毒の海に沈む花

薙沢ムニン

毒の海に沈む花


 此れより語るは、少々度が過ぎる物語。

 過激で過剰な、かつてあったであろう過去の物語。

 子供に語るべき話ではない。

 ましてや、明るい状況下で聞かせるべき内容ではない。

 笑顔を浮かべる群衆の表情を曇らせたくなければ、陽の当たる場では控えるべき話だ。

 此れはある種における悲劇であり、喜劇である。

 しかし誰もが思い浮かべる悲劇でもなければ、喜劇でもない。 

 まどろっこしいことは抜きに、この物語を知るべきは、甘美な夜を共にする恋人夫婦達である。

 決して忘れることなかれ。

 煌めく紅玉の赤が存在するように、汚れた血潮の赤も存在する。

 同様に世の中には、物語に書いたような美麗な愛だけが存在するわけではないのだと。

 努々忘れることなかれ。



 ◆



 今よりもずっと昔。しかし天の星の位置はほとんど変わらぬほど前。

 西に栄えるある街に、フローネという若い娘がいた。

 フローネは落ちぶれた貴族の一人娘だった。

 階級としては平民の遥か上に君臨しているものの、他の貴族達と比較すれば明らかに下位に立つ、そんな危うい家だった。

 今も昔も変わらず、上の者は下の者を虐げたがるものである。

 その仕組みと思想を、フローネは子供時代から嫌というほど思い知っていた。

 厳しくも惨い貴族の社会の中では、フローネの家は嘲笑の的であった。

 少なくともフローネが物心がついた頃から、彼女の父親はいつも額に皺をよせていた。

 侮蔑を吐かれる父親の姿を目撃したことは幾度もあった。

 だが、何を言われようと彼女の父親は決して声を荒げず、反旗を翻すこともなかった。

 地に深く根を張る一本の木のように、ただひたすらに、じっと立ち尽くしているだけだった。

 それは家柄の問題か、立場の弁えか、それとも擦り減りゆく誇りを懸命に守ろうとしていたのか、フローネにはわからなかった。

 父親を馬鹿にする貴族達は、彼の姿を「うどの大木」と表した。

 けれど、フローネは「大木」とは思えなかった。

 大木は高く、太く、どれほど強い風が吹いたとことで折れることのない丈夫な木のことだ。

 幼い頃から父親の背中を見上げていたフローネは、長い間その姿を見てきていた。

 今にも軋み、圧し折れて、押し潰れてしまいそうなその姿を。


 お父様が木なら、枯れかけている細い木だ。

 きっと花も咲かない―――――周りの木が成長に必要な栄養を根こそぎ吸い取っているからだ。

 仮に花が咲く木だとしても、周りのせいでいつまでも咲かせられないんだ。

 何も実らないんだ。


 いつしか、フローネは心の奥底には暗い影が生まれていた。

 

 それじゃあ私は、お父様の娘である私は、この先どうなってしまうのだろう。

 大人になったところで、お父様のように周囲から虐げられる日々を過ごさなければならないのかしら。

 私もいつか、苦しい木になるの?

 どこにでも意地悪な人たちがいるように、意地悪をされる人の順番が回ってくるの?


 未来のことを考えるたびに、フローネは震え、怯えた。

 どれほど恐ろしい怪談話よりも恐ろしい現実が襲ってくるのだと、夜な夜な涙を零した。

 だが、自分がこの家に生まれなければよかったなどとは一度たりとも思わなかった。

 フローネは父親のことを心から愛していた。

 深く、深く、愛していたのだから。


 お父様を愛しているから。

 愛しているから、ほんの少しでもいいから救いを。

 お父様がこれ以上枯れないで済む希望を。

 この家が絶えないで済む手段を。

 

