セント・オブ・ザ・ウーマン

ジム・ツカゴシ

第1話

 踊り終えた女が舞台を降りて男の横にもどった。

 ここは一九七〇年代末のシカゴの繁華街の一角を占めるトップレス・バーである。ホステスたちが舞台で踊りながら胸を露にするだけのたわいのないショーだが、日本からの出張者の間では密に人気で、夕食後の二次会に希望する訪問者が少なくなかった。

 シカゴの街を南北に走る目抜き通りであるミシガン通りには広い歩道に面して高層のオフィス・ビルやデパート、高級アパレル店が連なる。通りの東側の高層ビルの背後はミシガン湖畔で、米国でも有数の景観を呈している。西側は低層のオフィス・ビルや商店が連なる商業地区になっている。その商業地区を斜めに走る片側一車線の狭い通りがラッシュ・ストリートで、沿道はレストランやバーが軒を連ねる歓楽街になっている。その一軒がこのトップレス・バーであった。

 商社のシカゴ駐在員に着任してまだ日が浅い中畑和彦だが、このトップレス・バーに客を案内するのはすでに三度目のことであった。その日は本社の有力取引先からのふたりの出張者を伴っていた。


 日本からの訪問者が海外支店を訪れる際には、本社の窓口部門があらかじめ接待要領を記載したアテンド依頼書をそれらの支店に送付するルールになっていた。

 訪問者の重要度に応じて、事務所で名刺を交換するだけのもっとも簡素なものから、空港で出迎えて三食を接待し、ゴルフや観劇に同伴したり、場合によっては米国内の観光旅行にも同行するもっとも密着度の高い客までが細かにランク付けされている。海外支店はこの接待要領書にしたがって訪問に応じていた。夕食を接待し、その後にトップレス・バーに案内するのは、あまり粗末な接待が許されない中の上クラスが通例であった。

 その日に中畑が相手にするふたりの客はメーカーの課長と鞄持ちの担当者で、支店長が接待するまでもない中クラスである。夕食を終えてホテルに送り届ければ済むのだが、担当部からは、競合商社からの働きかけがある油断できない先なので相応の接待を要請してきていた。

 ここの女たちは座席ではホステス役で客のオーダーを取り次ぎ、順番がくると持参したレコードを舞台の袖に置かれたプレイヤーにかけてショーを演じる。ダンサーとウェイトレスが分業になって客がかぶりつきでダンサーを見上げるスタイルが登場する前のことだ。

 舞台の上で衣裳を脱いで上半身を露にし、全裸になるような素ぶりはするものの下半身は隠したままで、日本の場末のストリップ劇場と変わりがない。しかし日本に白人女性によるこの類のショーがまだ存在しなかった当時は、シカゴに出張する者の間では密かに期待される余興になっていた。

 当時のシカゴにはプレイボーイ社が直営するメンバー制のナイトクラブも存在した。瀟洒な内装のクラブ内で皮製のソファーに座った客を、黒い網タイツが太腿を強調するセクシーなバニー・ガールが接客する。豪華な気分に浸ることができることから訪問者には人気があったが、裸のショーではないために、若い層にはトップレス・バーを好む者が多かった。


 その女は中畑の顔を覚えていたようで、マネジャーと思しき男に耳打ちすると、中畑とふたりの出張者が座ったテーブルにふたりの若いホステスを伴って着席した。日本人客はチップの払いがよいうえに、薄暗い座席で淫らな行為をすることもなく、ホステスの間では好評なのだ。 

 米国出張がはじめてのふたりの訪問客はトップレス・バーがすっかり気に入ったようで長居をきめていた。日本と異なり酒の類は米国ではどこでも請求される額は知れている。家族を心配する必要のない独身の中畑は訪問客をせっつく必要もなかった。

 女たちのショーが一巡し、二度目のショーに入った。中畑の左側に座ったその女は、また順番がきたからと席を立って舞台の裏側に消えた。

 扉を開いて舞台中央に姿を現した女は、プレイヤーにレコード盤を乗せると踊り始めた。透き通ったネグリジェ風の舞台衣装を脱ぎ捨てると、黒いブラジャーからこぼれるような胸の盛り上がりが露になる。そのブラジャーを後ろ手で外した。豊かな乳房が躍り出て、踊るたびに双方の乳房が上下左右に揺れ動く。

 背を見せて踊る女が下半身に着けているのはGストリングと呼ばれるパンティだけだ。そのストリングがむっちりとした形の良い臀部に食い込んでいる。数分の踊りを終えて次の女性に交代した。

 腕時計が十一時過ぎを指していた。中畑は翌朝早朝にテキサスに移動することになっているふたりに、朝が早いからそろそろ、と耳打ちして、テーブルにもどって中畑の左に座った女にチェックといって勘定を求めた。女が手を挙げるとマネジャー風の男が勘定書を持参した。

 カードを渡した中畑が、テーブルの下で女に密かにドル札を手渡す。女たちが店から手にする報酬は最低賃金にも満たない低額のために、女たちはこのようなチップを期待しているのだ。それまでの素ぶりから、この女は他の女性たちのリーダー格らしい。中畑は他のふたり分も合わせた額を手渡した。

