1-2
地に足がついていないかのような朧気の夢想。キズタはそこを目的もなく、ただただ漂っていた。
そこは車の中だった。父が運転していて、助手席には母が座っている。後部座席では、彼の右隣に姉である
けれども、車内では対照的に明るかった。
「ようやく卒業ね、キズ君」
つい最近、二十歳を迎えた成撫は嬉しそうに笑った。
「うん! これで、ボクも大人だよ!」
「大人……? うーん。まだまだだと思うけど。だって、キズ君は仕事してないし」
「えー! うーん、でも、それじゃあナズ姉も大人じゃないじゃん! それこそ、仕事してないし!」
キズタはそう反論したけれど、成撫は余裕っぽい表情を一切崩さなかった。換気目的で空いていた窓ガラスからは、春に向かう生ぬるい風が入ってくる。それが、彼女の長い黒髪を揺らしていた。
「そりゃあ、してないわよ。だって、もう内定決まったんだから」
「内定?」
「就職が決まったってことよ」
「そっか……」
キズタの声は少しだけ沈んでいた。当時は、自分がしょぼくれていたことどころか、そもそも声が沈んでいたことにすら気づけなかったが、今の彼から見れば、その落胆ぶりは明かだ。全身で寂しいという感情を表現していた。
二人はおよそ八年という年齢の開きがある。それは世間一般的にはかなり大きな差なのだが、キズタはそこまで大きな差だとは思っていなかった。せいぜいが、身長で勝てないことを嘆くだけに過ぎなかった。
だから、突然大人と子供という風に線引きされてしまったことに戸惑いを隠せない。心細さが声から漏れ出たのだ。
成撫はそんなキズタをジッと見つめていた。しばらく考えた後、彼女は自分の首に憑いているものを外した。
「はい、これ」
「? なにそれ?」
「これはね、私のとっておきのアクセサリーなの。どう? かっこいいでしょ?」
「うん。すっごく、かっこいい!」
それは確かにかっこいい鍵だった。年代物なのか所々傷が散見されるが、その古色蒼然たる雰囲気は男の子であるキズタの心を掴んだ。曇天だというのに輝くそれは、彼の目に宝物として映った。
「ふふ。ものすごく興味津々じゃない! よし、じゃあ、本当に私からの卒業祝いにしましょう。はい、あげるわ」
「え、いいの!?」
キズタの笑顔に釣られるようにして、成撫も目を細めて笑った。
「当たり前じゃない。私はキズ君の姉で、キズ君は私の弟なんだから。いいかしら、それを私だと思ってね。そしたら、寂しくないでしょう? 別に金輪際会えなくなるわけでも、どころか、遠くに行くわけでもないけど。でも、キズ君には寂しい思いして欲しくないから」
「べ、別に寂しくなんか!」
反射的にキズタは言い返していた。姉に懐いている彼にしては、珍しい物言いだったが、成撫は照れ隠しの一種だとしっかりと分かった。分かった上で、彼女は頭を撫でた。
「よーしよーし。キズ君は寂しがってなんかないわよね。ただ、私と離れちゃうような気がして嫌なのよねー?」
「それ、意味変わんないじゃん! というか撫でるの止めろよ!」
「そんなに嫌なら、手を払えばいいでしょう。嫌ならできるでしょ?」
彼女のいうとおりであったけれど、キヅタがそんなことできるはずもなかった。口では何とでも言えるが、彼はこの瞬間が大好きだったのだから。
成撫の指がさらさらと髪を撫でるのは気持ちよかったし、ここぞとばかりに呟く囁き声は彼を安眠へと誘う。どれだけ意識を保とうと彼が努力しても、力の抜けた頭を、彼女の膝の上に載せられたら、もう一巻の終わりである。
あらゆる抵抗は海の藻屑と消え、彼の意識は水面へと沈んでいくのだから。
成撫は眠りかけているキズタによく声をかけた。内容はころころと変わったけれど、でも、最初の一言は全て共通だった。
「……キズ君は、優しい人になるのよ」
その声が聞こえた瞬間、キズタの意識は完全に落ちた。それと同時に、夢の中を漂っていただけの彼もまた、意識をすくい上げられたかのように急速に夢から覚めた。
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