第二部 第一話


「他愛と自愛の差は何だと思うね、蒼君」

「……相手を好きになるか、自分を好きになるか」

「相手、というのもあいまいなものだね。他人としておこう。私はね、優先順位の問題だと思っているんだ」

「優先順位?」

「自分と他人とどちらがより大切か。より美しいか。より尊いか。私も絞り粕だが、少しの占いぐらいは出来るんだよ」

「それが、」

「蒼君。君の愛情はいつか綾姫を殺すかもしれない」

「っ」

「だから今のうちに植え付けておくのさ、この問題を。君は他愛と自愛、どっちをもってあの子を愛しているのだろうとね。私には、自愛としか思えない。私が綾姫を愛するように、分割された魂の欠片を思っているようにしか思えない」

「っ、それでも!」

「そう、『それでも』だ」

「?」

「それでもと君が言ってくれるのなら、あの子は幸せなのだろう。絶対的な愛情。これより恐ろしいものがあると想うかい? 蒼君」

「俺は――知らない」

「ほう」

「綾姫の愛情は俺のとは違うと思う。こんな激情ぶつけられた事はないから、知らない」

「――くっく」

「何がおかしい、皇児」

「いやね。君たちは本当に、良い関係を築けているようだ。羨ましいぐらいだよ。私と綾姫ではたどり着けなかったアニマとアニムス。そこにいつかは、辿り着いておくれ。巫部、蒼。いつかは九頭竜の蒼となって」

「なんだそれ……」

「なに、ただの願いごとさ」


アニマとは

 精神医学者ユングの用語。男性の無意識の中にある女性的な面。


アニムスとは

 ユングの用語。女性存在として育成された人の心にある無意識的な男性的傾向ないし男性像。



 学校内結界に入ってきたそいつを最初に感知したのは綾姫だった。夜も更けた時間、寝静まっていた俺達は一気に目を覚まし、もどかしく着替えながら――流石に寝間着で行くつもりはないが、俺達が唯一持っている洋服が学生服なのでそれにした――学校に向かう。校庭の結界の中ではじたばた暴れている龍がいた。暗がりで良くは見えないが恐らくは紫龍だろう。こうして夜中に叩き起こされるのも何度目か――まったく、面倒なことこの上ない。いちいち探さずに済むのは、楽なんだが。

「やめよ紫龍、あなたにこの結界は解けぬ」

 綾姫の張る声を響かせると、紫龍は一旦動きを止めた。

『貴様が龍封じの娘か。我が同胞をよくもこれだけ集めてくれたものだな』

「それが仕事なのでな」

『ならばそのような仕事、出来ぬようにしてくれるわ!』

 放たれたのは火炎でも水流でもない。俺は水の壁を作ってそれを退けた。毒霧だろう、往年のプロレスラーかよ、などと思いながら俺は綾姫の前に立つ。銀と朱は左右に展開した。綾姫は御幣を使って呪文を唱え始める。学校結界と校庭の龍封じ結界で随分弱った力をしていたが、龍は龍だ。恐れるべきものだ。もっと力を制限しようとするその行動に、紫龍はぴくりと眉を寄せた。それからまた毒霧。俺は水の壁でそれを断つ。朱が火炎を、その援護に銀が風を送ると、霧は燃えて逆流するように紫龍の口元まで戻っていった。ぎゃあ、と言いながらも大したダメージを食っていないのは流石に龍様様だが、この場合は面倒でしかない。

 朱がもう一丁とばかりに火炎を放ち、銀も追随する。自分だけ何も出来ないのは悔しかったが、いつもの事と言えばいつもの事だったので、あまり気にしないようにした。俺は結界、自己愛。自分を守るための物。言ったら銀だって自己保身だが、それとはちょと違うんだろう、多分。そうとでも思わなけりゃやってられない、思いながら氷と水の壁を重ねていくが、紫龍は朱の炎の方を厄介に思ったのか、そっちに毒霧を噴いた。俺は慌ててそっちにも結界を張るが、少し肺に入ったのか朱はゲホッと血を吐く。人間より多少頑丈なだけの俺達は、言ってしまえば龍にとっては脆弱な存在だった。それを見抜いたらしい紫龍は次に銀にも毒霧を浴びせるが、そっちは間一髪結界が間に合う。するとぎらりとした眼は俺に向けられた。

