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彼女の名前は白野雪華と言って、母が外国人だった。それで真っ青な瞳と金色の髪の毛を見事に受け継いで、お人形さんみたいな容姿でもってこの世に生まれ出てきたのだそうだ。
僕より一つ年が下で、身長だって小さい。ただ、お人形さんみたいな彼女はやっぱりもろく崩れやすいみたいで、体が弱くてあんまり外に出て遊んだり、学校に通ったりすることが出来ないらしい。
そのことを哀れに思った彼女の両親は、彼女が寂しくないように、読み切れないほどの本の世界と、遊びきれないほどのぬいぐるみの仲間を買い与えた。いろんなオモチャだってあった。でも彼女が特に没頭したのは、かわいいぬいぐるみと、本の中でも、ドレスとかしゃべる動物や道具や不思議であふれた、おとぎ話のセカイだった。
そこではいろんな人が、フシギなセカイで怒ったり悲しんだり、時々笑ったりしていたけれど、彼女はその、怒ったり悲しんだりも含めて、おとぎ話が好きだった。
「わたしには、みんなでおこったりかなしんだりが、ないですから」
それが雪華の言い分だった。物を言わないぬいぐるみと、自身に内包する文字を見せるだけの本は、彼女を笑ったり悲しませたりはするけれども、何もかもが一方的で、彼女の一人遊びだった。
透明な粘着テープで旅立ち寸前だった物語の切れ端を固定しながら、雪華は寂しそうに語ってくれた。彼女の物語を聞くのは、僕と、左右の壁に並べられた異様な数のぬいぐるみと、本の山だけだった。僕と彼女以外の生き物で、彼女の物語を聞くものはいない。
窓の外で咲き誇る、春の花達は、そおっと耳を済ませて聞いていたかもしれない。でも花達は口を聞くことはなかった。
「あなたがへいをとびこえてやってきてくれたとき、ゆきか、あなたのことをおうじさまみたいだっておもったんです」
壁を乗り越えたときはスーパーヒーローのつもりだったけど、褒められて悪い気は
しなかったので、僕は得意げにうなずいた。雪華は微笑んだ。嬉しかった。
「まるで、ゆきかがおひめさまになったみたいだって。おかしなはなしですよね、ほんとう」
そばに置いてある黒ネコのぬいぐるみの手をギュッと握りしめながら、恥ずかしそうに俯く彼女は、なんだか妹みたいにかわいい。でもちょっと、子供ながらに腑に落ちないところがあった。
「どうして、ていねいなことばをボクにつかってるの?」
「だって、ゆきかより、じんさんはおにいさんですから」
いっこしか年が違わないのに、敬語なんてヘンなのと、当時の僕は思っていた。普通の男の子ならお兄さんぶるのが当たり前なのかもしれないけど、僕はもう少し彼女とお近づきになりたいなあなんて、ませたことを考えていたから、そんなことを言ったのだった。
雪華なりに、僕に対して警戒心というか、遠慮のようなものがあったのかもしれない。そしてそれは、付き合いが長くなってずいぶんと親しくなっても変わることはなかった。たったひとつの歳の差は、彼女にとって、ほんの少し高い壁となって存在していた。
病気で長いこと外に出られないということも、自分のことは名前呼びで、人に対しては敬語というちぐはぐな口調を作りあげていたのかもしれない。すぐ近くにある死と隣りあわせにいたことで大人びた、彼女の一部分。
「……できました」
粘着テープでの修正が終わったらしい。彼女の顔より大きな本は、なんとか一冊の本としての権限を取り戻したようだ。でもそのバラけたページ以外のところに目を向けても、本は黄色く変色し始めていて、表紙もカバーもボロボロだった。
「ほんをよもうとしたら、ページがバラけてとんでいってしまったんです」
「それはタイヘンだったね……あたらしいほん、かってもらわないの?」
「たのめば、かってもらえますけど、これはおかあさんとおとうさんがはじめてゆきかにかってくれた、トクベツなほんなんです」
だからこれがいいんです、と笑う彼女の顔は、どこか切なくて、悲しかった。だから当時の僕も、内に秘めていた言葉を、ポロッと吐き出した。
「ボクも、おとぎはなしはトクベツだよ」
「そうなんですか?」
「うん、好きだよ」
クラスメイトの男子がバカにした趣味も、彼女ならバカにはしないはずだと踏んで、僕は勇気を振り絞った。
おとぎ話のセカイから出てきたようなこのお屋敷も、君も好きだよ、とは流石に言えなかったけれど。
それでも、彼女は「おんなじなんて、うれしいです」と直したばかりの本を抱えながら、ほっぺをバラ色に染めた。
当時の僕は完全に浮かれきっていた。だから、この後雪華の様子を見に来た母親が、住居不法侵入罪(現在進行形)な僕を見て、ものすごく驚いた後ものすごく怒ることなんて、知る由もなかった。
雪華のお母さんにも、僕のお母さんにも叱られはしたけど、一応の事情があったのと雪華のフォローがあったのとで、僕と雪華は二度と合わないことを誓わされた可哀想な身分違いの恋人達のように引き裂かれずには済んだ。
というか、雪華のお母さんから、これからも雪華と遊んでやってちょうだい、とお願いされたくらいだった。
僕は二つ返事でそれを受け入れた。初めて友だちらしい友だちができることと、好きな空想物語のお話ができるという事実に対して、とても浮かれきっていたのだ。
僕たちはいろんな話をした。どの作者の童話の、どんなお話が好きか、どんなシーンが印象に残ったか。僕と彼女はとても気が合った。手と手をつないで、いつまでもその場を音楽に合わせてぐるぐる回る恋人たちのように、気が合った。
僕のセカイが広がったような気がした。広い広い全体のセカイから見ればちっぽけかもしれないけれど、おじいちゃんやおばあちゃんでも、お母さんでもお父さんでもない子と、それもとってもきれいな子と仲良くなれるというだけで、幸せだった。
でも時々、彼女はちょっと変わったことを口走った。それは、「おとぎばなしはかなしいです」という、ため息を伴った言葉だった。
「どうしてそんなふうにおもうの?」
僕が首をかしげると、彼女はいつものように、黒ネコのぬいぐるみを抱きかかえながらため息をついた。僕の愚問に対してついているのではなく、おとぎ話を思うと、自然に出てしまうんです――そんな感じのため息だった。
「だって、『そらとぶトランク』のおとこのひとは、さいごにおひめさまをおいて、たびにでてしまうでしょう? そうして、おひめさまは、ずっとずっとおとこのひとをまっているんです。それってかなしいとおもいます」
「かなしいから、おもしろいんだとおもうけどなあ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。それに、もしかしたら、おとこのひとだってかなしかったのかもしれないよ。トランクをじぶんのフチュウイでなくして、だいすきなひとにあえなくなっちゃったんだから」
僕が反論すると、雪華は大きな空色の瞳をパチパチさせて、黒ネコをギュッとして、それから髪の毛を手で梳いた。梳くたびに宝物みたいな金色の髪の毛がサラサラ揺れる。それから、僕よりずっと年上のお姉さんみたいに大人びた、諦観の表情になった。
「ゆきかがいなくなったら、じんさんはさみしがってくれますか」
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