第13話チャプター4-2


 儀式の日、当日。街は異様なまでに静まり返っていた。

 街の何処を見ても、人一人おらず、まるで忽然とこの国から人間が姿を消したような錯覚を覚える光景だった。

 人々は皆、太陽の神殿に集まっているのだ。今日、行われる太陽の儀式は、他の神子達の生け贄の儀式とは全くの別格である。

 他の神々の儀式の場合は、その災害に害を被っている者達だけがその神殿に集まり、儀式を執り行う。しかし、姫神子の儀式の場合は、およそ百年ぶりに行われ、国の存亡を掛けた儀式として行われるので、全国民が我先にと、太陽の神殿に集っているのだ。

その人の数は既に十万を越え、儀式が始まるのはいつか、と皆が待ち続けていた。

太陽の儀式はいわば、火葬葬儀のようなものだ。太陽の神殿正面に建設された、高台の上には小さな社(やしろ)が設けられている。姫神子は儀式が始まると、太陽の神殿より、国の神子全員が席を連ねている階段を下り、再び社に続く階段を上っていく。姫神子が頂上に辿り着き、社の中にはいると、他の太陽の神子達がその社に火を付け、階段を下りてくる。

 その時、儀式は最高潮を迎え、その炎が燃え尽きるまで、この国全ての者が見守り続けるのだ。そして長老の高説があった後、儀式は終了する。

 集った国民達は、太陽の神殿と社に続く階段を挟むような、対になる形でその一部始終を見ることになる。それが太陽の儀式の全貌である。

 地平から顔を覗かせていただけの太陽も、いつの間にか頂点付近にまで昇ってきており、儀式の始まりを予感させていた。神殿の敷地内に入る門の辺りはもう人の姿はまばらで、ほとんどの者が広場に集まったのだろう。その門は今にも閉鎖されようとしていた。

 ゆっくりと影が真下に来て、陽の光が真上から降り注ぐ。少しだけ太陽に被っていた雲も、いつの間にか掻き消え、空が突き抜けるような蒼さを示した時、太陽が最も高いところまで昇りつめた。

 高らかに笛の音が鳴り、その音色は国土全域に響き渡る。それが合図かというように、一斉に様々な楽器が太陽の神殿周辺から奏でられた。打楽器、管楽器はもとより、弦を用いたものや、風の力を利用して自然に鳴り出す楽器まで、実に数百もの音源が壮大に奏でられる。階段に並べられた松明には次々と灯がともされ、それは神の世界まで続く道を表している。

 人々は口々に叫び、願いを乞い、騒ぎ出す。十万人もの人間が声を上げ出すと、その音は他の国にも伝わるのではないか、と思うほど強烈な振動を生み出していた。その上、楽器音が呼応し、街全体が鳴震する。

 そしてさらに、太陽の神殿内部から、一人の人間が姿を現すと、その雄叫びはより一層倍加した。しかし、そこまで増長した人々の声もその人間がサッと手を挙げると、まるで幻覚から目覚めたかのように、ピタリと止む。全く同時に、楽器も鳴り止んだ。

 ほんの数瞬で、今度は虫の羽の音すら聞こえる無音の世界へと変貌する。これだけの人間が集まっているというのに、誰一人として言葉を発するものはいなかった。それほどまでに、この者の存在力は強大なのか。

 人々の視線が装飾衣装を着た人間に注がれる。その者は、挙げたときと同じように、サッと手を下ろし、少し進むと全体を見渡せる位置に立った。

 そして息を大きく吸い込み、吐き出す際に最初の言葉を叫び上げる。

「神は死んだっ!」

 その言葉を放った者。『神々に選ばれし従者』と称されている者。

 この者の名はルシーナ=アストラル。

式場に集った群衆全員が、全神子までもがルシーナの方を降り仰いだ。しかし、ルシーナは、誰に止められるわけでもなく、威風堂々と自分の想いを謳い上げる。

「百年来、この世界に降臨した太陽の神の化身、姫神子、セリア=ジルは私が殺した! もうこの国に神はいない。人々よ、目覚めるのだ。この世界に、この国に神々などは存在しないのだ。いるのは私たち、人間のみ。