『邪魔だ、小僧』

「生憎と邪魔をするのが目的なもんでな」

『小賢しい! 式鬼が我ら九龍に敵うと思うてか』

「やり方に、寄るんじゃねーの!?」

 重ねた結界をバリバリと破られるが、最後の水だけは分厚くしておいたので中々その牙は通らない。その隙を突いて銀が槍に転じ、紫龍の顎を貫いた。ぐがっと出る血は赤い。誰かの式として使わされたわけではないだろうが、こいつは綾姫を『龍封じの娘』と呼んだ。明らかに綾姫を知っている奴から唆されたのだろう。面倒な奴が後ろにいるのが透けて見えるってのは嫌なもんだ、俺は更に水流を強くして龍の顎を上げさせる。きな臭さは尻尾の方からだ、朱が炎で焼いているのだろう。がっ、がっとわめく紫龍は毒霧も吹けず尻尾をばたんばたんと言わせて鎮火中だ。その間に綾姫は呪文を唱え終え、紫龍の力は更に弱くなる。

 残っていた一本の槍で紫龍の腹を刺した銀は、そこに虫の標本のように紫龍を張り付けることに成功したようだった。校舎にはこれで被害も行くまい、綾姫が勾玉を出そうとしたところで――


 紫龍の爪が、綾姫のその手を掻いた。


「綾姫!?」


 龍には牙だけでなく爪もある。しかも毒を司るの龍の爪だ。吹き上がった鮮血に、しかし綾姫は勾玉も離さず動じもしない。俺のミスだ、爪もきちんと把握しておけば――だが血まみれの手で、綾姫は俺にその勾玉を渡した。


「っ、綾姫?」

「傷は無事だ、問題ない」

「腕裂けてんじゃねーか、全然問題なくねーよ!」

「良いから行け! 今の私では仕損じるやもしれぬ!」


 俺の腕に血まみれの札を張り付けて――


「っ……急急如律令!」


 六匹めの龍は、そうして捕まった。


 大したことがないと綾姫が言い張るので、玄の治療はなしにしたが、体育は見学だし休み時間には包帯を代えに保健室に出向いていた。大丈夫なの、と問うてきたのは湍だが、俺も正直なところは解らない。式とは言え痛みを共有できているわけではないからだ。俺の髪を左右からいじくりまわしていた雛罌粟と雛菊は、同時にポンと俺の頭を叩く。

「綾姫の事じゃないよ」

「蒼君の事だよ」

 双子のユニゾンに、俺は思わず握った手に爪を立てた。綾姫はまだ、保健室から戻らない。


 六匹目ともなると流石にどうしてこちらを警戒したそぶりを見せるので、やりにくいことはやりにくかった。だがそれでも俺と銀と朱でどうにかなると思っていたんだ。事実今までそれでどうにかなっていた。紫龍は毒霧を吐くが、それは俺の水の障壁に溶けて問題もなかった。いつものように銀が角の槍と化し、綾姫は勾玉にその呪力を封印し、学校の校庭には所狭しと龍が蔓延るようになった。たまに綾姫が体調を崩すと悪さをするようになった奴も出て来たから、結界をもっと強めにしようと言う提案はあったのだ。だが綾姫はそれを遠ざけるようにし続け――そして今回の、紫龍だ。俺の壁を破って綾姫を傷つけた。綾姫の結界が多少緩かったのには気付いていたが、毒霧だけに注意を払っていたのは失敗だった。龍には恐ろしい爪と牙がある。その爪が、綾姫の白い肌を割いた。屈辱だった。俺が付いていながら綾姫を傷つけてしまった。それは屈辱以外の何でもなくて、ツインテールにされている事すらどうでも良いほどだった。って言うか護法具を取るな。俺も俺で封じてなきゃ他人に有害な部分はあるんだ。