 毒の花でもいいから、咲かせられる何かが欲しい。


 それがフローネの、一番最初の願いだった。



 ◆



 転機が訪れたのは、フローネが婚姻できる年頃に成長してからだった。

 フローネの存在は貴族の間で、非常に話題になっていたのだ。

 今にも没落寸前の弱小貴族の一人娘だが、彼女の容姿は通り過ぎる誰もが振り返るほど見目麗しいものだったからである。

 きめ細やかな金髪、真白な柔肌、宝石を想起させる瞳、理想の女性を体現したかのような身体―――――家柄がどうであれ、多くの貴族の男が彼女に魅了されていた。

 しかし、当の本人であるフローネは、好意的な視線を浴びることをあまり良く思っていなかった。

 自分を見る男の誰もが、外見にしか興味を持っていないことを察していたからだ。

 フローネの周囲の環境自体は子供時代からさほど変わらず、家は貧しくなる一方で、幸福より不幸が訪れた回数のほうが圧倒的に多かった。

 男達から高値な贈り物を贈られることはあれど、フローネにとってそれらは遠回しな施しでしかなかった。


 だが、フローネにもその時は訪れた。

 貴族の中でも最も地位と権力を持つ 若き当主に結婚を申し込まれたのだ。

 この結婚を受ければ、フローネの家は支援によって立て直せることも約束された。

 すっかり年老いたフローネの父は、この持ちかけに年甲斐もなく泣いて喜んだ。

 これがある種の政略結婚であることを、フローネは理解していた。

 身も心も擦り減り、娘の嫁ぎに頼る他なくなった父の姿を直視し、申し込みを受けないという選択肢は彼女の中には残っていなかった。

 否、残されていなかった。

 だからこそ彼女は、夫となる男の手をとって進むことを決心したのだ。

 価値観も、思想も、趣味も、嗜好も、何もかも異なったとしても関係ない。

 例え自分の心の苦しみに気づいてくれなかったとしても関係ない。

 関係ない。関係ない。今を乗り切る最善策はそれしかないのだから!

 

 ああ。この人が私の家を救ってくださる人なのね。

 例え私の見た目にしか関心がないのだとしても、恩人には違いない。

 精一杯、妻としての役目を果たそう。

 愛するお父様を救ってくれる、あなたを愛しましょう。

 そう。愛しましょう。愛してる。


 結婚を祝福する鐘が鳴る。

 哀れなフローネは何も知らぬまま、湖に一滴の毒液を零すように、呪いの愛に落ちていった。


 

 ◆



 その男はろくでもない人物だった。

 外面だけは良く、何も知らぬ者は外交的で紳士的な人柄であると見事に騙されていた。

 真実は堕落三昧と表するに相応しい、悪意と欲望の塊であったのだ。

 男の屋敷で暮らすようになったフローネは、そう時間をかけずとも夫の本性を察した。

 若くして多量の財産を引き継ぎ、面倒な勢力に嗅ぎつかれぬように狡猾な手段や策略をもって手を回し、不正と違法に塗れた悪徳な所業にどっぷり浸かっている。

 本当に罪な人だと、フローネは心の奥底でぼんやりとそんなことを思った。


 それでも、フローネは夫を愛していた。

 何故なら、彼こそが父と自分の家の救世主であるのだから。

 どれほど極悪非道な恩人であろうと、妻となった今は愛することこそが恩返しであり、義務であると信じていたのだから。


 愛するお父様を救ってくれる、あなたを愛しましょう。

 そう。愛しましょう。愛してる。本当よ。


 フローネは決して夫に逆らわなかった。

 理不尽な暴力を振るわれることも、言葉の礫を投げつけられることも、歪んだ愛情を押し付けられたこともあったが、文句一つ言わなかった。

 屋敷に帰らず他の女達と夜を共にしていることも、多重な愛を囁いていることも悟っていたが、激怒も落涙もしなかった。

 ただ、ただ、穏やかさと静謐さを纏って、黙り続けていた。

 黙認する。黙認する。気づかなかったふりをするのだ。

 美しい調度品のような、都合の良い妻に成るのだ。

 綺麗な愛玩物のような、不備や不具合の無い人間に成るのだ。

 

 愛する夫の資産のおかげで、愛する父が苦しい暮らしを送らずに済む。

 それはなんて幸福なことだろうか。

 フローネは静かに、屋敷にほとんど戻らぬ夫を待ち続ける。

 何日も、何日も。

 形だけの夫婦の存在意義と、捧げられぬ愛の見返りに、目を閉じる。

 何年も、何年も。

 私は幸福なのだと、思いこむ。

 身を捧げましょう。心を捧げましょう。愛を捧げましょう。

 この行いで愛するものに、ほんの少しでも花が咲けばこれ以上に嬉しいことはないと、遠い昔の願いを思い返しながら。 


 けれど、フローネが自分自身にかけた魔法は、海に消える泡のようにあっけなくとけてしまった。

 彼女の父が死に、彼女の夫が死をもたらした主犯であると知ったその時、フローネの世界は壊れてしまったのだ。

 

 

 ◆


 