 もし、神がいるというのなら、それは己を信じる心の中にいる。己を信じ、全て己の意志の中で生きよ! さすれば、皆の心の中に神は舞い降りるであろう。自らと共に生きよ! 隣人と共に歩くのだ。自らが創りだした、神の道を!」

 人々は静まり返り、起こった事の事態の大きさを把握しようとしていた。しかし、あまりにも大きすぎ、それも唐突すぎて、皆、呆然と惚けた状態に陥っていた。

 ルシーナは息を付き、覚悟を決めた。この大観衆の信者達の前で、その者達が崇める神を殺したと言ったのだ。これから起こる騒ぎに乗じて、人々がルシーナに殺到し、殺されても仕方ない。そう決心し、先程のような発言をしたのだ。

 もちろん、セリアは死んでいない。昨日、星降る丘で気絶させた後、街にある宿屋の店主にその身を偽ってセリアを預けてきている。目覚める頃には、儀式は終わっていることだろう。

『そう、これで良いのだ。これでセリアも、この国も救われる。もし生き残る事が出来たのなら、共に肩を並べ、この国を変えていこう。人々に説いて回り、神子達を説得し、新しい国に生まれ変わらせるのだ。このリートンを。十三年前の悲劇は二度と起こらせない。

 もし、生き続けることが出来たのなら…』

 未だにざわめきすら起こらない民達の前で、ルシーナはそんな物思いに耽っていた。

 しかし、次第に不思議に思ってくる。どうして、誰も騒がないのだ? 人々の心の支えを失うくらいの問題発言をしたのにも関わらず、何故、誰も動揺しない? 何を信じているのだ? 何を待っているのだ? 何を…。


シャリリリリィィィン…シャリリリリィィィン…


 そんな軽い鈴の音が、ルシーナの耳を擽る。ハッとなって、ルシーナは背後を振り返った。そこには新たな人の姿があった。彩り艶やかな色彩装飾衣装をその身に纏い、軽やかに、そして滑るようにルシーナに近づいてくる。顔は真上から落ちる影に包まれていて、良く確認できない。その者が神殿を出る一歩手前で、四人の神子達が回りに付き、棒のようなものに薄い布を張り天幕を作る。そして幕に覆われたまま、民衆の目に入る位置にまで外に出ると、四方を取り囲んで、天幕を張っていた神子達がバサッ、と垂れ下がっていた幕を取り払い、姿を見せた。

「セリ…ア…」

 今度はルシーナが唖然とする番であった。人々と同じように硬直し、微動だにしない。 その表情には、困惑の色がまざまざと広がっていた。

「ルシーナ様…」

「セリア…どうして…」

 吐き出す言葉もはっきりと紡がれることはない。途切れ途切れに繋いでいくしか出来ないようだ。

 セリアは街の宿屋に預けてきたはずだった。身分を偽り、兄妹と名乗って、自分が戻ってくるまで絶対に、妹を外には出さないで欲しい、と重々、釘を差した上で大金まで積んだというのに、何故、こうもあっさりここに辿り着くことが出来るのだ? やはり、自分の考えが甘すぎたというのか? 人を信じるべきではなかったのか?

 その考えを裏付けるように、セリアの背後には、街の店主がひょっこり姿を見せていた。 ルシーナは後悔していた。

『やはり、人は神には逆らえなかったのか…』

 セリアと店主が何の取引をしたのかは定かではないが、現実にセリアは目の前にいる。これでは、先程行ったことが元も子もないではないか、とルシーナは辛苦の表情を顕わにした。

