2ー15

『……キズ君は、優しい人になるのよ』


 懐かしい声が聞こえた気がした。

 それは、キズタの姉が彼によく聞かせていた台詞だ。頭を撫でながら、優しく呟いてくれたのだ。


 夢、だろうか……? と彼はぼんやりと思い、けれどもこの温かい空間を見てどうでもいいことだと思い直した。

 どうでもいい。とりあえずはこの暖かな泡沫のような空間に身を預けよう。


 しかし、それは許されないことだった。


 目を瞑り開いたとき、目の前の光景は朧気なものから質量をもった冷たい空間へと変わっていた。辛うじてまだ夢の中だとは分かるのだが、その冷たさは、質感は妙にリアルで生々しかった。

 どこまでも暗くて冷たい。

 その瞬間、彼は必死にその先を見たくないと願った。それはある種の懇願である。


 夢の続きを見て、あの時のことを思い出したくない。あの、記憶を!


 必死に首元を探って鍵を探したが、あるべき場所には存在していなくて。もちろん、メイド服のどこにも存在などしていなかった。

 もう、目を瞑ることでしか逃げることはできない。否、それでも、記憶の扉は容赦なく開かれ彼の網膜にあの日のことを映し出した。。


 それは逃げられない記憶にして、痛々しいトラウマ。剥き出しの心を抉り深い傷をおわせた思い出したくもない現実。




 キズタが人の死に触れたのは小学校六年生の時だった。正確には、小学校六年生の卒業式の日だ。

 彼はそこで都合四人の死を目撃することとなる。未遂も合わせれば五人となるが。


 全ては一人の少年の自殺から始まった。


 卒業式を終え、担任が卒業生へ言葉を贈る最後の時間。担任が保護者を連れて来るまでの数分間で彼は自殺した。

 遺言を残して死のうとしたのだ。

 どのようなことを言ったのかはだいたい忘れた。ただ一つハッキリしているのは、彼はキズタ達に対して侮辱するような言葉も、嫌うような言葉も、呪詛も一つとして発しなかったことである。


 だって彼は自分自身を悪だと断じ、その悪を排除しようとしたクラスメイトのこと全員を賞賛したのだから。自分自身の悪口をさんざん言って、それから四階の窓から飛び降りたのである。


 ほとんど内容を忘れてしまったキズタではあるけれど、唯一覚えているフレーズがあった。


 ――人を守ることなんてできず、常に自分のことばかりを考えているようなやつなんだ!


 そう少年は自分自身を罵倒していた。

 キズタはその光景を忘れられない。例え忘れてしまっても、どこからか意識の水面に浮上するに違いない。それだけ、脳裏にこびり付いて離れないのだ。


 自殺する人は、ああも満足げな表情をするのだろうか?

 ああも綺麗に笑えるのだろうか?

 ああも、皮肉めいたことを言うのだろうか?


 分からない。キズタには今までの人生で、死のうと決意した瞬間がないから分からない。ふと思うときがあっても姉の遺品を頼ることでなんとか前に進むことができた。

 とはいえ、自殺した少年は結果的には死にきれなくて、ショックにより記憶を失っただけに止まったようだが、それは一種の死ではあると思う。少なくとも、自殺しようと追い込まれた少年はいなくなったのだから。


 帰りの車内は暗かった。

 空気が重々しいのもあったが、やってきた警察に事情徴収をされたため、時刻は十七時を回っていたのだ。

 一度帰宅した彼らは、そのまま父方の実家へと向かった。


 その最中で、キズタは一気に四人もの死に際を見ることになる。

 四人乗りの自動車に乗っていた彼らに、大型トラックが突っ込んできたのだ。山間の急カーブがあるところで、どうも運転手が操作を誤ったらしい。トラックは車ごとガードレールを吹き飛ばしてしまった。

 飛ばされたキズタ達の車は、もちろんそのまま山の中へと落ちていく。

 廻転することなく、そのまま前輪から山肌にぶつかったため、運転席は大きく変形してしまった。トラック衝突時にエアバッグはすでに展開していたため、キズタの両親は直にその衝撃を受けた。

 頭をぶつけ、割れ目からは血が流れ出ていた。


 成撫は焦ったように、キズタのシートベルトを解除し、意識もままならない彼を車の外へと突き飛ばした。背中を強く打ち付けたことで、朧気な意識が回復する。


 驚きながら、姉の方を向く彼が目にしたものはまさに地獄であった。


 トラックが、家族の乗っている車へと容赦なく落ちてきたのだ。もし数秒でも脱出が送れていれば、キズタは死んでいたに違いない。

 先程まで存在していたはずの車が、一瞬にして消滅する様を見た。アルミ缶を踏みつぶすような手軽さで消えていくのを見てしまった。

 その音は、さながら銃声のようで、目の前にいたキズタは、身体が痺れたように動かなくなった。その振動の衝撃は彼から思考を奪う。


 どれだけ呆けていたのだろうか。

 どれだけ虚空を見つめていたのだろうか。

 未だ震えが収まらないかのような脳で、彼は思った。


 何か、しなくては。――家族を見つけなくては!


