「!」


 飛び上がる勢いで顔を開けると、強烈なオレンジが目を刺した。思わず腕で目を庇う。痛みが引いて、腕を下ろすと、オレンジの光の中に立つ、真っ白なお姫様がいた。


 お姫様じゃない、ごく普通の女の子だ。ただとびっきりかわいいってだけ。ドレスだと思っていたのは、僕の通っている学校の女子用制服で、真っ白な制服だったからそんなふうに錯覚しただけだ。別にドレスを着てるわけじゃない。


「お目覚めですか? 仁さん」


 雪華の口元から、クスクスと笑い声がこぼれる。開いた窓から入る風が、リボンで二つに結んだ彼女の髪をくすぐっている。


 僕は教室の机に座ったまま、幻想的な彼女の姿に見惚れていた。腕を置いた机の上には、哀れにもページをクシャクシャにされたノートが開かれて置いてある。


「疲れてたんですかね。勉強のわからないところを聞こうと思ったら、机に突っ伏してましたよ」


 そうだった。僕は晴れて同じ学校に通うようになった雪華に、放課後居残って勉強を教えていたのだ。


 しかも途中で大爆睡。雪華にいいとこ見せたいからって、慣れないことはするもんじゃないな。


「だけど、こんなに気持ちのいい陽気なら、眠くなっちゃうのも仕方がないですよね」


 もう春ですもん、と言う雪華の声のほうが、眠気を誘った。またまどろみの中に頭の先から足の先まで浸かりたくなってくる。だけどもそれはいけない気がして、背筋を伸ばす。何故って、これ以上雪華にカッコ悪いところ見せたくないし。


「うなされていたようですけれど、嫌な夢でも見ましたか?」

「すごく嫌な夢だったよ」

「へえ」

「だけど楽しかったんだ」

「楽しかった?」

「僕と、一緒にいた女の子にとっては」

「その女の子は仁さんのことが好きなんでしょうね」

「どうして?」

「昔の人は、夢に出てきた人のことを自分が想っているんじゃなくて、夢に出てきた人の方が自分のことを想ってくれていると考えていたそうですよ」


 夢の匂いがする声で、雪華は言う。


「だとしたら、もっと楽しかったことになるね」

「幸せでしたか?」

「幸せだったんだろうね。でも悲しかったんだ」

「どうして?」

「夢には限りがあるから」


 何故か割れた靴のビジョンが頭に浮かんだ。割れたガラスの靴はスイレンの葉っぱに乗って、蝶に引かれてどこかへ流されていった。


「大好きな人と一緒にいても、すぐに終わっちゃうんだ。ずっと長いこと過ごしていたような気がしても、目が覚めたら、せいぜい一日の大半を夢の中で過ごしちゃった、そんな程度の長さなんだ」

「夢じゃないですよ」


 永遠に眠ってしまうような、甘い夢の香りを漂わせながら、雪華は夢を否定する。


「現実で起きたことじゃなくても、二人で同じ夢を見ていたとしたら」


 情感たっぷりに詩を読み上げるような声で言いながら、雪華は教室の中を歩いた。

 夕暮れ色の教室の中に風が吹き込んでくる。風は雪華のスカートを、髪の毛を、絶妙な具合に揺らしている。オレンジのセカイは、雪華の独壇場だった。


「それは想い出です。立派な記憶なんです。だから夢ではないんですよ」


 立ち止まって、雪華はまた僕の方を向く。確かに、僕の方を向いている雪華は、夢だけど夢ではなかった。夢だとしても、確かに今、雪華自身が僕を見つめているのだ。


「だけど本当じゃない」


 甘い夢を、僕は否定した。


「夢じゃなくて、想い出になるとしても、それは本当じゃないんだ」

「想い出だけど、本当じゃない」


 雪華はさえずるように僕の言葉を繰り返した。哀しい歌を歌っているようだった。


「それはどうしてですか?」


 謎掛けの答えを考えもせずに、雪華は問い返した。座っている僕の前まで歩いてきて、机の上に投げ出された僕の手を両手で包み込む。


 雪華の手は冷たくて、それでも今生きているのだという温かさもあった。


「こうして、触れ合うことだって出来るのに」


 伏せた目のまつげが、雪が光るようにきらめいていた。僕はそれを綺麗だと思いながら、謎かけの答えを言った。


「さっきも言ったさ。夢には限りがある。だから、本当みたいに温かくても、全然違うんだ」

「なんだか、答えになっていませんね。よくわからないですよ」

「だけど違う、違うんだ」


 何もわからないまま、僕は否定を繰り返す。


「僕は、本当はこんな夢のセカイなんか、来たくなかった」


 否定する。このセカイを。


「本当みたいなお話を再現することなんて、望んでいなかったんだ」


 否定する。雪華の願いを。


「そりゃあ、中学生になったら、ぬいぐるみ遊びなんてちょっとだけ恥ずかしかったけど……だけど、それでもよかった。楽しかったから。雪華と夢じゃない場所で、現実で、夢みたいな遊びを繰り返すのは」


 最後に、つまらない二人遊びを肯定する。


「僕は、君と現実の世界で、ずっとずっと一緒にいたいんだ」


 いつだったか、こっそり二人で部屋を抜けだして、外に出た時のように。


『こうして、ずっといっしょにいられたらいいね』

『うん。ずっと、ずっと、いっしょ』


 ちっぽけな冒険で満足して。部屋の中の大それた劇に夢中になって。

 それが、からっぽの何もない僕の、全てだった。


「君のこころと体と、両方が、僕は欲しいんだ」


 雪華は可愛い顔をくしゃくしゃにして、ボロボロ泣いていた。


「ずるいですね」


 雪華は細い指で、空の色の瞳からこぼれる涙を拭う。


「そんなこと、できっこないのに」

「出来るさ」


 僕は断言した。実際、僕と雪華、二人だけの舞台では、何だって出来た。世界がまるごと僕達のためだけに用意されたもので、他の誰もが介入さえ出来やしない。それが絶対で当たり前。


「ここじゃない世界で、僕と雪華は一緒に過ごすんだ」


 お姫様と王子様は、いつまでも幸せにくらしましたとさ。おしまい。それで終わるのが、僕と雪華の二人遊びの暗黙の約束。ルールで、自然の摂理。


「だったら」


 笑っている方が好きだけれども、泣いている雪華はとても綺麗だった。制服がドレスに見えたのは見間違いなんかじゃなかった。


「迎えに来てください」


 オレンジの光の中に溶けゆくように、雪華の姿が薄くなっていく。現実の雪華の現状を考えれば、それは不吉に見える。だけど雪華の表情を見ると、希望の光に溶けていくように見えた。


「王子様が迎えに来てくれたら、雪華は、お花と綺麗な川が流れている場所ではなくて、現実の場所で目を開けることが出来るような気がするんです」


 放課後にうたた寝していた時の夢のように、雪華の姿が影も形もなくなった。だけど、僕は確かにその声を聞いた。


「大好きですよ、雪華にとっての王子様」


 まるで僕に永遠に消えない傷を残すような言葉を呟いて、

 やわらかな唇の感触を僕のほっぺたに残して、

 雪華は完全に姿を消した。


 雪華が姿を消すと、風以外の音が全て辺りから消え去った。


 当然だ。ここは僕と雪華しかいない。放課後のグラウンドの部活の音だって、どこかの家から漂う夕飯の匂いだって、存在なんかしない。


 だから、この世界はおかしいんだ。

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