 全ては無に帰した。ルシーナの計画は潰え、これからこの儀式がどのように進行していくのか、容易に想像する事が出来る。

 がっくりとその場に両膝を着き、心を覆い尽くす無念さを体現する。そんなルシーナの気持ちとは全く関係なく、二人の屈強な体躯をした大地の神子達がルシーナの両脇に付き、その身体を束縛した。両腕をきつく捉えられ、大きな動作は取れない。そしてそのまま引きずられるように後退させられ、人々の前から姿が見えなくなった。

 しかし、神殿内部にまでは入らず、入り口の少し手前で三人は立ち止まる。それはファムル長老の指示によってであった。ルシーナに最後までこの儀式を見届けさせるためだろう。セリアもそれを知っていたようで、三人の姿が残っているのを確認すると、民衆の方を見下ろし、自らの言葉を高らかに謳い出す。

「聞け、我が国の者達よ! 我が名は、セリア=ジル。太陽の神の元へ嫁ぐために、この地上に舞い降りた姫神子である! 百年来、我は再び太陽の御元に嫁入りする。

 そして我は、この国に永遠たる平穏と繁栄をもたらすであろう。

 しかし、思い出して欲しい。月の神子、ルシーナ=アストラルが語った言葉を。

あの方は『自らを信じ、自らの意志に従い、道を切り開け』とおっしゃられた。さすれば、皆の心に神は舞い降りん、と…。

 神は存在するのか、と問われれば、我はこう答えるであろう。その答えは否であると。

 この地上に、この国に、この世界に神は存在しない。しかし、我はこれより、神の御元に参る事であろう。その神とは、皆の心のことである。

 神を信じること。それは即ち、己を信じること。

 神の意志に従うこと。それは即ち、己の意志に従うこと。

 我は、この儀式により皆の心に降臨し、皆の心に永遠たる平穏と繁栄を与えるであろう。

それこそが、姫神子の務め。それこそが、我が望み。

 我の言葉を聞け! 我の意志に従え! 

 己が築き上げる神の道を、我と共に歩むのだ!

 神はいつ如何なる時でも、己と共にある。

 我が名は、セリア=ジル。皆の心と共に生き続けることを望む姫神子である!」

「おおぉぉぉぉ─────────── !!!」

 地鳴りかと思わせるほどの振動を有する叫びが神殿全体から発せられる。それはまさに、

太陽の神にまで届くのではないかと思わせるほどの勢いで、天空を貫いた。

 人生最後の、そしてこの国の命運を掛けた雄弁を終わらせたセリアは、高揚し過ぎた心を落ち着かせるように大きく何度も息を付き、次第に荒々しい動きをしていた肩を整える。

民達の様子をそこから伺うと、どうやら心は動かせたようだ。残る仕事はあと一つ。

 凛とした表情で後ろを振り返り、弱々しい顔つきで自分を見つめているルシーナの方を見る。その瞳が出会うと、セリアはにっこりと微笑んだ。民衆や他の神子達がそれを見れば、女神の微笑みを想像させるのだが、ルシーナには哀しみと憂いに満ちている笑顔にしか見えなかった。

「セリア…ダメだ…。行っちゃ、ダメだ…」

 まるで駄々をこねる子供のように、今にも泣き出しそうな声色で言葉を振り絞る。

 掠れるようなその声が聞こえたのか、セリアは笑顔のまま、ルシーナの瞳の中に輝く漆黒を見つめ、答えた。

「ルシーナ様、生き続けて下さい。そして…この国を、お願いします」

 言うと、その後の表情は見せずに、直ぐさま背を向ける。

 そしてゆっくりと階段を下り始めた。

「ダメだぁ! セリア! 行くな、行くんじゃない!」

 セリアは振り向かない。一歩、一歩確実に段を踏みしめ、少しずつ、高台の最下部に近づいていく。

「俺は誓ったんだ! この命を懸けてでも、君を護るって! 父さんや母さんに言われたんだ! 大切な人を護れる強い男になれって! 肉親のいない俺にとって、君は俺の大事な家族なんだ! もう二度と同じ過ちは繰り返したくはないんだ!」

