2-13
人が沢山いる。
それがフーリアが王都に来た時の感想だった。婚約者の男に会いに行くために、何度か来たことはあったが、その時は、馬車の中に居たので外の景色を見たのはこの時が初めてだった。
人が沢山いて、そして賑やか。誰もが気持ちよく笑っているように見えた。
でも、少女はそれを受け入れることができなかった。どれだけ道を進んでもその景色は変わらない。ゆえに、その場で笑えていない自分はこの場から離れなければならない存在のように思えた。
彼女は笑顔を、賑やかさを避けるようにして、人のいない方へと意識的に歩みを進めた。そうなると自然、彼女はやがて裏路地へと辿り着く。
舗装してあった表とは裏腹に、そこは所々地面が剥き出しであったし、そこに水が溜って地面はぐちゃぐちゃだった。朽ちた建物には、カビや苔がむしていてひどく空気が悪い。彼女は思わずそこで数度咳き込んでしまった。
「ゴホッ! ゴホッ!」
「おい。何やってるんだ、お前? はぐれた……っていう風には見えないしさ」
「……!?」
予想していなかった返答に、フーリアは弾かれたように青年の方を見た。
ひどい格好だった。ボロボロの布を身にまとい、その下にはズボンしか着用されていない。ほっそりとした、けれども筋肉質の上半身は剥き出しにされていた。
思わず叫びそうになったフーリアだったけれど、それを事前に察知した青年は、彼女の口に手で蓋をした。
「お、おい。こんなところで大声なんて出すな! 変なのに見つかったら終わりだぞ」
「そ、それは申し訳ございませんでしたわ」
「……」
「どうかなさいました?」
「変な喋り方だな、お前」
この時、彼女は生まれてきたから一番の衝撃を受けた。魔法と言葉遣いには多少の心得があり、その自信を真っ向から否定されたのだ。ショックを受けるに決まっている。
「おか、おか、おかしい……?」
「おかしいよ。すっげえ、おかしい」
青年はそう言って笑った。その表情はとても穏やかで、まるで憂いとか悲しみとかそういうものからは無縁のように彼女には思えた。それは、不自由を感じることなく暮らしてきた彼女にも当てはまるような、似ている笑い方だ。
でも、何かが圧倒的に異なる。少女にはそう思えて仕方がなかった。
そして、彼女はその青年に興味を抱いた。
でも、どうすれば彼に付いていくことができるのか全く分からない。友達と呼べる人はいたけれど、全て親が紹介してくれた。メイド達は、彼女が生まれたときから、さながら手足のように働いてくれ、必要最低限の会話しか交わしたことはなかった。
簡潔に言えば、フーリアはコミュ症なのだ。
どうにか声をかけようとした。でも、全て口の中ですっと溶けて消えてしまい、口を開けた時にはもう何もない。声をかけようとして失敗するというやり取りを数度繰り返した後、結局、どうすることもできなかった彼女は、目で訴えてみることにした。
フーリアのメイド達は大変優秀で、彼女が視線を向けるだけで全てのことを承知し、求めた結果を提示してくれた。
しかし、それを見ず知らずの青年に求めるというのは、ひどく無謀なことだった。屋敷の中という選択肢が限られた中で、しかも長年彼女の世話をしてきたからこそ、そのような対応が可能だったのである。
普通なら、首を傾げて終わる。最悪、喧嘩を売っているのかと誤解されてしまう。
でも、青年は空気を読みのが上手かったのか、その視線でおおよそのことを理解したようだった。
「なあ、何か言うべきことがあるんじゃないか?」
「いえ、その。わたくしなんかは……」
「ダメだぞ? やりたいことは口にしなきゃ。誰かに習わなかったか?」
「いいえ」
「んー。じゃあ、飯の取り方は?」
「お食事は出されるものでしょう?」
「……じゃあ、何ができんの?」
「……。こ、言葉遣いと、ま、魔法の勉強を、少々」
青年が眉を寄せたようにフーリアには見えた。彼女はその顔がひどく恐ろしいものに映った。だって、その表情は彼女がミスしたときにマナーの教師と、母親が浮かべる表情なのだから。この後に来るのは、叱責か嘆きか。いずれにせよ、彼女が嫌いな言葉がくるに違いない。
震える声で言う。
「だ、ダメでしょうか……?」
彼が手を動かそうとした瞬間、彼女は目を瞑る。もしかしたら手を上げられるかも知れないと思ったからだ。
しかし、待てども待てども、殴られるような衝撃はやってこなかった。
代わりに、ふわりと何か固いものが頭を撫でた。
「すまん。別に、失望してた訳じゃなくて、その、どういうことに役立つのか、考えていただけだ。怖がらせたのなら本当にすまん」
「えっ。えっと、その……」
「大丈夫さ。ゆっくり言葉にするといい。俺はそれまで待っててやるからさ」
そう言って何度も何度も彼は少女を撫でた。気恥ずかしさのあまり、頭の中の混乱が激しくなった彼女ではあったけれど、それは直に慣れへと代わり、最後には安心感をもたらしてくれた。
気がつけば、フーリアは言葉を口にしていた。
「……一緒に、一緒にいさせて」
「もちろん。じゃあ、行こうか?」
「行くって、どこに……?」
「そりゃあ、俺達の家だよ、家。もちろん、お前のでもあるけどな」
「え? でも」
「どうせ、行くところないんだろ? というか、よくあそこにいたな。ここら辺は危ねえんだから、基本的に一人で動くなよ?」
「でも、あなたも一人じゃない?」
「俺はいいんだよ。どうしても一人でいたかったし、それに、俺は強いからな。少なくとも、ここ一帯は俺の庭みてえなもんよ」
