あのひとといると、ほんとうのセカイはどこかにいってしまって、しあわせのセカイにいるみたいだった。はなしかけてもなにもかえってこないぬいぐるみのおともだちや、いそがしいおとうさん、わらっているのにないているみたいなおかあさんとちがって、あのひとはおはなしのばめんがぱっとかわるみたいに、コロコロふんいきがかわった。


 おこったかお。かなしそうなかお。うれしそうなかお。そして、ニッコリわらったかお。


 いろんなかおをじいっとみているだけで、ものがたりのページをめくっているときみたいに、ううん、それいじょうにおもしろかった。あのひとのかおをもっとみていられるのなら、あのひとのちかくにかってにさいた、ひとつのおはなになってもいいとおもった。



 一面の青が僕の周囲に広がっていた。まるで絵本のデフォルメされた海の中を泳いでいるみたいだったけれど、冷たい風は僕に容赦なくぶつかって来るし、辺りには雲と青だけで、海藻も色とりどりの魚も泳いでいない。パタパタ。意味もなく翼を動かす。


 今の僕は鳥だった。一羽の鳥になって、空の青の中を泳いでいる。空を飛びたい、なんてことは子どもの頃何度も考えたことだけれども、本当に飛べる日が来るとは思ってもいなかったから、嬉しさよりも戸惑いの方が強かった。


 遥か遠くの地上はかすんで見える。高い建物から下の景色を覗きこんで、吸い込まれそうにフラッと来る、あの感じよりも強い、血の気の引く思いがした。こんなにおっそろしいところを移動しているから、鳥は恐怖でフンを漏らすんじゃないか。そんな科学的根拠ゼロで下品なことを考えてしまう。


 ああもうダメだ、ぶっちゃけると僕は歩道橋程度でも足がフワフワして落ち着かないくらいなんだ。僕は頭の向きを地上に向けて、白と青のセカイから急降下、脱出した。


 降りた先は、いかにも西洋ファンタジーのお金持ちが住んでいるような、立派なお屋敷の前だった。ペンキを塗られた赤い屋根は色あせた部分なんて一カ所もなく、空の青と比べても見劣りがない。窓もいっぱいあって、何部屋あるんだろう、と窓の数を数えたくなるほどだ。


 庭は広々として、一角の立派な柵の中には、春が咲き乱れていた。シャクヤク、チューリップ、パンジー、マーガレット、ハボタン、アブラナ。異なる趣の花達が、柵の中で自分自身の色を主張し、咲き乱れている。でも、その花がちょっとおかしい。ボクの背丈よりずっと大きい。周りの柵も、家も、明らかに大きい。


「何もかもでっかいなあ」

「当然さね、あんたが小さくなってるんだから」

「ああ、そうだった……って、うわあ!」


 にゅっ、と背後から出てきたのは、真っ黒けっけのフワフワした毛並みの、一匹のネコだった。ボクは思わず飛びのいた。だって今の僕は鳥。ネコ超天敵。僕視点だとデカすぎで、化け猫と読んでも差支えが全くないくらいだ。警戒して羽をバタバタやる僕に、ネコはつまらなそうにあくびをして、鋭い牙と大口を披露する。


「そんなに驚かんでも、とって食いやしないよ。まずそうだしね。まだちゃんと状況がつかめていないようだから、そこの水たまりで自分の姿をちゃんと確認おし」


 さり気なく罵倒された気がしたけど、おいしそうと言われたらそれはそれで困る。僕は素直にネコの言葉に従って、ぴょこぴょこ水たまりに近づいていった。空と、流れゆく雲と一緒に映るのは、明るい茶色と白いお腹を持つ、一羽の小さな鳥だった。茶色い羽の部分には、白い絵の具で線を引いたような複雑な模様があって、目はクスノキの実みたいに黒い。とさかのように立っている頭部の毛にも、やっぱり網目模様みたいな細かい白い筋が引かれている。


 僕は鳥という大雑把なくくりではなく、一羽のヒバリという細かい条件の元、変身していたらしい。ヒバリ……、花の咲き乱れる柵……。そうか、わかったぞ!