 資産を割く負担を減らすためには邪魔な人物を秘密裏に消す必要があった。

 フローネの夫は笑っていた。

 偶然彼の執務室の前を通った彼女がその言葉を聞いたのは、幸か不幸か。

 おそらく大半の者は宣言するだろう―――――不幸であったと。


 愛する父の突然の死は、フローネをこれ以上なく傷心させていた。

 呆然とするあまり、涙一つ流すことができずにいた。

 病死と判定されたこともあり、これまでの無理が祟ったのだろうと人々は言う。

 結婚して以来、家に帰れていなかったフローネは本当に久しぶりに父の顔を見た。

 だが、それは生気のある顔ではなく、死に絶えた老人の顔でしかなかった。

 棺の中で眠る父が、果たして幸福になれたのかどうか、フローネにはわからなかった。

 葬儀に参列する貴族の内の誰かが、ひそひそと話す。


「成り上がったとは言え、所詮木偶の坊は木偶の坊のままだったな」


 フローネにはわからなかった。

 わからないままでいたかったのだ。

 地位や立場、名声や功績―――――ああ。そんなものは関係がなかったのだ。

 存在そのものが、皆の道化。

 途端、足元が真っ暗な底無し穴に転じ、真っ逆さまに落ちていくような錯覚をフローネは覚えた。

 落ちる。落ちる。ほんの少しの矜持も、僅かな希望も、確かな願いも、落ちていく。

 壊れ、砕け、ばらばらになる。

 心が瓦解する。

 ばらばらに、ばらばらに。

 

 そして、身体もばらばらになった。

 何故こんなことになってしまったのだろうと、フローネはどこか遠くを見ているようにぼんやりと思った。

 見るも無残な女の死体は埋め捨てられた。

 しなやかな四肢は斬り落とされ、美しい顔は斬り刻まれ、もはや彼女が何者であるかを証明する手段は失われていた。

 だが、彼女自身は己が受けた仕打ちを覚えていた。

 ばらばらになった身体で。

 ばらばらになった心で。

 その思考、意思はどこに収まっているのだろうか。

 冷たく暗い、湿った土の中で、息絶えているはずのフローネを、フローネ自身が見下ろしていた。

 自分の死を、見つめていた。

 

 父を殺した夫に向かって跳び出して行った。

 この時点で正気は失われていたのだろうか。

 それとも逆に平静を保っていたのだろうか。

 いずれにしても、発狂していたことには違いない。

 夫へと伸ばした手、投げかける言葉、その全てがまともではなかったのかもしれない。

 構わなかった。

 まともじゃない夫の妻がまともじゃなくなっても、何もおかしくないじゃないか。

 悪事を暴かれた夫が咄嗟に取った行動は、目の前の細い首を絞めることだった。

 絞める。絞める。動揺のままに絞める。本能のままに絞める。

 その瞳に燃える加虐の炎が、脳裏に焼き付いている。

 端正な顔が歪む。歪む。それはどちらの顔だ。

 花を強引に散らすように、乱暴に毟るように、命を、命を、引き千切る。

 痛い。

 抱くことはあっても、絞めたことはなかった。絞められたことはなかった。

 夫婦は初めてのことをした。

 そこには愛はない。愛などなかった。

 こんな愛情表現は人間には許されない。

 ああ。フローネ。フローネ。哀れなフローネ。

 そうして呆気なく、フローネという女の命は永遠に失われたのだ。

 

 隠蔽された殺人。

 秘匿された罪状。

 遺棄された人生。

 かつてフローネと呼ばれていた骸の魂は、いつしか深海から水面を目指す泡のように、ふらりふらりと浮上した。

 肉体の喪失は彼女そのものを軽くした。

 しかし、魂の重さは膨れ上がっていた。

 土を抜け、地面の上に広がる景色を一望する。

 鬱蒼とした木々が生い茂り、群青色の花が辺りに咲き誇っている。

 常に夜のように暗く、不気味な森。

 泡のような魂と、海のような花の園。

 下手に息を吸い込めば死を招く、毒の海。

 樹木が墓標なら、花は死者への手向けのようだった。

 魂はこの場所を知っていた。

 ここは足を踏み入れることを禁じられた、毒の花の森。

 誰もやってこない危険地帯に自分は隠されたのだと、理解する。

 毒の花が風に揺れる。

 煌めく星砂を想起させる猛毒な花粉が、蛍火のように淡く照る。

 魂は、浮かぶ。

 浮かばれない魂は、透明な自分のナカに在るものを知覚する。

 ずたずたに穢された痛みも、ぐちゃぐちゃに踏み躙られた苦しみも、生者の感覚を失った今―――――亡霊フローネは眠りから目を覚ますような錯覚を覚える。

 ああ。これは、紛れもない感情。

 燃え滾る竈の火炎毒熱い熱い融けて溶けて蕩けてずぶずぶにぶちまけられた毒腐りきったチーズ地獄の業火焚火毒ぱちぱちと弾けぱちぱちと毒焼け自棄妬け火傷どろどろ悪臭汚臭毒おぞましく熱い熱毒爆ぜ爆ぜ爆ぜた鉄の溶ぐるぐる炎熱い炎炎毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒―――――!