 ルシーナの悲痛な叫び声は、誰の心に届いているのか。

「セリア様、万歳! セリア様、万歳!」の合掌が階段の両側から轟き、ルシーナの声は決してセリアには届かない。行く手で全て掻き消され、霧散し、風に流されていく。

 セリアはたったの一度も振り返らないで、神の世界へと続く階段に足を掛ける。一歩、また一歩と、静かに厳かに最頂部に登っていく。

 階段を一つ登る度に人々の合掌は、早さを増していき、精神を高揚させていく。十万人の同調した謳は、一種の麻薬的効果を発揮していた。それは間違えようもなく、神の儀式であった。

「離せっ! 離してくれ! 俺はあいつを行かせてはいけないんだ。あいつは俺の大事な家族なんだよ!」

 二人の巨躯は、ルシーナがその間でもがいても微動だにしない。

「離せってんだよ! この野郎っ!」

 最後の罵声と同時にルシーナは地面を蹴り上げる。捕まえられている両腕を支点にクルリと回り、腕がへしゃげる寸前に、片方の一人の顔面に蹴りを入れ、力の抜けた一瞬、その腕を解き放つ。僅かに遅れて、顔面を蹴飛ばされた男の身体がぐらりと揺らいだ。

 それに気付いたもう一方の男は、組んでいる腕を決して離すまいと力を入れようとするが、神速に近いルシーナの動きに合わせることが出来ずに虚空を締め付けた。

 タンッ、と再び両足を地に着けたルシーナは迷うことなく飛び出し、階段を駆け下りる。セリアが社に辿り着くその前に…。

 しかし、その動きはすぐに封じられた。階段に整列していた他の神々の神子達が一斉に取り押さえに踊り出てきたのだ。一直線にしか行きようのないルシーナは、一人、二人と薙ぎ倒して突き進むが、相手の数が数だけに、到底倒しきれず、再び取り押さえられた。

 多くの神子達に押さえつけられる中、精一杯手を伸ばして、視界の中に入るセリアを掴もうとするが、その手は何も捕まえることは出来ない。ただ黙々と階段を登り続けているセリアの背中を見ることだけしかできなかった。

 小さく華奢で、小柄な背中を持っているセリアだが、その歩みはとても力強かった。

「セリア…、セリア…」

 もう引き留めることが出来なくなったその者の名を何度も呟く。

 そのセリアは、遂に高台の頂上に辿り着き、社の扉に手を掛けた。

社を取り囲む太陽の神子達が手に持つ松明に、火が付けられる。

 儀式は最高潮を迎え、群衆の中には卒倒し、何人もの人間が倒れ始めている。それでもお構いなし、人々は一心不乱に叫び続けた。己の心に神が舞い降りるその時まで。

 そしてセリアは社の中に姿を消した。この世界との最後の境界である扉が、ゆっくりと閉じられていく。

 その閉じきった音が聞こえたわけではないが、ルシーナにはバタンッ、と二人を完全に隔絶する音が耳に届いた。太陽の神子達が松明を大きく頭上に掲げる。それを静かに前に下ろしていき、全員がほぼ同時に社に松明を突きつけた。

「やめろ…やめてくれ。頼む、お願いだ…。儀式を…誰でもいいから…誰か儀式を止めてくれぇぇ──!」

 ゴウッ、と爆発音のような音と共に、一瞬で社全体に火が回る。

「セリアァァァ───!!!」

 建てられる時に、素早く火が回るような塗料が、社全体に塗られていたのだろう。その効果は憎々しくも余すところ無く発揮され、太陽の神子達の何名かは、階段に辿り着く前にその業火に飲み込まれ、衣服に炎が燃え移っていた。焦ったその神子は取り乱し、僅かしかない社の壁と高台の縁の間で転げ回った結果、最上部から足を踏み外し、炎に包まれ、群衆の中に舞い落ちた。それでも儀式は止められない。誰も止めようとはしないのだ。