 札を一瞥した女が、周囲に聞こえないように中畑の耳元でサンキューと囁く。と、テーブルの下の男の左手をつかむや、スカートの下の女の両太腿の間にねじ込んだ。踊り中は着けていたGストリングをいつ脱いだのか、ドレス姿の女は下着を着けていなかった。

 餅肌の太腿に挟まれた男の手が、女の手で押される。中指がしっとりと濡れた股の奥に滑り込んだ。その瞬間、女は小さな声とともに男の耳に熱い息を吹きかけた。まだ舞台の上ではショーが続いていて、ふたりの客は前を見つめたままだ。

 カードにサインしようとする中畑のために女が男の手をスカートの下から引き抜いた。中指から漂う微かな女のセントが中畑の鼻先を過ぎった。

 とっさに、しばらく前に見たイタリア映画のタイトルが中畑の脳裏に浮かんだ。それは“セント・オブ・ア・ウーマン”であった。この映画は後にハリウッドがリメイクし、そのリメイク作が日本でも封切られた。

 英単語のセントは、臭い、あるいは香り、と訳されている。しかし、臭いは中畑が遭遇したこのシーンには直截で生々し過ぎる。一方、香りでは植物や香水からのようで、血の通った女体からのそれとはイメージが異なる。

 狩猟民族の官能には、臭いや香りでは表せないもうひとつ別の感覚が存在するのだ。女の痕跡、あるいは女の徴、とした方がより適切かもしれない。隣の女はそのセントを密かに放っている。

 普通名詞の女ではなく、この隣に座る女のセント。セント・オブ・ザ・ウーマンは、中畑の鼻先を過ぎった微かなものであった。が、不思議なことに、三度しか顔を合わせたことのない女をこよなく愛おしく思わせるのだ。客を伴った接待でなければ中畑は思わず女を抱きしめていたことだろう。


 その土曜日のことだ。深夜に国内出張から帰った中畑は九時過ぎにベッドを離れた。中畑は日本では運転免許書を取得していなかった。そのため週末にドライビング・スクールが提供する出前のレッスンを受けていた。派遣されるのはアルバイトの大学生で、その学生が助手席に座る車を中畑が運転する。日本のような教習所がない米国では、車が往来する通常の道路が教習の場だ。そのために、助手席にもブレーキペダルが備わっていて、緊急時には指導教官役の学生がブレーキを踏むのだ。もうあと一回の受講が済めば、交通局で実技テストを受けることになっていた。

 出張が土曜日にずれ込むことも考えられたために、この朝は休講にしてもらってあった。それもあって遅い起床になったのだ。

 運転免許書を手に入れてから郊外に居を定めるつもりの中畑は、ミシガン通りの支店に歩いて通える、ラッシュ・ストリートに面した小さなホテルに泊まっていた。十階建ての古いビルの最上階から二階の部分がホテルで、その下の階は長期の滞留者向けのアパートになっている。

 近くのハンバーグ店に向かおうと乗ったエレベーターが六階で停まった。ドアーが開くと四、五歳の男児の手を引いた女が乗り込んできた。

 お互いにアッと驚いたのは、その女がトップレス・バーで中畑の左側に座ったあのホステスだったからだ。

 マー、といって顔を赤らめた女が「あなたはここに泊まっているの?」

 「十階に泊まっているんだ」

 「知らなかったわ。先日はありがとう。あなたのような客ばかりならよいのだけれど」

 「どこに行くの?」

 「この子に朝ごはんと思って、マクドナルドに行くところなの」

 「僕も同じだ。いっしょしよう」

 化粧を落とした女の素顔は暗闇で目にした以上に端整な容貌だ。バーでは三十歳過ぎに思えた歳も二十歳の半ばだろうか。舞台で見せた豊かな胸がセーターの下で揺れている。

 歩いて数分のマクドナルドでは、女と男児にパンケーキを、自らはソーセージと卵をはさんだマフィンをオーダーし、それらを手にして三人でテーブルに着いた。子連れの女と東洋人の組み合わせは物珍しいからか、他のテーブルから視線が注がれる。

 「店ではカサンドラと呼ばれているね。君の本名は?」中畑がカズと名乗って女に尋ねる。

 「サラなの」

 「サラ、よい名だね。聖書ではアブラハムの妻の名だ。土曜日もあのバーはやっているの?」

 「夕方の五時にオープンするのだけど、私はきょうは非番なのよ」

 「なにか予定があるの?」

 「溜まった洗濯と部屋の掃除を除くとなにもないわ」

 「だったら、天気もよいし、科学博物館にでも出かけようか? 洗濯や掃除は明日すればよいだろう?」

 「アラ、シカゴに住んで三年になるけど科学博物館を訪れたことがないわ。ジミーも喜ぶかもしれない。ジミー、このおじさんと博物館に行こうか?」と傍らの息子に語りかける。

 「息子さんの名はジミー?」

 「そう、ジェームズ」

 「いくつ?」

 「来月に五歳になるわ」

 「科学博物館にはいろいろな乗り物があるから五歳でも退屈しないだろう。科学博物館の後に水族館にも寄ってみよう」

 女がテーブルの向こうから手を差し出して中畑の手を覆う。

 「ありがとう、カズ。父親がいないからジミーにはこのような機会が今までなかったのよ」


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