「自分の庭の癖に、危ないのね。全然管理できてないじゃない!」
「おっ。痛いところ突いてくるな」
そう言って青年が笑うものだから、釣られてフーリアも笑ってしまった。
しばらく歩くと、古びた建物が見えてきた。といっても、他の建物との差異は少ない。少なくとも、初めて来たフーリアには他のものとの違いが分からなかった。
彼はそこに躊躇いもなく入ると、椅子に座ってくつろいでいる数人の『
「おう、帰ってきたぞ。あと、家族が増えたぜ」
フーリアの背中が優しく叩かれた。不思議な感覚だった。たったそれだけの動作だというのに、彼女は自分が何を言えばいいのか理解できたのだから。屋敷に住んでいた頃には決してできなかった体験だ。
「わたくしはフーリアと申します。皆様、どうかよろしくお願いいたしますわ」
それだけだった。簡潔な自己紹介ではあったけれど、スカートをつまんでお辞儀する様に、他のみんなは釘付けにされた。息を呑む音すら聞こえてきそうな雰囲気。
変な空気に気がついた彼女は視線を上げて固まる。いったい、どうすればいいのか分からないのだ。視線で青年に訴えてみたけれど、今回は完全に呆けていた。
とはいえ、このまま放置するわけにもいかず、目を瞑って覚悟を決めた。
「……な、何かお話してください!」
再び沈黙する空間。しかし、それはわずかな時間だった。
「ップ。あははは! 面白いだろ、こいつ。ちょっと人見知りする奴だけど、まあ、みんなも仲良くしてくれよ」
青年はそう言った後、思い出したようにフーリアは見た。
「おっと、言い忘れていたが、俺の名前はクラドだ。で、ここは『ウィング』って言うんだが、まあ皆の名前はそれぞれ聞いてくれ」
こうして、フーリアとクラドは出会い、『ウィング』に所属した。
彼女はそこで一年間を通して様々な体験をすることになる。
まず、彼女は皆に文字を教えた。『ウィング』の中で文字を知っていたのはクラドだったけど、その彼ですら非常に怪しいものだった。というわけで、文字を一から教えた。そこで彼女は、人から頼られること感謝されることを学んだ。
人とご飯を食べるのは楽しいことだと知った。
仲間の笑顔を見ると心が温かくなることを知った。
人を襲う時、心が削り取られることを知った。それでも、仲間に対する思いの方が上であることを実感した。
人の皮を裂く、実に生々しい感触を知った。
人が死ぬとき、憎悪の視線を向けてくることを知った。それを向けられると、気分が落ち込んで一日中ご飯を食べられなくなることを知った。
それでも、数日経てば食事をし何時ものように過ごせることを知った。
髪を切り、口調を変えることで過去の自分を殺せることを知った。
お腹よりも首の方が的確に殺せることを知った。何よりもまず、足を削いで機動力を奪ってから殺すのが楽であることを知った。
必死に生きるあまり、人を殺すことの意味を考えなくなったことがあった。
でも、結局は目の前で笑う仲間も、ここに連れてきたクラドも、もちろんフーリア自身も紛れもなく生命であることを思い出し、逃げることはできないのだと学んだ。
仲間が死んだ時、こうも悲しいものなのだと学んだ。同時に湧いてくる怒りは、理不尽なものだと知りながらもどうしようもないのだと識った。
罪悪感から命を絶つ家族がいた。その子はまだ家族になってから数週間しか経っていなかった。
アジトにしていた建物が燃やされた時、ひどい虚無感にうちひしがれながらも、逃げ延びなくてはならず、まるで自分が分離するような状態になった。逃げのびた家族や仲間は、皆呆けたようにぼーっとしていたが、クラドはその中であっても笑顔を絶やさず、一人だけもくもくとするべきことをこなした。
クラドが毎日笑っていることに気がついた。何があっても、どんな目に遭っても、それでも笑っていた。
一年経った今でも、フーリアはその答を、意味を知らない。
でも、それを知るきっかけはもう潰えてしまった。
フーリアの視線の先にはクラドの死体だけが捉えられている。
もっと皆でお話ししたかった。
もっと皆と一緒に食事をしていたかった。
もっと皆の笑顔を見ていたかった。
できれば、最期まであなたの笑顔を見ていたかった。
辛いことも嬉しいことも全部。酸いも甘いも全部経験し尽くしたかった。それで、もう悔いもないと笑い合って、あなたと笑いながら死にたかった。
きっと彼女には、そのうちから湧き上がる感情がなんなのか分からない。言語化できるほどハッキリとしたものではないから。ましてや一文字で表すことなどできない。
やがて、彼女の思いは悲しみと憎悪の渦に完全に呑まれてしまう。
フーリアは叫んだ。しかし、それが何なのか聞き取れた者は誰一人としていなかっただろう。それは言葉ではなかったし、第一、彼女自身、その意味を理解できていたとは到底思えない。
それは、ただただ人を呪う呪詛だった。黒くて醜い叫びだ。
刹那、感情と魔法に呑まれた少女は一歩を踏み出した。いや、それは一歩というよりは、もはや飛翔である。暴力を振りかざす化身の移動。あらかじめ退避していたはずの『ライトニング』のメンバー数人が吹き飛ばされる。
カイとの間に存在していた三十メートルをわずか二歩で踏破する。
ナイフ同士はぶつかり、互いに火花を散らした。
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