 どくどくと、魂が脈動する。

 これは、愛だ。


  

 ―――――愛していたの。

 深く、強く。

 お父様。


 愛せると思っていたの。

 優しく、温かく。

 あなた。


 愛してほしかったの。

 激しく、心の奥底から。

 ……私?

 

 無能。

 木偶の坊。

 解消無し。

 出来損ない。

 私に縋らないと何もできなかったお父様!

 だけど、愛しているわ。

 どんなに愚鈍でもお父様は私を愛してくれたもの。

 

 外道。

 極悪人。

 邪悪の塊。

 悪漢。

 私を人形のように扱ったあなた!

 だけど、愛しているわ。

 でも、あなたはもう私を愛していないの?


 それは罪だ。

 それは悪だ。

 それは―――――。

 

 ならば、私は毒の花に。

 毒の花を咲かせよう。

 愛するだけではなく、愛される猛毒になろう。

 美しいものが黙し続けているわけではないと、知らしめよう。

 私の本当の想いを教えてあげる。

 

 どくどくと、亡霊は蝕まれる。

 これは、愛だ。

 憎しみを覆いつくす猛毒の愛なのだと、強く強く実感したのだ。




 ◆



 今よりもずっと昔。しかし天の星の位置はほとんど変わらぬほど前。

 西に栄えるある街に、多数の貴族達の毒殺されるという惨たらしい事件が発生した。

 殺害された貴族は年齢も性別も見境なく、全員が全員、同様の毒を無理矢理飲まされていた。

 死した貴族の身体は実に醜悪なもので、肌はどす黒い青色に染まり、口からは泡を吹き、苦しむあまりに掻き毟られた喉からは骨すら覗くものもあった。 

 特に残酷に殺められた者はある家の若き当主であり、原形を失いかけた遺体の周りには、大量の猛毒の花が絨毯のように敷き詰められていたという。

 いったい誰が何の目的でこんなにもおぞましい犯行に及んだのか。

 捜査は長きにわたって続いたが、いよいよ犯人の正体はわからなかった。

 死を免れた貴族達は、怯えたように噂した。

 これは先日から行方不明になっている美しい娘、フローネの仕業ではないのかと。

 実の父を失った悲しみに狂い、このような強行に及んだのではないのかと。

 あの娘の境遇が幸であったか不幸であったか、彼女が生きているのか死んでいるのか、ついにそれすらわからぬまま。

 真相は永遠に闇の中。

 貴族達は二度とフローネの姿を見ることはなかった。

 


 ◆



 今宵も世界のどこかで、美しい未亡人の幽霊が一人、鼻歌混じりにゆらりゆらりと彷徨っている。

 妖艶なまでに毒々しい青の花を飾るその姿は、まるで毒花の化身。

 肉体を持たぬ身はどこまでも軽く、舞うように夜の道で探し続けている。

 自分を誠に愛してくれる男性を。

 自分が心から愛せる男性を。

 今度こそ障害を共にし、尽きぬ愛を注ぎ注がれる、人生の伴侶を。 

 もうすでに人としての在るべき生が、永久に失われているとしても。

 彼女が姿を現したのならば、それは貴方が彼女の望み人だからであろう。

 やがて彼女は天使のように微笑み、貴方に身の一部を手渡す。

 青紫色の液体が入った小さな小瓶。

 紛れもない彼女の魂の欠片であり、愛の結晶。

 恋する乙女のような表情を浮かべて、彼女は謳う。


「貴方は私を愛してくれる?」

「愛しているのなら、飲み込んで」

「ひょっとしたら死んでしまうかもしれないけれど、どんな姿になっても私は愛を返せるわ」

「だから、さあ。呑んで」


 愛しているのなら―――――。


 彼女の愛を受け入れるのならば、貴方は血の花を咲かせるだろう。

 病める時も貧しい時も、死という名の愛に溺れる時も。

 そう。永遠に沈み続けるのだ。

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毒の海に沈む花 薙沢ムニン @munin24

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