第2話

 着替えのために部屋にもどったサラとジミーを一階のロビーで待つ間、顔なじみになった受付の中年の男が語りかける。

 「デートかね。あの女はしっかりしているよ。トップレス・バーにはもったいない」と、いってから、お前さんのような堅気といっしょになれば幸せなのだがと付け加える。

 やがてジーンズにオーバーサイズの白いブラウスの裾を前で結んだ姿のサラがエレベーターから出てきた。ジーンズが体型をそのまま伝えている。くびれた腰を載せたスラリとした両脚。サングラスを乗せた髪はブルネットで、瞳はグレーだ。両耳のピアスをのぞくと装飾品を身に着けていないことが清楚な雰囲気を醸し出している。襟を立てたVネックの胸元から深い谷間が覗く。

 受付の男が、「お似合いの夫婦のようだぜ」

 「なにをいうの。この人は商社のエリート社員で私たちとは別の世界の人なのよ」

 「サラ、お前さんにはりっぱなカミサンになる筋がある。自慢じゃないが俺には見抜く才があるんだぜ」

 「だったらなんで奥さんに恵まれないの?」

 「ベッピンが跪いて俺に求婚するのを待っているんだ。きっとそうなる」

 男の笑い声を背に表に出た。ジミーが中畑の手を握っている。


 タクシーでシカゴ市の南にある科学博物館に向かった。土曜日のために交通量が少ない。ミシガン湖に沿って走るレイクショアー・ドライブと呼ばれるハイウェー上を、湖を左手に見ながら進む。やがて、ナチス・ドイツから没収したUボートを玄関脇に陳列する博物館に着いた。

 館内には自動車や鉄道車両の初期のものから最新のものまでを含めて、発明の歴史を目にすることができる。人体をスライスした見本も陳列に含まれ、ジミーよりも母親が楽しんでいた。いつものことで、週末の館内は賑わっていた。ジミーを真ん中に並んで歩くサラと中畑は、行き交う家族連れと変わりはない。少々毛色の異なる家族と映るからか時折振り返る者がいるだけだ。

 中畑が驚いたのはサラがコンピューターのコーナーで見せた博識であった。ヒューレット・パッカード社によってパーソナル・コンピューターと呼ばれる端末が発表されたのは、中畑たちが社会人になった一九六八年であった。コーナーではそれ以降の歴史が紹介され、マイクロ・プロセッサーの進化の様子が陳列されていた。サラは細かなことにまで通じていて、ここでは中畑が生徒の立場であった。一九八一年にIBM製品が発売されてPCなる語が普及する直前のことで、ビジネスマンでもこの分野に通じた者はまだ少数に過ぎなかった。

 サラによれば前年に発売されたアップル社のパソコンをシカゴ市内の専門店で操作したことがあるそうだ。中畑はその製品に関する記事を見聞きしていたが触ったこともなかった。

 博物館に付属するカフェテリアで遅い昼食を食べた後に、ミシガン湖畔にある水族館を訪れた。ジミーにはこちらの方が面白かったようで、嬉々として大きな水槽に見入っている。

 ホテルにもどるタクシーが夕闇が迫るダウンタウンを通る。疲れたのかジミーはすっかり寝入ってしまった。そのジミーを見ながら中畑が、

 「サラ、夕食は外食を止めてテイクアウトにしよう」

 「そうね。私もあんなに歩いたのは久しぶりで疲れちゃったわ」

 「ホテルの近くに中華料理のテイクアウトがある。中華でもよい?」

 「あそこは私も時々利用しているのよ」

 

 中華料理のテイクアウトを手にした中畑がサラのアパートのドアーをノックする。Tシャツと米国ではレギングと呼ばれるタイツに着替えたサラがドアーを開けた。中畑の手を引いて部屋に引き入れる。

 アパートにはふたつのベッドルームがあった。トップレス・バーで同僚のダンサーと共同でアパートを借りているからだ。ルームメイトは、その週末は店で知り合った男と北隣のウィスコンシン州にドライブに出かけていた。日曜日の夕方まで不在のために、サラはすっかり寝入ったジミーをその部屋のベッドに寝かせていた。

 中華料理を済ませたふたりがソファーに並んで座る。

 「カズ、きょうはありがとう。どのようにお礼をいったらよいのか考えつかないわ。普通の家族はあのようにして休日を過ごすのよね」

 「僕も君といっしょにいるのが楽しかった。サラ、君は心が優しい魅力溢れる女性だ。半日いっしょしてそれが分かった」

 「あなたのようなエリート・ビジネスマンが、私みたいな女を伴侶のように親切にしてくれる。昨晩の私と今の私は別人のようだわ。これまでに考えてもみなかったことよ」

 「サラ、職業に貴賎はないというけれど、今の職場は君には相応しくない。僕に考えがある、任せてくれないか? ジミーを連れて僕といっしょに郊外に移ろう」

 「そこまであなたに甘えてしまってよいのかしら? トップレス・バーの元踊り子で、その上失踪した男との間に産まれた子持ちといっしょ、と世間が知れば、カズ、あなたの経歴に傷がつくことになるわ」

 「君と僕が他人から後ろ指を指されることをしない限り、そんなことは心配する必要がない。トップレス・バーはもうおしまいにしよう。よいね?」

 サラの目から涙が溢れ出る。大きく頷いたサラが中畑に抱きついてきた。

 Tシャツの下はノーブラだった。シャツの下の裸体を滑った中畑の片手が大きな丸みをつかみ、もう一方の手が女の柔らかな腰を抱く。中畑の背にまわしたサラの両手が強く男を抱きしめた。