 震える足で立ち上がって、成撫と両親を探した。

 先程の映像を心の中で否定して、頭の中でなかったことにして探す。絶対にどこかにいるのだと自分自身を騙して血眼で探す。

 涙は出ない。涙を出すくらいならと、彼は手を動かした。


 その瞳はきっと儚く揺らいでいたに違いない。絶望を押さえつけ、希望を見ようとしていた。残酷さや惨さから逃れて優しくて甘い幻想を追い求めていた。

 実は家族が脱出していて、探し回っていたら突然登場するかも知れない。いや、かも知れないではなくて、そうなのだ。それで、皆で無事を喜んで笑うのだ。笑って、抱きしめ合ってそれから……。


 でも、どれだけ探そうと死者を見つけることなんてできない。もし、そんなことが許されたのなら、世の中は死人を探す人達で溢れかえるだろう。だから、数時間探し続け、手を血で塗らし、もう立てなくなった彼のもとに家族が帰ってくることなどない。

 あり得ない。


 ゆえにキズタに許されたのは、この現実を一生懸命受け入れて、痛みに耐えることだけである。そうなって然るべきだった。

だと言うのに。

 キズタは力の入らない腕に無理矢理力を入れて、ポケットの中から一本の鍵を探した。その日の朝、成撫から貰ったものである。

 冷たいはずなのに、それは彼の心を温かくした。まるで優しさに包まれているようで、こここそが自分のいるべき場所のような気がした。

 そこに成撫がいるような気がして、キズタは手を伸ばす。伸ばして何かを掴みたかった。


でも、キズタが掴んだのは虚無であった。

 何もない。

 それが分かると、どうしようもなく虚しくて、頭の奥がすうっと冷たくなる。意識が回復する予兆を彼は感じ取った。

 頭が冷たくなるにつれ、目の前がぼやけていく。思わず目を閉じてしまう。




 そして再び目を開けると、キズタは冷たい大地の上でうつぶせになって倒れていた。

 霞がかった視界の中、自分のおかれた状況が分からなくて、とりあえず起き上がろうとして、でも、痛みで身体が動かなかった。

叫びそうになるのを必死に抑える。どういう状況なのかようやく思い出したのである。


 『妖精族エルフ』の青年の死体を見た瞬間、いきなり生じた暴風に巻き込まれるようにして彼は吹き飛んでしまい、その結果意識を失っていたのだ。

フーリアはどうなったのかと、視線だけで探す。土埃が舞っており、ひどく視界が狭かった。その中でひどく物騒な音が聞こえてくる。


 金属同士を打ち合うようなソレではない。もっと、原始的で暴力的な鈍い音。すなわち、打撃音である。

 砂塵は拡散し、次第にその中の様相をキズタへと伝えた。

 ボロボロの布を身にまとった少年が、ズタズタになった何かを蹴っていた。その何かが明らかになった時、彼は目を見開く。


 そこには、完全なる敗北を迎えたというのに、なおも執拗に追撃を受けて呻くフーリアの姿があった。


 その光景はしかし、ある程度予測していたことだった。圧倒的不利な状況で戦いを挑んだのだから、こうなるのは目に見えていた。

 目に見えたいたはずだと言うのに。


 キズタの頭の中は白一色に染まった。何も考えられない間が生じ、次いで怒りが弾けた。

 彼が思い浮かべたのは、フーリアの瞳だった。

 儚くも、何かに抗うようにして火を灯す瞳。あの光を曇らせ、汚すようなことはさせたくはなかった。理屈よりも感情が優先された。

 ――否、理屈だけではなく、全てにおいてその感情が優先される。


 彼はそれに何を見いだしたというのだろうか? どうしてそこまでして守りたいと、救いたいと思うのか?


 キズタ自信その問に対してしっかりと答えることはできないだろう。だって、それは心の底から湧いてくる抗いようもない感情なのだから。普段は心の奥深くに封印され、決して表層に出ることのない想い。

 そんなものが一度動き出したら、理性などで抑えられるはずがない。他のあらゆるものでさえ障害にはならないだろう。少なくとも、彼の中にそこまでしっかりとした枷は存在しない。


 ゆえに痛みさえも、彼は無視してみせる。

 本来ならば、ただのたうち回ることしかできないはずの身体で立ち上がった。全身からは筋肉の悲鳴が聞こえ、骨の軋む音が鳴る。


 ――だが、それがどうした。


 二本の脚でしっかりと立ち上がった彼は、右手を固く固く結んだ。

 今まで生きてきた中でも最も強く拳を握る。それは、彼が生涯で初めて作り出した殺気の形だ。殺傷能力は低く、リーチも短い。喧嘩下手どころか、喧嘩すらしたことのない彼が作ったところでおよそ脅威にもならない武器。


 ――だが、それで十分だ。


 キズタは無言のまま走り出した。激しく動く視線は、けれども少年を捉えて放さない。

 人間を超えた使い魔の脚力は、彼の予想を遙かに上回る速度で接近したが、以前のように恐怖は覚えない。それすら置き去りにしたのだ。

 わずか四歩で二十メートルを踏破する。


 異変に気がついた少年が、驚いたように振り向いた。

 彼の目に映るのは、過去に一度もしたことのないような鬼気迫る自分の表情。

 キズタの殺気を込めた拳は酷く不格好だった。姿はボロボロだったし、それ以前に上半身が前のめりになりすぎていた。それでは、腰は上手く使えず、威力がでない。

 とはいえ、それは人を殺す威力が、意識を刈り取る威力へと落とされただけに過ぎない。

 最後の最後に心の中で彼は叫んだ。


 様々な想いを載せた拳は、狙い澄まされたように少年の頬へと吸い込まれていった。

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