1-4

「え?」


 それは純粋な疑問の声であった。


「何よ、ものすごく不思議そうな顔して。あー、まあ、そうなるのも無理はないか。私も困惑してるし」

「え、な、なんで日本語……?」

「ニホン? それが何なのかは分からないけど、でも、言葉が通じていることを不思議がっているのなら、大丈夫よ。アンタは使い魔になっただけだから」

「使い魔? え? ……すまん、どういうことだ?」

「どういうことって……。一応、一般常識じゃなかったっけ? まあ、分かんないなら説明するけど。長くなるから座った方がいいわよ」


 彼女に促されるまま、キズタはベッドに腰掛けた。彼女は、目の前のテーブルの近くにあったチェアーに座った。


「で、どこから話せばいいと思う?」

「どこからって言われても……」


 正直な話、訊くべきことが多すぎて何から手をつけていいのか分からない。まるで、大掃除当日のような困惑が彼の心中にはあった。だから、とりあえずもっとも容易に分かるだろう情報から仕入れていくことにした。

 そう言う意味で、一応は通じているらしい言語の問題は棚に上げておく。


「そういえば、まだ名前を訊いてないんだけど、訊いてもいい?」

「あれ? 私ってまだアンタに名前教えてなかったっけ? あー、それは悪かったわね。一方的にアンタの名前だけ知ってるっていうのは、不公平だったわ」


 そう言うと、少女は立ち上がってキズタの前まで近づく。それから、可愛らしくスカートの裾を掴むとお辞儀した。


「私の名前は、アングレ・オーカム。長いから、アンでいいわよ」

「あ、えと。間森築太、です。適当に呼んでください。オーカムさん」


 アンの自己紹介に釣られて、キズタもまた立ち上がって自己紹介した。しかも、彼にしては珍しい丁寧語で。アンでいいとは言われたものの、異性だということを抜きにして、気安く名前を呼ぶのは躊躇われた。先程の振る舞いを見て、どこか大人びた印象を彼女に植え付けられてしまったのだ。


 アンと呼ぶだなんて、不釣り合いな気がしてならない。


「ねえ、喧嘩売ってるのアンタ? 人のことは好きに呼べばいいとは思うけどさ。でも、オーカム呼びは今後止めてよね。嫌いなのよ、その名前」


 彼女の表情が歪んだ。細められた左目は本当に嫌がっているということを如実に伝えてくる。そのような表情をされると、罪悪感が湧いてくるので、彼は素直に謝った。


「ん、ありがと。で、話を戻すけれど、まずはやっぱりここがどこかっていう話からでいい?」

「うん、お願い」


 キズタが頷いたのを確認してから、アンは近くに設置されていた本棚から一枚の紙を持ってきた。紙とは言っても、それは彼から見たらの話であり、実際は羊皮紙と呼ばれているものである。

 アンは羊皮紙をテーブルの上に広げた。キズタは眉をひそめる。


 それは地図のようなものだった。ようなというのは、彼がそのような地図を一度足りとして見たことがなかったためだ。日本という国がそこに記されていないことはもちろんのこと、そもそも国が五つしか存在していない。東西南北に延びる大地に一国ずつ、それから中央の国の合わせて五国である。


 困惑するキズタをよそに、アンは地図の中央を指さした。


「今、私達がいるのはここね。零ノ国『アブセック』。まあ、言わずと知れた商業国家だけど。で、アンタはどこから来たの? ニホンってのが、どこの言葉なのか知らないけれど、流石に自分が住んでいた国くらいは分かるわよね? 方角と形くらいは知っているでしょう?」

「あ、えと……」

「何よ、ものすごく歯切れが悪いけど。まさか、ここ以外のどこかから来たというわけでもあるまいし……。って、え、アンタそれ本気で言ってんの!?」

「いや、本気も何も、むしろオー……アンの方こそ正気なのか? 見たことないけど、そんな世界地図」


 互いにそう言って、目を合わせる。両者の顔に滲んでいる動揺は、嘘を吐いていない証拠として十分に思われた。どちらかが勘違いをしているのか、或いは、どちらも本当のことを言っているのか。二つに一つである。

 しばらく見つめ合った二人は、ほとんど同時に視線を外した。キズタが視線を逸らしたのは気恥ずかしさから来るものであったが、アンは一つの思いつきによるものだった。


 彼女はしばらくの間、ブツブツと独り言を呟く。時折、「ありえない」だとか、「でも、そうとしか考えられない」とか、「召喚」がどうだとか、想像することを拒むような断面的な情報が聞こえてくる。

 やがて、彼女はピタリと独り言を止めた。目を瞑って一呼吸置くと、もう一度本棚を漁った。

 刺さっていた分厚い本を一気に三冊落とす。そこから出てきたのは、数十枚の羊皮紙だった。彼女はその中の一枚を手に取り机の上にのせる。


 そこに載っていたのは、簡略化された世界地図だった。

 無論、キズタにとってなじみ深い方の世界地図である。


「どうやらこっちには見覚えがあるみたいね」

「ああ」


 キズタが頷いたのを見て、アンは溜息を吐く。


「話が全く噛み合わないわけね。訳の分からない言葉は使うし、理解が異常に遅いし、どういうことかと思ったわ! ああ、でも、異世界から来たって言うんなら仕方ない。依然としてアンタみたいな人間が召喚された理由は本当に謎だけど、もうこの際どうだっていいわ。なんか、些細なもののように思えてきたし」


 それはでかい独り言だった。自分の中で堪っていたもやもやを全て吐き出すかのように、アンはぶちまけた。

 しかし、それよりもキズタが気になったのは「異世界」というフレーズだ。まるでここが地球ではないかのような物言いを不審に思った。


「異世界ってどういうことだ? いや、そんなことよりも――」


――ぶっちゃけ、ボクは今すぐ帰れるのか? という発言は、しかし、アンの言葉に被さるように消えてしまった。


「ここはアンタにとって異世界とでも言うべき場所よ。私にとって、アンタのところの『チキュウ』が異世界のように。『ルインストウ』それが、この世界の名前よ。覚えておきなさい。ここで生きて死ぬしかない以上、絶対に必要になることだから」


 だが彼女の言葉は彼の疑問に対する答だった。

 ここが異世界であるなんてことは、現実感がなさ過ぎて全く受け入れることはできなかったが、彼女の発言からは少なくとも数日や数週間では帰れないことがありありと理解できた。最悪、この地で人生を終えてしまうかもしれない。

 冷や汗が頬を伝って、床のカーペットにシミを作った。

 見知らぬ地で一人放り出されたような心細さが、お腹の下あたりをキュッと締め上げる。言いようのない焦燥感がただただキズタの心をかき乱す。肥大化していく不安といった感情を抑え込もうと、彼は手元の鍵を強く握りしめた。

 すると、不思議なことに彼の抱えていたものはスーッと消えていくのだった。

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