 サラを抱いた中畑は、この女性との邂逅は人の力を超えたなにかがもたらしたものに思えてならなかった。トップレス・バーで鼻を過ぎったあのセントを放つ女は、中畑を魅了する優しさに満ちた女でもあった。

 そして、博物館や水族館での振る舞いから、この女はなにかを密かに隠し持っているに違いないと思われた。掃き溜めに鶴とはこのようなことを指すのだろうか。

 その女が心を開いて寄りかかっている。女への愛おしさが中畑を襲った。強く抱き直して唇を重ねる。

 「カズ、今夜はここに泊まってくれる?」

 Tシャツの下の乳首がシャツを突いている。


 シャワーを浴びたふたりがベッドに倒れこむ。優しく乳房をさすった男の手が、女の臍の下で恥骨のすぐ上の下腹部に達した。すると、そこに小さなしこりがあった。それに気付いたサラが、「半年ほど前からなにかができたみたい。別に体調に変化もないからそのままにしてあるのだけど」

 「押しても痛みはないのか?」と中畑がその辺りをそっと押す。

 「ないわ」

 「月のものは正常なの?」

 中畑は子宮内に腫瘍が発生する女性が少なくないことを聞いたことがある。大半は更年期を迎えた中年の女性とのことだったが、二十歳台の女性にもあるのかもしれない。

 「正常よ」

 「最後のセックスはいつだったの?」

 恥ずかしそうに、「もう一年はセックスしていないわ」

 「このまま放置するのはよくない。医者に見てもらおう」

 ミシガン通りを隔てた湖岸に大学に付属する大きな総合病院がある。

 「月曜日にいっしょに病院に行こう」

 「でも、私は健康保険を持っていないのよ」

 「この国ではどこの病院でも訪れた患者の治療や手術を拒否できないことになっている。未付保の者には国の制度が適用されるはずだ。メディケイドと呼ばれる制度だけど、今までに利用したことはないの?」

 「ミネアポリスでアルバイトをしていた時に、急性の肺炎になって救急病院で治療を受けたことがあるの。あの時も治療費は負担しなかったわ。だからか三日で病院を追い出されたけれど」

 「その時の記録はある?」

 「あるはずよ」といったサラがベッドの下に置いていたスーツケースの中をしばらく探って、その当時の書類を差し出した。

 「カズ、月曜日は出勤ではないの? 独りでは心細いけど、そこまであなたの手を煩わしては申し訳ないわ」

 「幸いなことにこの月曜日は日本では祭日なんだ。本社が休みだとテレックスも入らないから大丈夫だ。サラ、心配しなくてもよいよ」

 日本が祭日の日はその朝に入電するテレックスは緊急事態でもなければ皆無だ。ファックスが行き渡るのは数年後で、日米間の通信手段はテレックスだけであった。インターネットも存在せず、今のように携帯で四六時中追い回されることもない長閑な時代であった。

 それでも日本が連休になると、その時に限って仕事に直接関係しない視察団が訪れてアテンドせねばならない煩わしさがあった。個人が自由に海外旅行をすることが不可能だった当時は、地方の議員や団体関係者、時には総会屋が連休を利用して海外視察の名目で訪れることが珍しくなかった。幸い名所旧跡に欠けるシカゴまで足を運ぶ者は少なく、ニューヨークやロスの駐在員に比べれば恵まれていたといえよう。ニューヨークや西海岸の駐在員たちは、一日に数組の訪問者を抱えることも珍しくなく、駐在業務の大半を接待が占めることも少なくなかった。


 その夜はサラのベッドで添い寝をして過ごした。だれかと一夜を過ごすのは数年ぶりだとサラが呟く。

 大都会で子供を抱えて懸命に生きる独り身の毎日。それに立向ってきた気力のバネが緩んだのか、中畑の腕を枕代わりにして背を向けたサラが咽び泣く。女の胸に回した男の腕が女体を強く抱きしめる。やがて日中の疲れからかサラは軽い寝息をして眠り込んだ。中畑の手を握りしめたままだ。

 日曜日はサラが洗濯のために地階に下りている間に部屋の掃除を手伝った。地階にコインで操作する洗濯機と乾燥機が数台置かれていて、ホテルの滞在者や近辺の住民が利用している。

 米国の掃除機はアップライトと呼ばれる縦型で大きな音を出す。日本のある家電メーカーが日本製の消音型を持ち込んで拡販を図ったが、無残な結果に終わった。余りにも音が低いので吸引力に欠けると疑われたからだ。その大きな音を出す掃除機でルームメイトの部屋を合わせて床の掃除をする。

 部屋の棚には数年前に手にしたと思われる簿記の初級と中級の教科書があった。初級を開くとびっしりと書き込みがある。中級は冒頭の数ページで書き込みは消えていた。コンピューター言語のひとつであるコボルの解説書もあった。パソコンが普及する直前の当時は、コボルやフォートランなどのコンピューター言語の基礎知識が必要とされ、丸の内時代には社内研修が開かれて中畑も受講したことがある。前日の博物館で見せたサラの知識から考えれば驚くことではなかったが、トップレス・バーのダンサーには似つかわしくない妙な取り合わせに、中畑は女の複雑な過去を垣間見る思いであった。


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