2-4

 逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ――っ!!


 本能が発する警告に従い、キズタは全力で街の中を走っていた。街は街でも正確には裏路地だが。

 全力疾走で数分間走り続けても息が切れないのは、彼が常日頃から鍛えているからではない。使い魔になったため身体能力に補正がかかっているだけだ。


 しかし、実感のない能力は、使えば使うほどキズタの心に負担がかかる。

 まるで、上空で透明なガラスの上を歩いているような気持ちだ。一歩先には、もしかしたら何もなく、そのまま落下してしまうのではないかという恐怖。一瞬先が保証されていない不安。

 ギリギリと胃が痛む。


 足はまだまだ動けるはずなのに、何故だか重い。

 それでも必死に足を動かすのは、止めた先には死しかあり得ないからだ。

 彼の後ろに刺さるは、小型のナイフ。執拗以上に足を狙ってくるのは、できるだけ身体を傷つけず、けれども機動性を奪うためだろう。


 トス、トス、トス――!


 地面にナイフが突き刺さる度に、キズタは自分の寿命がすり減っている様を幻視する。その音が、死神の足音のように彼には聞こえた。


 彼は首下に掛けた鍵を握る。――強く強く。


 そうすることで、半ば無理矢理恐怖から身を離した。ドロドロとしたどうしようもないものに呑まれることを避ける。

 再びナイフが投擲される。それを毎度のごとく彼は躱しきる。躱しきる言うよりは、移動する的に決定打を打ちかねているといった感じだ。一直線に地面に突き刺さるナイフ。


 だが、唐突に天運は彼に牙を剥いた。


 キズタは確かにナイフをことごとく置き去りにしていた。しかし、放たれたうちの一刀が彼の走ろうとしていた場所に落ちる。石でできた路にぶつかったそれは、腹のあたりから真っ二つに折れてしまう。


 その破片が彼の足を軽くなでた。


「――――っ痛!!」


 それだけだった。

 本来ならば問題なく走れていたはずの負傷だが、その痛みは彼が押さえ込んでいた恐怖や不安を噴出させた。

 結果、不自然な位置で彼の足が止まった。


 それは一瞬のことだったが、その一瞬さえあればバランスを崩すには十分すぎる。立て直そうにも、何時もの自分以上の力が出る身体では、上手い体重移動の加減が分からない。

 足がもつれ、前のめりになったキズタの身体は、いつも以上の勢いでもって地面に転がった。


 ――――トス!


 目の前にナイフが一本投擲された。

 まるで、逃げ道はないのだと諭されたような気持ち。

 どうしようもなく怖くて、不安で仕方ないのに身体はそれを受け入れようとするかのごとく動かない。


――もう、ダメかもしれない。


 そんなことを一度思うと、身体は徐々に徐々に冷たくなっていくように思われた。諦念という名の毒に蝕まれていくように何もかもが重たい。

 彼は今更ながらに、自分の迂闊うかつさを呪う。


 どうして、キズタがこうも追い込まれているのか、そもそも、どうしてルシラがこの場にいないのか。その理由を知るには今から一時間ほど前に遡る必要がある。

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