でてくれている。


「よし、次の2つも早めに終わらせちゃおうね。そのまま泣いてていいけど、動かないようにね。」


 彼はゴム手袋をはめ直し、針を手に取った。


 皮膚を貫く銀色の針。刺される度に鋭い痛みが走る。


 私が声を漏らすたび、彼は優しく声をかけてくれた。


 私が「痛い」といった時は、必ず私の目を見て「大丈夫。もうすぐ終わるよ。」と言ってくれた。


 絶え間なく続く痛みとは反対に、心は柔らかくほぐされた。


 そして、ついに最後の一針が終わり、彼は糸をぎゅっと結んだ。


「はい、これで終わりだよ。最後に消毒して、包帯巻いておくからね。いい子いい子。よく頑張りました。」


 また腕に消毒液を塗られる。今度はあまり痛くはなかった。


 包帯をくるくると器用に巻く彼の手は、やはり大きくて、少しゴツゴツしていた。


「ありがとうございました。」


 涙ながらに、言う。


「いえいえ。お疲れ様。ちょっと痛かったね。」


 彼は2つの錠剤と、水の入ったコップを差し出した。


「これ、痛み止め。飲んどくと少しは楽だと思うからさ。飲める?」


 はい、と答えてその2つの玉を飲み込む。たくさん泣いたからか、水が美味しく感じられた。


 コップを彼に返そうとすると、突然彼は私の右手を握った。そして、


「突然なんだけどさ、君、ご飯食べてないでしょ?」


 あまりにも突然言われたので戸惑ったが、最近はストレスからか、食事が喉を通らなかった。


「あっ、はい。最近食欲が無くて。」


「そうだと思った。君さ、多分君が思ってる以上に顔色悪いし、痩せてる。」


 確かにそうなのかしれないが、それとこれと、なんの関係があるのだろうかと不思議に思った。


「痛いのついで、って言ったらあれだどさ、点滴しておこうか。」


 点滴。実は人より経験があるので、怖くはなかった。


「分かりました。右手ですか?」


「そうだね。今左手はこんな感じだし。ちょっと待っててね。」


 点滴の袋とブランケットを持って彼はすぐに戻ってきた。


 慣れた手付きで天井からぶら下がるフックのようなものに点滴を引っ掛ける。


 服の袖を大きくまくられる。


「はい、じゃあちょっとチクッとするからね。」


 言われた通り、若干の痛みが右手に走る。しかし、先程の痛みに比べたら、大したことはなかった。


「はい、いい子。終わるまで40分くらいかかるから、寝られるなら寝ちゃおうか。話はまたその後で。」


大きめのブランケットが、優しく体にかけられる。なんだかとても温かい。


 左手があまりにもズキズキするので寝られないと思っていたが、案外すぐに眠る事ができた。














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