「何か思いついたみたいだね。わたしはこの場所じゃあイレギュラーな存在みたいだから、さっさと退散するよ」


 真っ黒けっけのネコは、立てたしっぽをフリフリ、僕に背を向けて去っていってしまった。僕はその後ろ姿が完全に消えてなくなる前に、さっきよりは低めに飛び上がった。


 それにしてもさっきのネコ、どっかで見たような。


 思い出す前に、さっきのネコのことはいらないゴミを放り投げたみたいに、どこかへ消えてしまった。なぜなら、目的地の柵のそば、溝のところに、信じられないくらい綺麗なものが存在していたからだ。


 金色の髪の毛はそよ風にフワフワ揺れて、それ自体が花のよう。高い部分で一つに束ねた髪は、花の飾りのついたヘアゴムでまとめられている。ふんわりとした白いドレスは、花びらを縫いあげて作られたように、スカートの部分がフワッと膨らんでいる。銀らしいブレスレットは昼間の光にピカピカ輝いて、彼女の両手首にはめられ、彼女を宝物みたいに飾り立てている。額よりちょっと後ろの方には、白い雪の結晶のような冠が輝いて、王女様みたいだ。


 雰囲気は全然違うけど、間違いなく雪華だ。綺麗で可愛い雪華だ。自分でも何を言っているのかよくわからない。ふと花が笑った。いや、花みたいな女の子が笑った。花のようなふんわりと笑顔を咲かせると、一株の花が、二つの花を開いたかのようだ。雪華がパクパクと何かしゃべる。『仁さん』と言ったみたいだった。でもその言葉は、鳥の僕には聞き取れない。


 だって彼女はヒナギクだから。ヒナギクの想う気持ちは、想われる相手に届かない。それがこのセカイ――『ヒナギク』の物語の決まりだった。ここは、雪華が気に入っていた物語の一つ、『ヒナギク』のセカイだ。優しいヒナギクとヒバリの、ちいさなちいさな、ものがたり。


 小柄な雪華が演じるヒナギクの花は、役者不足なんて言葉が不要なくらいピッタリだ。


「そのかっこう、とてもよく似合ってるよ」


 雪華は道ばたに咲く野草の花のように可憐な笑みを浮かべながら、またパクパクと口を動かした。『ありがとう、うれしいです』そう言っているみたいだった。僕は嬉しくなって、ヒナギクの雪華の周りをステップを踏んでグルグル回りながら、さえずりの歌を歌った。

 

やわらかな草は美しく

そこに紛れ 生きる花も美しい

花のココロは美しく

僕のココロも踊りだす


 本当の物語のヒバリが歌っていた歌をハッキリ覚えてないから適当に歌ったけど、なんか半分くらい雪華賛美になってしまったような。まあいいや、元の話もそんな感じだったと思うし。多分。


『仁さんってば』


 雪華も笑ってくれたから、やっぱこれでいいんだと思う。僕は芸が終わった後のピエロのように、うやうやしく優雅に会釈した。歌もキザったらしい一礼も、全部が恥ずかしくなって、僕は飛び上がった。門を飛び越えて、道を真っ直ぐ突き進んでいく。なんだろう、やってる時は平気だったのに、いきなり恥ずかしくなった。昔は結構平気だったのに。もう長いことごっこ遊びなんてやってなかったからかな。それとも、ヒナギクになった雪華があんまりかわいかったからかな。


 考え事をしながら突進していったせいで、僕は前方に樹があることに気が付かなかった。樹だけに、なんちゃってとか考える間もなく僕は樹と衝突して、地面に墜落した。痛い。こんなにありえないことだらけなのに、すごく痛い。目がチカチカして頭がキーンとする。

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