第7話

 週末に借家に引越しをした。家具はすでに搬入されていたので、持ち込んだ衣服をクロゼットやドレッサーに収納して午前中で完了した。

 近くのスーパーに食品と日用品を買いに出かけた。日曜日の午後でスーパーは買い物客で賑わっていた。食品をカートに入れるジミーを連れたサラは他の客たちとなんら変わることがない。サラにとっては夢だった、ただの家族連れがそこにいる。

 中畑にとっても普通人の家庭生活が始まったのだ。エリート商社マンのために敷かれたレールを驀進する中畑が、トップレス・バーの元ダンサーと寝食を共にする。世間では理解に苦しむことになろう。新入社員時代の独身寮の風呂場では考えも及ばなかったことである。

 しかし、中畑自身は冷静であった。この十年間に身辺に起きたことが中畑を変えたのだ。

 丸の内時代の中畑の担当地域にはソ連が含まれていた。そのため商談のために頻繁にモスクワに出張した。出張者はソ連政府が発行する商用ビザを取得する必要があった。通常は一週間の滞在が許され、商談が長引いた際にはもう一週間の延長が認められた。出張者はビザ期限ギリギリまでモスクワに留まるのが常であった。

 モスクワ発羽田行きの直行便は、英国航空、エアーフランス、ソ連国営のアエロフロートなど日に数便が飛んでいた。JALもその一社で、JAL便は夕刻八時過ぎにモスクワを発つその日の最終便のために多くの出張者が利用していた。

 ある時、公団との交渉が予想以上に長引いたために、中畑が空港に駆けつけたときにはそのJAL便が離陸した直後であった。ところが、このJAL便が離陸直後にモスクワ近郊に墜落して乗客と乗員の全員が亡くなったあの大惨事のフライトだったのである。中畑と共に出張していたメーカーの技術者たちがこの事故で命を落とした。交渉が予定通りに終了していれば中畑もそのひとりであったはずだ。

 この墜落事故の数年前のことである。モスクワ事務所で頻繁に顔を合わせた先輩社員がいた。異なる商品部門のために仕事上の付き合いはなかったが、その先輩の父親が某国立大の経済学部の教授だったために、経済学専攻の中畑には馴染みの学者で、それもあってモスクワでは親しく語り合う仲であった。

 その先輩社員がモスクワの後にポーランドのワルシャワに出張した。

 ワルシャワ郊外での商用を済ませた夕刻時に、同行した他の出張者と共に三台の車に分乗して滞在していたホテルに向かった。その日は、縦列になった三台が前後の車を識別できないほどの濃霧が立ち込めていた。

 先頭の車と最後の車がホテルに到着したものの、その先輩社員が乗る二台目が帰還しない。三台目が途中で大きな交通事故の現場の脇を通過していた。

 それが、対向車線を越えてきた地元の農夫が運転するトラックと正面衝突した先輩の乗る車の事故現場で、乗り合わせた全員が即死する大事故であった。農夫が運転していたトラックの荷台には墓地に建てるための大きな十字架が残されていたそうだ。

 信心深い中畑ではなかったが、身近に起きたこれらの事故を契機に、自己の意思では左右できないなにか大きな力の存在を信じるようになった。独身寮の風呂場でこれを口にすれば同期の皆が一笑に付したことであろう。

 女が放つ微かなセントを見逃すことがなかったのは、そのような力が背後にあったからに違いない。中畑は、そのような大きな力がもたらす変化は、あらたな世界への扉を提供するとも信じていた。その扉を開けるのも敬遠するのもそれは当人の分別次第であることも。


 夕食はサラの手料理を三人で楽しんだ。料理の腕もたしかで、独身生活が長い中畑には社会人になってはじめて味わう家庭の夕食であった。食事を済ませたふたりはスーパーで借りたレンタルの映画を見ている。ダスティン・ホフマン主演の“卒業”だ。ジミーは生まれてはじめてあてがわれた個室のベッドで眠っている。

 ビデオを見終えたふたりがシャワーを済ませた。メイン・ベッドルームには新調のベッドに、洗ったばかりの新しいシーツが敷かれている。サラを抱きあげた中畑がベッドルームに運ぶ。

 「マア、新婚みたい」とサラが悦ぶ。

 ベッドに横になったサラが、「処女であなたと結ばれたかったわ」と呟く。

 サラを横から抱いた中畑が、「サラ、人間の細胞は今この時にも入れ替わっているんだ。一年もすると身体は別の人間になっている。今の君は処女なんだよ」

 「子連れの処女なのね」

 「そうだ。肉体が結ばれるのは瞬時に過ぎない。君と僕とは肉体だけでなく心で結ばれている。だから、サラ、セックスではなくメイク・ラブなんだ」


 女の股の奥はすでにしっとりと濡れ、花弁に沿って滑り降りた指がそのまま入り込んだ。女が腰をねじる。抜いた指から女の愛液が放つセントが漂う。このセントがサラへの愛を誘い寄せ続けるのだ。その愛する男にしか伝わらないセント・オブ・ザ・ウーマンが男を包み込もうとしている。

 シャワーを浴びたばかりのサラの肌はローションをたっぷり塗りこんだようにしっとりとしている。トップレス・バーのテーブルの下で中畑の手を挟んだ太腿は餅肌であった。中畑が接するサラの肌はどこもが大福餅を手でつかんだ時のような感覚を与える。

 中畑はモスクワに出張したある時、雪のモスクワの路上で滑って足首を捻挫したことがある。その時に訪れた診療所の若い看護婦の腕が同じような餅肌で、空気が少し抜けたゴムボールを握ったときのような奇妙な感じを覚えたものだ。若い女の肌は瞬発力に満ちていながら、ゆっくりと元にもどるようなしっとりとした密着感が中畑の手に伝わった。このような肌はスラブの女性に多いのだろうか。サラにはドイツだけでなく、クリミア地方のスラブの血が混ざっている。

 両手をあげてその両手をヘッドボードに接した姿勢で仰向けになった女。たわわな乳房が覆いかぶさった男の目の下に横たわる。

 男が入り込むと女がヘッドボードを強く押して男女は密着した。そのままの姿勢の男女が寝返りを打っても結ばれたままだ。とっさに、その昔、通勤電車の中で読んだ新聞に連載され、その後にベストセラーになった小説を思い浮かべた。男女が結ばれる際に男が女の腰の下に枕だったか座布団だったかを差し込む場面が登場する。あの小説の場面ではとても結ばれたままの男女がベッドの上で横転することはできないであろう。

 男と女の激しい動きがついに極まって悦びの頂点に達した女は、それまでベッドに横たえていた長い両脚を男の腰に絡ませ、両手で男の背を掻き抱くと、歓喜に咽んだ声を発してはてた。

 待ち望んだメイク・ラブの瞬間であった。それまでは微かであったセント・オブ・ザ・ウーマンが今では女体を覆っている。やはり、女の徴と訳すべきだろう。


 メイク・ラブで肉体だけでなく心も一体になったふたりにあらたな世界が広がろうとしていた。

      (”続 セント・オブ・ザ・ウーマン”へ)


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セント・オブ・ザ・ウーマン ジム・ツカゴシ @JimTsukagoshi

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