10

 気がつくと、僕は雪のセカイにいた。風に運ばれる雪片の音が、誰かの泣いている声そっくりだった。


 いや、それは間違いなく誰かの泣き声だった。泣いてるんだ。白の色しか見えない、この場所のどこかで。そんなセカイの中で、僕は凍死寸前だった。


 ピーターパンは永遠の子どもの国で、永遠に同じ気候の中に過ごしているから、こんなセカイに行くことを想定した格好じゃないのだ。だけど、もう姿を認識できないくらいに姿の消えた、雪華からの贈り物。


 頬への、愛のしるし。認識できない唇が触れた時の柔らかさ、暖かさ。それは今も僕の頬に残っていて、触れた先から暖かさを広げてくれた。


 だから僕は、何も見えないセカイの中で、一歩を踏み出す勇気を出せた。足を踏み出す。雪に膝下まで埋まる。


 それでも僕は、めげずに歩みを進めた。雪華が、王子様だと言ってくれたから。僕は茨を切って、長い塔を登って、雪をかきわけても逢いに行く。


 斜めに吹き付ける雪は、僕の目と肌を刺した。若草色のピーターパンの衣装は、あっという間に雪に塗れる。冬の訪れに、若いピーターパンは太刀打ちできない。挫けそうになる。足の感覚がなくなっていく。


 倒れ込みそうになるたびに、頬に触れた感触が思い出されて、足を踏ん張らせた。


『大好きですよ、雪華にとっての王子様』


 この世でたった一人、僕を王子様と呼んでくれた雪華。雪華がいなかったら、僕は王子様でもなんでもない。お姫様がいなかったら、王子様は存在できない。いる必要なんてないんだ。それが僕のセカイ。


 どれほど歩いただろう。ずっと僕の体を刺すように降ってきていた雪は、本当に突き刺してくるようになっていた。感覚のない肌を、細かくて鋭い雪の欠片が、見えない包丁のように僕の体の側を通りすぎて、細かな傷を作っていく。


 いつの間にか僕は泣いていた。単純な痛みに。情けなく、みっともなく。だけど歩みは止まらない。


 ここで止まったら、僕は本当の本当に存在意義なんかない。誰に教わらずとも実感していた。これは雪華の死の痛みだ。終わるセカイの代わりに、現実が雪華を侵食しているんだ。現実がゆきかを食べているんだ。


 雪華と、現実の世界で一緒にいたいという僕の願いが、雪華を苦しめている。そう思うと、僕の願いはただのわがままなのかもしれない。僕にも突き刺さっている現実の痛みが、今までの決心を台無しにしようとする。勇気の塔から落ちたときになくしてしまった。その鋭い切っ先も、真っ二つに折れているに違いない。


「違う!」


 痛みをぶっ飛ばす勢いで僕は叫んだ。


「雪華は、僕に迎えに来てほしいって言ったんだ!」


 亀みたいな歩みを、北風の走りに変えて、僕は進んだ。太陽みたいな悠長なことはしていられない。雪もコートもぶっ飛ばす勢いで僕は駆けた。


 降り積もった雪が僕の進みを邪魔して、無理矢理に吹き飛ばされた空からの雪は怒り狂ってますます鋭さを増す。僕の涙も激しさを増す。出すそばから凍りついて、それがまた痛かった。


 振り返る余裕もないからわからないけれども、僕の進んだ後は赤く染まっていたと思う。きれいな飾りを全部無くして壊された幸福の王子でさえ憐れむ格好を、僕はしていたんだろう。


 全身を血まみれにして、みっともなく泣いて鼻水まで出している僕は、王子でもなんでもなくただの可哀想な奴だ。こんな小汚い格好で姫を迎えに行くやつが、果たして童話にいただろうか。間違いなくいない。


 それでも。

 それでも!

 気がついたら僕は歩いていなかった。

 雪の上を這うように進んでいた。


 全身が深刻な虫歯になったみたいに、上からの雪と降り積もった雪が体中の傷に染みる。僕はカエルみたいな声を上げてのた打ち回る。一ミリでも進むため、体の向きを変えてのたうち回る。

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