1-5

 『ルインストウ』――それが異世界の名前らしい。


 もちろん、キズタはここが異世界であるかどうかは疑わしいと考えているので、鵜呑みにはしていない。そういう名称の未開の国があるのだろうという認識だ。それと同時に、キズタがアンから感じ取った奇妙な印象はコレだったのかと得心した。

 住む世界が違っていて、同時に外国人よりもかけ離れた存在。異世界であれ未開の国であれ、それは実に的を射た感想なのだから。


 もっとも、彼のこの感想は実は少しだけズレているのだが、そのことに彼が気づくのはまだまだ先の話である。


「……『ルインストウ』」

「そうよ。信じられないかもしれないけど、ここはアンタ達の言う異世界なの。私は使えないけど魔法もあるわ。探せばそっちの世界にもあるらしいんだけど、本当に珍しいみたいだから、今度見せてあげる。ここでは極々一般的なものだから。そうすれば、ここが違う世界だって分かるでしょ?」


 今度見せてあげると言われたところで、キズタがここを異世界であると信じられるはずもない。そういう思いが、表情に出ていたのだろう。アンは少しだけ困ったような表情を浮かべ、思い出したように口を開いた。


「そういえば、アンタのところには、季節があるんだっけ? しかも四つも」

「ええ、まあ。全ての地域がそうという訳ではないんだけど」

「そうなのね。文献には四つ存在するって書いてあったから、てっきりそうだと思ってたんだけど、案外複雑なのね」


 アンはそう言いながら、最初に取り出した羊皮紙以外を丸めて、テーブルの隅の方においやった。それから、最初に見せた地図をもう一度見るように指を指して催促した。キズタはそれに大人しく従う。


「五つの国が見えると思うんだけど、北東西南中央の順番に、それぞれ一ノ国『オリジック』、二ノ国『アーティック』、三ノ国『マギック』、四ノ国『オブザック』、そして最後に、現在私達がいる零ノ国『アブセック』となっているの。

 でね、この国の前に付いている数字は、いろんな意味があるらしいの。それこそ、一から四の数字の順で神様が降臨したとか。他にも、この順番で住んでいる種族が出現していったとかね。まあ、そう考えていくとこの零ノ国は、神も種族も出現しなかった地になっちゃうんだけど」


 彼女はそう言うと、立ち上がり窓辺に向かって歩き出した。

 キズタはこの話が先程の話題とどう関わりがあるのか全く理解できなかった。しかし、ここで思考を放棄する訳にはいかない。どの情報が彼を助けてくれるのか分からないのだから。脈絡のない会話に戸惑いながらも、何とか食らいついていく。


「でも、ただ一つ確かなことがあるの。先程までのは、あくまでも伝説の域を出ないけれど、ただ一つ、季節の数という点に限っては全くその通りなの。一ノ国は常に気温が高いし、反対に四ノ国は春夏秋冬とまさにアンタが過ごしてきたであろう世界の通り。二ノ国は雨季と乾季が、三ノ国には春夏秋が存在する。

 じゃあ、ここは? 零ノ国はいったいどんなのだと思う?」


 どう思うと聞かれたところで、キズタが分かるはずもない。会話の流れを汲めば、季節が一つとして存在しないということになるのだろうが、はたしてそれがどういうことなのか分からない。想像もできない。

それ以前に、そもそも国ごとに気候が違い過ぎるのは、あり得ないと思った。東西南北中央という位置関係で離れてはいるものの、その程度の距離で気候が変化するとは到底思えない。天気が違ってくるのは不自然ではないが、気候までいくと簡単には呑みこめないのだ。


 それこそ、ここが異世界であると認めることと同じくらい難しい。


 数時間前の、空模様を思い出そうとしたが、あの時は、目の前の少女に気をとられすぎていたため、ぼんやりと灰色の景色が見えた気がするが、記憶としてはひどく頼りないものだった。

 答えられない彼を見て、アンは言った。


「想像できないでしょ? なら、これを見たらアンタはここを異世界だと大人しく認めなさい。じゃないと、話が進まないもの。魔法、気候、種族、魔獣、妖精とアンタのいた世界には存在しなかったもの、違うものが当たり前のように出てくるんだから、今までの感覚をある程度捨てて貰わないと説明しづらくて堪ったものじゃないわ」


 ここでようやく話がつながった。季節の話も、それが異世界の証拠になりうる理由も全て明白となる。

 キズタがそう思った直後、レースで閉ざされていた窓を彼女は勢いよく開けた。そこには――!