 一度暴れ始めた炎が燃え尽きるまでは。

「あぁ…う、うぅ…く……ぅっ…」

 言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ルシーナが伸ばし続けていた手はほんの少しずつ下がっていった。ペタンッとその手が段に着くとグッと握りしめる。その拳の中からは、じっとりと血が滲み出てきていた。

 ゴウゴウッと燃え盛る炎は、その勢いを衰えさせることはない。簡素な作りの社は、すぐに屋根が崩れ、壁が剥がれ、崩壊しつつあった。

「うおぉぉおぉぉ─────!!!」

 獣を彷彿させる叫びを、腹の底から天に向かって吐き出すルシーナ。大切な人を二度も護りきれなかった自分の無力さと、存在しない神に憎しみを込めて。

 その時、太陽の神殿全体を大きな影が覆い尽くした。いや、神殿だけではない。世の中全てが闇に覆われようとしていたのだ。

 人々はどよめいた。そして口々に呟き始める。

「見ろ…太陽が…」

「太陽が…消えていく」

「いや、欠けていっているんだ、月に…」

「月…」

「月が太陽を隠そうとしているのか?」

「太陽の神が御降臨されようとしているのだ…」

「姫神子を月の神が受け入れようとしているんじゃないのか…」

「太陽か…月か…」

 それはまさに、神の光景であった。月が太陽の前に被さり、地上に降り注ぐはずの光を遮断しているのだ。月が太陽を満たし、その周りには日輪となった陽の光が輝いている。

今、この世界にある光源はその太陽の指輪と社の業火のみ。

 民衆は呆然とし、パカリと口を開け、その光景に見とれていた。

 しかし、奇跡のようなその光景はさらに変化する。

 深い闇に包まれた世界の中で、太陽からなのか月からなのか、得体の知れない光の柱が、雲を割り、社にまで落ちてきたのだ。晴れきったはずの空にはいつの間にか浅く雲が掛かっており、その一部が神の仕業であるかのように真っ二つに割れ、光の道を創りだしている。蒼白いその柱は天空より社を貫き、天と地の架け橋に見える。柱が社に落ちた瞬間、この後、数時間は沈火することはないだろうと思われていた灼熱の炎が消し飛んだ。

ほんの一瞬で、フッ、と掻き消えたのだ。蝋燭の火が風に消されるように。

 その一部始終は夢か幻か、移動する月が太陽の光を少し零れさすと、蒼い光はまた空へと昇っていき、二つの神の象徴へと吸い込まれていく。

 やがて、僅かに漏れた陽の光は次第に拡大していき、再び世界に降り注いだ。

 神々しいまでのその光景に、誰もが我を失い、自我を保っている者は誰一人としていなかった。いや、一人しかいなかった。

 その一人にとって、幻術に掛かっているような神子達の間からすり抜けることなどたやすく、押さえつける力の抜けた群衆の中からするりと抜け出すと、他のことには目もくれず、疾風のごとく、社へ続く階段を昇りつめた。

 太陽は元の大きさを取り戻し、何事もなかったように、相変わらず燦々(さんさん)と大地に恩恵を与えていた。世界は数刻で夜から昼へと転換したのだ。

 この国で動く影はたったの一つ。その影が高台の最上部に辿り着くと、社の崩れ欠けた扉を蹴破って、中に駆け込んだ。

「セリアーー! セリアーー!」

 護るべきはずだった者の名を何度も叫び、ここにいるはずのその姿を必死に探す。しかしその姿はない。

 大人二人が両手を広げたぐらいの一辺しかない社の中には、誰もいなかったのだ。特に社内部に装飾品などが置かれているわけでもなく、何もない個室だったはずである。

 だが、崩れた屋根の下敷きにもなっていなければ、壊れた壁から外に出たわけでもない。万が一、あの炎の中で、セリアの身体が燃え尽きたのだとしても、骨が残るはずであった。 しかし、全くないのだ。セリアがいた形跡と言うよりも、人がいた形跡など何処にも見当たらなかった。骨もなければ、その肉片もない。衣装の燃えかすもなければ、燃え尽きるはずのない金属の破片すら何処にも落ちていないのだ。

