2-5
時計塔から離れた二人の間には微妙な沈黙が漂っていた。
言うまでもなく、ルシラの機嫌がすこぶる悪いのである。原因は容易に想像できたが、キズタがそれを上手いこと取り除いてあげられるはずもない。
何かを言おうとして口を閉ざすという、実に無意味な行動が連続した。
「……何やってんだ少年?」
「……別に何も」
「嘘吐け、絶対何かしようとしていただろ? どうした、ルシラさんに何か用か?」
「用って程の用じゃないけど」
よもや、機嫌を直してくれなどとは言うまい。言っても、怪訝な顔をされて終わるだけである。最悪、機嫌をさらに損ねてしまう可能性だっているのだ。
「とぼけんなよ。って、ああ、そういうことか」
なかなか目を合わせないキズタに対して、ルシラは何か合点がいったように頷いた。
「確かに少年は曖昧な位置にいるよなあ。悩みどころだよなあ。世間の目を取るか、それとも己の正義を取るか。どちらにせよ、厳しい選択を迫られちまうよなあ」
何をどうしたらそんな言葉が出てくるのか、全く理解できないキズタは反射的に聞き返していた。
「え、どういうこと?」
「え、アレだろ? 少年は用を足したいんだろ? で、女装男子のジレンマが発動しちゃったわけだよな?」
「何だよ、それ……。初めて聞いたぞ、その単語」
ヤマアラシのジレンマ程度なら聞いたことがあったが、そのようなあまりにもニッチすぎる言葉は聞いたことがない。
「そりゃ、そうだろ。オレが今考えたんだからな。ちなみに、意味としては男なのに女装をしているせいでしたいのにできないことだな。したければ、女装を止めなくてはならなくて、でも、それをやっちゃうとアイデンティティが消失しちまう。そういうジレンマを例えているんだ。……で、はやくトイレに行きたいんだろ? 近くの宿舎にでも行こうぜ」
「大丈夫だから! まだ、尿意は催していない」
「じゃあ、そのうち出るんだろ? 行く先もないんだし、適当に用を足してきな」
「いや、違うから。別に行きたくはないんだ」
「じゃあ、どういうことだ?」
一瞬躊躇いを覚えるが、すぐにこの程度なら聞いても大丈夫だろうと、キズタは思い直した。というのも、空気がガラリと変わっていたのだから。
もとより彼は人との付き合いがあまり上手くない。消極的な性格のせいで会話には微妙な違和が生じ、人との距離感もあまり上手く掴めない。そんな彼だからこそ、今回もルシラの心情を読み間違えたのだろうと思ったのだ。
「……なんか、ルシラの機嫌がさっきからよくないみたいだからさ」
彼女はそれを聞いて笑った。
「ああ、そのことか。いいっていいって、あれぐらい。というか、アイツとはいつもあんな感じなんだ。それでも腐れ縁よろしく付き合ってるんだ。アイツがどんな人間で、どんな言葉を使う奴かぐらい心得ているよ」
それを聞いてキズタは肩の荷が下りた気分になった。重圧のような空気が消え失せる。
ルシラが彼をハラリエルの前まで連れて行ったのだ。それで気分を害するなんて考えてみればおかしい。苦手な人の下にわざわざ知人を連れて行くなんて愚かなまねは普通紙ない。キズタにだってそれくらい分かる。
あの暴力的なまでのマウントの取り合いは、いわば挨拶のようなもので、ずっと行われてきたものなのだろう。傍からみれば険悪に映っても、実は培ってきた信頼の結晶とかそういうものなのだろう。
そう考えてみれば、なんとも微笑まし……ほ、微笑ましいやり取りではないか。そう無理矢理思い込んだ彼は、思い出したようにルシラを見た。
「アイツは変に皮肉屋で、それで人のことをおちょくらないと生きていけないような奴なんだよ、うん。どんな時も感情を表現しないし、斜に構えた奴だよ、本当。その癖、『
ん?
「あー、やっぱダメだわ」
あ、えと、ちょっと。
「すまん、今からちょっとアイツ殺してくるわ」
「待ってくれ。めっちゃ切れてるじゃん、お前!」
「そりゃあ、あんな殺したくなるような顔してたら、殺したくなるよなあ!?」
エンジェルスレイヤーになってくると、軽々しく言い放つルシラをキズタは精一杯引き留める。全体重を掛けて少女に抱きつくという絵面的にかなり危ないものがそこにはあった。
幸いなことに外見だけならばキズタは少女なので、傍目からは二人の女が痴話喧嘩を起こしているようにしか見えないのだが。
数メートルをズルズルと引きずられて、ようやくルシラは頭が多少冷えたようだった。
「ちょっとお花を摘んでくるから、少し待っててくれ」
そう言い残して近場の宿屋に入っていった。
あれだけ用を足すという言葉を連発しておいて、いざとなるとかなりお上品な言い回しをしてきたことに、彼の心は消化不良気味だった。
その曖昧な気持ち悪さを何とか誤魔化すために、彼はぼんやりと人通りを眺めた。
『
羽を隠した『
二ノ国を主な拠点とする『
名前からもその痕跡がうかがえよう。『亜』人族だなんてただの蔑称だ。ゆえに、彼ら彼女らを総称するときは、さらに細かく種族をわけるのが正しい。
――『
などと昨日教えられたことを思いだしながら、彼はルシラを待っていた。
もし、ここでキズタがあることに気がついていれば、この後の展開は大きく変わっていたに違いない。または、ルシラの頭が少しでも冷めていればあんなことにはならなかったはずだ。
ここにおいて二人は大きな間違いを犯していた。最初に交わしていたはずの、離れないという約束を両者は互いに破り合ってしまったのだ。
数分の
地球からやってきたキズタにとってその時間は窮地に立たされるに足るものだという認識はない。ルシラにとっても戦場ならまだしも、街中だからという慢心があった。
だが、実際はその時間が命取りとなった。
無防備な人間を確保して身を隠すなど、数秒で十分だったのだから。
「――動かないでください」
「え?」
自分でも驚くほど間抜けな声が零れた。何が何だか話からにうちに、けれども、絶対に動いてはいけないのだろうという気配だけを確かに感じたキズタは、頭の中の混乱をそのままに、あれよあれよとままに裏路地の闇の中へと消えていった。
後には何も残らない。
ルシラが再び外に出て全てを悟った瞬間の顔は相当のものだった。少なくとも、何時もの彼女を知る者なら、自分の目を疑ったに違いない。それだけ彼女にしては珍しい表情を浮かべていた。
キズタが拉致された場所は、路地裏にあるひどく古びた建物だった。そこにこびりついた血は、しかしそう古いものではない。下手をすれば一日か二日程度しか経過していないように彼には思えた。
散らばる血痕の付着した剣。油が浮いた得体の知れない液体に、むせ返るような血の臭い。
――これから先、キズタがどのような目に遭うかなど想像に難くないように思われた。
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