2ー11

 キズタが違和感を覚えたのは、移動を開始してから数十分が経過した時だった。

 先程までは存在しなかった空を覆う布の存在に気がついたのだ。灰色のそれは空の色と同化しているため、よく見ないと分からない。使い魔として視覚が強化されていなければ、彼は気がつくことはなかっただろう。


「何だあれ?」


 思わずそう呟く。キズタにしてみれば独り言のつもりだが、フーリアは親切にもそれに答えてくれた。


「あれは、布でこの近くを隠しているんです。ここは我々『ウィング』のテリトリーですから。見覚えありませんか、あなたを初めて連れてきたところですよ」 


 フーリアはそう言って、数十メートル前方のある建物を指さした。古色騒然を通り越して、もはや朽ち果てているそこには、血液らしきものが所々付着していた。

 確かに一時間近く前に見たものと変わりない。

 最初は逃げることに必死で認識できていなかったのだろう。

 ただ、彼にはそこが最初に捉えられた場所だと言われて微妙な違和感を抱いた。魚の小骨が喉に引っかかった時のような不快感を彼は感じた。気にならないように努めても、どうしても気になる事柄。

 しかし、具体的に何がと言われても答えることはできない。ゆえに、彼は一旦その疑問を無理矢理にでも呑み込むことにして、話を続けた。


「でも、どうして? どうして自分達のテリトリーにこんなものを?」

「天敵がいますから」


 それはひどく簡潔な言葉だった。だが、それだけでキズタは何とかその天敵の正体を想像できた。


 ――まあ、僕は上から君達を暇な時にでも見ているから、頑張って逃れなよ。

 そして、

 ――火は風を喰らい、風は土を舞わせ、土は水を飲み込む。


「ハラリエルか?」


 フーリアは頷く。


「魔法に影響が出たら困りますから」


 魔法は【神玉】から【魔力ライン】を通して補給される魔力を用いて発生させられる。他人から借りたもの――というより、神から借りているものを使用するのだ。これが生命の身に余らないはずがない。だから、魔法使いは冷静でなければならない。焦って失敗する程度ならまだいいが、下手に暴走させるのだけは避けたい。

 できるだけ精神的な負担をなくすために、彼女達身を隠すことにしたのだ。その気になれば王都を見下ろすことのできるあの【有翼族エンジェル】の視線から。

 彼女はおよそそんな感じのことを彼に伝えた。実際はもう少し歯抜けの情報だけだったのだが、彼は何とか頭の中で補完した。


 それと同時にハラリエルのことを思い出したせいか、あの時の警告が頭の中に浮かんだ。


――警告する。君には、しばらくのうちに何かしらの破滅が待ち受けている。


 どこか凍てつくような声。警鐘を鳴らす者にして時間を知らせる者の声。

 嫌な予感がした。

 そう思った時、彼は足を止めてしまった。否、止めるほかなかった。それからすぐに、前へ進もうとしていたフーリアの肩を抱くと、そのまま横に転がった。建物まであと十メートルを切ったあたり。彼はそこに死線を見いだした。

 直後、彼らがいた場所にナイフが突き刺さった。


「ッチ! 外したか」


 その舌打ちにはひどく聞き覚えがあった。先程、キズタをおそった少年の声である。

 地面を転がりながら、そのまま物陰に二人は身を潜めた。


 それは偶然と言うほかない。何らかの根拠があったわけでもないのだから。精々が漠然とした嫌な予感を感じただけである。だが、それが二人を死から遠ざけた。

 一時的であっても、窮地を逃れた彼の額には冷や汗がぶつぶつと現れていた。次の瞬間には訪れていたかも知れない死。それを彼は辛くも回避したのだ。安堵するなと言うのは酷であったし、こうなってしまっことに対する後悔はいやでもしてしまう。


 フーリアは確かに様々な面でキズタの知識を上回っていたと言えよう。特に、魔法やここの事情などは必要以上に保有していた。


 しかし、裏を返せばそれだけなのだ。


 教師が全ての面で生徒より優れているとは限らない。彼はそんな当たり前のことを忘れていた。アンやルシラとは違って、年下であるはずの彼女に彼は頼りすぎていた。

 盲目、と言っていいかもしれないくらいに、彼は彼女の作戦を疑わなかった。異世界に来て、自分の常識は通用しないと思い、行動を他人に委ねきっていたのが裏目にでたのだ。

 あらかじめ、ここを通ると言えばキズタだって反対していた。だって、あの少年は言ったのだから。


 ――また今度改めて会いに行ってやるさ! と。


 覚えていたから対処できる。しかし、あの時冷静さを欠いていたこの少女はどうだろうか? あの後、人にさんざん解説をさせられたこの少女はしっかりと記憶できていただろうか?

 キズタのお粗末な脳みそと比べてはならないことは、彼自身が重々承知していたが、それでも言わせてもらうと、十二歳の彼はそんな状態で覚えていられるはずがなかった。


 ここにおいて、ここまで追い詰められて、ようやく彼はフーリアがまだ年端もいかない女の子であることを思い知った。

 そして、思い知るにしてはこのタイミングはやや遅すぎた。


「に、逃げ道は!」

「ありません。完全にふさがれています!」


 緑色の光彩をうっすらと帯びているフーリアは、彼の悲鳴にも似た言葉に答える。Y字型の通路にはそれぞれ数人の人影が見え、『ウィング』が根城としていたと思しき建物ごと完全に『ライトニング』の制圧下にあった。

 退路もなく、勝ち筋もない。どころか、フーリアが掲げていた作戦すら怪しくなってきた現状を思うと、そこは彼らの死地に他ならないだろう。

二人が眠るべき灰色の棺桶。


そんな幻想が彼の頭の中に、妙に生々しく浮かんできた。

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