――そこには鈍色の空が広がっていた。


それは単なる曇り空か。否、違う。

 いくら雲が隙間なく空を覆ったとしても、こうはなるまい。風に流される雲の動きを確認することぐらいはできるのだから。故に、キズタの見た空はいつもの見慣れたものではないことが分かる。

 まず、彼はコンクリートでできた天井かと見間違えた。それ程までに天上がのっぺりしていたのである。しばらくして、ようやく正しい表現の仕方を見つけた。


 いや、最初の表現でよかったのだと知る。


 鈍色の空。そう、青空ではなく鈍色の空である。そこには、雲どころか太陽さえも存在していない。

 正真正銘、鈍色の空であるのだ。


 およそあり得ない光景。


 言葉にできない驚きが漏れる。

 百聞は一見にしかずとは言うけれど、まさに彼の心境はそうであった。いくら、異世界だの五つの国だの言われたところで、理解しようとしても信じることはできなかったが、この光景を見てしまうと、信じざるを得ない。

 自分のいた世界とは異なる光景があれば、ここを異世界と認めないわけにはいかない。


「どう? 納得してくれた?」

「いや、まあ、……うん」


 キズタ本人は認めたからこその頷きだったが、どういう訳かその声はひどく沈んでいた。それが、異世界に来た人間でなくとも、知らない土地に来た人間が見せる当たり前の反応であることに彼は気がつかない。


 自分自身の気持ちを理解できない。


 彼がそういう気持ちになったことは何度かあるが、その度に胸の鍵に頼ることで気持ちを断ってきた。強制的にシャットアウトすることで痛みから逃げてきたのだ。

 鍵に触れれば痛みから逃れられる。故に、キズタはその痛みの理由を理解し得ない。

 彼の手は今回も自然と胸の方へと伸ばされていった。理屈は分からないが、鍵に触れれば全ては解決すると心の中で思っているのだ。


 しかし。


 今回ばかりは、勝手が違った。

 冷たい金属に右手が触れるよりも、数秒前に、キズタの髪がふわっと撫でられた。


「え?」


 声が漏れるのと同時に、彼は前を見た。そこには、背伸びをしながら必死に頭を撫でるアンの姿があった。

 思考がフリーズする。いったいどうして、このような状況になったのだろうか。成撫に撫でられるのは慣れているが、同年代の女の子にされるのは流石に慣れていない。どころか、初体験である。

 恥ずかしさのあまり手を振り払おうという気持ちが生じるが、どういう訳か身体が動かない。


 姉に頭を撫でられすぎて、拒めない身体にでもされてしまったのか!?


 混乱のあまり、見当違いな言葉が彼の頭の中をグルグルと巡った。

 顔の沸点はとうに超えており、キズタの表情は真っ赤に茹だっている。

 気恥ずかしさによって、物を言えなくなっている彼に対し、アンは非常に優しい声で語りかけてきた。


「大丈夫よ。見知らぬ土地どころか、異世界に来たんだから心細く思うのは当然なんだから。何なら泣いちゃっても大丈夫だからね? 私も初めて一人になった時は泣いちゃったんだし。まあ、三歳の頃なんだけど。その度にお姉ちゃんがこうして撫でてくれたのよ。……とにかく、何を言いたいのかと言うとね、これから大変だと思うけど、何とか立ち直って欲しいのよ。微力だけれど、力にはなるから」


 その微笑みは、まるでキズタの心を覆うベールのようだった。じんわりと暖かくなっていく心に、彼は自分が安心しているのだと気がつく。


「どうして?」


 それは純粋な疑問だった。キズタとアンは言うまでもなく今日が初対面である。だと言うのに、こうも優しくされる理由が分からない。強いて言えば、彼が今にも泣きそうな顔をしているぐらいだろうか。


 同情。それが彼女を優しくしているのだろうか。

 キズタは心の中でそう思ったが、それは間違いであった。


 アンは質問の意図を理解できていないのか、少し眉をひそめながら、けれども即答した。


「だって、私はアンタの主人で、アンタは私の使い魔なんだから。……他に理由なんている?」


 使い魔というのはあまり聞き慣れない言葉だったが、その言い回し自体はどこかで聞いたことがあった。ただただ懐かしい響きが、頭の中で姉を幻視させた。髪の長さ、色、瞳その全てをとっても似ていないのに、どういう訳か彼女と重なって見えて仕方がなかった。

 相も変わらず、何も言葉にできないキズタに対して、アンは気を取り直したように微笑んだ。


「それに、こんなにも可愛い子を召喚して、放置するなんて流石にできないわよ!」


 その言葉に思わず涙しかけて、ふと呑み込めないものを見つけた。


 ――可愛い?


 聞き間違いだと思うが、まさかもう一度言ってくれだなんて言えるはずもない。

その意味を聞くことに躊躇いを覚えているうちに、アンの話題は他のものへと移ってしまった。些細なものならば、まだ話を戻せたかもしれないが、現実は厳しかった。というのも、彼女が説明し始めたのは使い魔についてだったのだから。

 話の全貌を把握できていないキズタであっても、その言葉の重要性は理解できていた。先程までに二回ほど出てきたが、彼女の言葉を鑑みるに、使い魔とはイコールで彼のことなのだから。

 どこの世界に、自分が最も重要としている情報を放棄して、小さな憂いごとを潰そうと考える人間がいようか。


 というわけで、人間であるキズタは彼女の話に聞き入っていく。その最中で、小さな違和感は見事に彼の中で忘却されていくのだった。

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