 そう、俺達は有害だ。害をもたらす式鬼だ。大陸では鬼を幽霊と同じ扱いで呼ぶらしい。いっそその方が良かったかもしれない。生も死も無ければ、もっと俺達は無茶ができる。そしてその分綾姫を危険から遠ざけることができる。素敵な妄想だった。反吐が出るほど。時間ギリギリになって帰って来た綾姫は、相変わらず無表情だったが、そこから漏れる血の匂いは止まなかった。


「怪我をしているのかな? 綾姫ちゃん」

 いつかと同じ校門の前。

 真っ黒な学ランににっこりと貼り付けたような笑みを浮かべて待っていたのは、台継うてなだった。

 って言うか生きてたのかこいつ。てっきり式に食われたのかとでも思っていたのに。否、それより全快状態でない綾姫をこいつに近付けるのは危険だ、判断した俺は綾姫を背中に隠しながら奴を睨みつける。おお恐い、なんておどけて見せるから尚更だ。そう言えばぶら下げていた式神の小瓶がないことに気付くと、あああれね、と俺の視線に目ざとく気付いた台継は答えた。

「式の慣らし方を少し変えたんだよ。だからあの小瓶はもう必要ない。体内に式を飼うって言うのは中々に便利だね、欲しい時にタイムロス無く力が発揮できるって言うのはさ。綾姫ちゃんもそうやって式鬼を飼っているんでしょう?」

「……さあな」

 当たりと言えば当たりだが、外れと言えば大外れだ。俺達は綾姫そのものなのだから。

 相変わらずガードが堅いなあ、などと言いながら台継は綾姫の足を見る。

「どうやってくっ付けたの? それ」

「教えてやるほど親切でもない」

「あはは、それもそうか。でも、ふむ、そうか、末端を切断されたぐらいじゃ死ななくなるものなんだねえ……鬼は首を切ると死ぬと言うけれど、君達はどうなんだろう。この前の銀君と良い、朱ちゃんと良い。まあ試してみる価値はありそうだけど、貰うなら綾姫ちゃん一人で十分だよね。見敵必殺一撃必殺、防御の手段を考える隙間はない方が良い」

 ふむ、と何かに納得した素振りの奴は、くるりと踵を返した。

「また会いに来るよ、綾姫ちゃん。出来ればその傷が癒えないうちにね。そして僕の龍を返してもらう」

「残念ながらあの二匹はすでに私の式になっているぞ。黒龍は特に、前の主である貴様を毛嫌いしている」

「あはははは、ひどいなあ、あんなに一生懸命手なずけたのに、君ったらすぐにそれを台無しにしちゃうんだもん。これは何故かな? 君も『鬼』である故かな?」

「ってめえ、いい加減にっ」

「騒がずとも良い蒼。仮にそうだとしても、お前に式使いの才覚はないよ。台継」

「僕は天才だよ。出来ない分野なんてないに決まっている。おじいちゃんすら舌をまいた絶技、ここで見せてやっても良いんだぜ」

「いらん、一文にもならん。お前はお前に欠落しているものを見つけられない限り、ずっとそのままだ」

 欠落。欠乏。欠陥。人に仕える、『人を守る』陰陽師として育てられた綾姫には当たり前の事が、自分のために術を使ってきたこの男にはない。ぎりっと歯を鳴らして、それから一つ深呼吸。台継はくるりと背を向けて、去っていく。

 その学ランの黒い背には、大量の式が浮かんでは消えていた。

「……綾姫」

「解っている。あやつどうやら、式に食われたな。精神を」

 あの時綾姫優先で動いた自分達を否定する気はないが、それでも後味が良くないのは確かだった。

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