一章・ヒナギクのセカイ
1
「ずっと逢いたかった」
夢見る瞳で呟く雪華に、僕もと応えようとしたのに、声は全く出てきやしなかった。降りた沈黙を埋めるように、桜並木がざわざわ風に揺れて、春の雪を降らしている。
春の雪の中で、雪の名を冠した彼女は、溶けて消えてしまいそうなほど不安定だった。口元に浮かんだ微笑も、雪で作ったような白い肌も、何もかもが薄い。
「せっかく会いに来たのに、仁さん冷たいです」
むうと子供っぽく頬をふくらませてから、雪華は気を取りなおしたように僕のそばへと歩み寄ってくる。そうして、固まった僕の手をつかんだ。
その手は、春だというのに、雪のようにひんやりとしている。
僕はびっくりしすぎて言葉が引っ込んでしまった口の代わりに、雪華の手を握り返した。そうすることで、彼女の冷たい手があったかくなるんじゃないかとも考えて。
でも彼女の雪のような手には、なかなか体温が戻って来ない。白いままだった。
代わりに、真っ白な頬に赤みが差す。絵本の中の、ギンギラした太陽みたいだ。赤みと一緒にやってきた、雪華の笑顔が僕にはとても眩しい。
「あったかい」
冷たい手をした雪華は、僕の手にもう一つの手まで添えて、ギュッと握りしめた。僕の手で良ければ、存分に暖を取ればいいと思った。
「そんなあなたが、雪華は大好きです」
なんかすっごい心臓がドキッとする言葉を春風のなかに紛れ込ませてから、雪華は僕の手を引いて歩き出した。
そのまんまの体勢じゃ歩きにくいから、片手だけで手をつないで。そういえばこうやって手をつないで歩くってことはあんまりしたことがないなあ、握ってくれるのが片手だけになっちゃったのはちょっと残念だなあ、なんてバカなことを考えてから、とりあえず一番聞いておかなくてはならないことを訪ねることにした。
「どこに行くの?」
片手を引いたまま、少し前をポテポテ歩いていく雪華は、ちょっとだけ振り返って、
「ネバーランドよりも楽しいところ……です♪」
ゴキゲンな言葉で返事をした。
一瞬、体が軽くなった感覚。
ゴキゲンな雪華の歩みは止まらない。
繋いだ手を振り振り、足はスキップ、あまり通ったことのない裏路地へと入っていく。
こんなに早足で大丈夫なのかな。体弱いのに。
僕の心配をよそに、雪華はさっさと歩いて行って、手を掴まれている僕は半ば強制的にそれに追従する形になった。
裏路地の左右に広がる壁は、茶色いレンガで出来ていて、そこにはハート型の葉をつけたツタが、みっしりと寄生している。
春の雪はまだ降り続けている。
頭上に桜の枝なんて、一本も広がっていないのに。壁に阻まれ、限定された空には青が広がっているだけだ。
それにこの裏路地、こんな壁だったっけ? 道そのもの自体も長すぎる気がする。一瞬で突っ切れるくらいの距離しかなかったはずだ。
「走りますから、絶対に手を離さないでくださいね」
どこか泣きそうな声色にも聞こえる雪華の言葉に、
「うん」
僕は疑問を捨てて頷いていた。
そうしないといけない気がした。
雪華は僕の返事を聞いて微笑んで、歩む足の動きを早めた。
加速する、加速する、加速する。
と同時、運動神経については正直パッとしないはずのぼくの足も、加速する。
景色は電車の窓から見える景色よりも速く流れていき、僕は繋いだ手を絶対に離すまいと、強く強く握り返した。
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