 確かにセリアはこの社に入ったはずであった。それは見間違いようもなく、ルシーナは自分の目でそれを見届けたはずである。ルシーナだけではない、何万、何十万という人々がその瞬間を目撃したはずであった。

「一体、ここで何があったというのだ…?」

 おおよその見当も付かない状況の理解に、ルシーナは煤(すす)まみれの顔を歪ませた。

 ガタンッ、とルシーナの背後で音が鳴る。咄嗟にそこを振り返るが、そこにいた影は望んだ姿ではなかった。

「ルシーナよ…」

「ファムル…長老…」

 その音を鳴らした正体は、幾人もの我を取り戻した神子達に囲まれたファムルであった。

 それに気付くと、にわかに外がざわめいている声も耳を突く。国の民達も皆、我に返り始めているのであろう。その声は少しずつだが、はっきりと聞こえるようになってくる。

「ファムル長老…。セリア、セリアは…」

「セリアは、神に召されたのだ」

「神に…?」

「あぁ…、もっとも、太陽の神ではなく、あの娘は月の神の御元を選んだようじゃがな」

「嘘だ…。神など……この世界に…」

 あの決して偶然の自然現象という言葉では片づけられない光景を見せつけられ、社に入ったはずのセリアの姿は何処にも見当たらない。これだけの要因が重なると、神の存在を否定することは出来なかった。

「俺は…また、大事な人を…。大切な家族を…護れなかった。十三年前と同じ哀しみを…また、繰り返してしまった。俺に生き続ける資格など、何処にも有りはしない…」

 震える声で、自らの無力さを痛切に実感したルシーナの目は、瞳と同じ、闇しか映っていなかった。右手に作った握り拳で、燃え欠けている床を何度の何度も殴りつける。その拳の皮が裂けようが、血が迸(ほとばし)ろうが、ルシーナは何度も何度も、床を殴り続けた。

「ちくしょう…。ちくしょう…。ちくしょう、ちくしょうちくしょうぉぉおぉ!」

 大きく振りかぶった腕で力一杯、床を叩き付けると、バキッと激しい破壊音がし、底上げされている床に穴が空いた。床を貫いたルシーナの想いは空回りする。

「ルシーナよ…、セリアは何を望んでいた?」

「……」

「その想いがそなたの元に届いているのならば、これからそなたが進む道も見えておろう。

 後ろを振り向くな、ルシーナ=アストラルよ。セリアの想いはいつもお前と共にある。

 己を信じ、己の意志に従うのじゃろう? その言葉に偽りがなければ、立ち上がるのじゃ、ルシーナよ。そなたはこんな所で留まるような男ではない」

「ファムル…長老」

 ファムルの言葉の一言一言がルシーナの心に染み渡る。

 父親の想い。

 母親の望み。

 そして、セリアの願い。

 時代はまた、同じ時を、同じ試練をこの者に与えようとしているのか。

「月の神子、ルシーナ=アストラルに問う。

 汝、進むべき道が、如何(いか)なる道であろうと生き続けることを望むか?」

「……はい」

 ガタンッ

 ルシーナが心を決め、返事をした瞬間、物々しい音が社の中に響いた。全員の視線が扉の方に向けられる。そこには、疲労のために苦悶の表情を浮かべた星の神子が立っていた。急いでこの長い階段を駆け上がってきたのか、肩を荒々しく上下させ、必死の形相で何かを伝えようとしていた。

「長老! ファムル長老!」

 その星の神子は社に入ってくるなり、長老の名を呼び続けた。

「何じゃ、騒々しい」

 発せられた声から、長老の姿を見つけると、間髪おかずに星の神子は話を始める。

「何じゃと…」

 話を聞いたその場の誰もが、その内容をすぐには信じることが出来なかった。

 しかし、ルシーナはこの時、神の存在を確信した。

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