第32話 兄と妹
コンコン、と自室のドアがノックされる音に、
「入っていいぞ、ユキ」
「まだ声も出していないのに解るなんて、流石ね」
そう言いながら自分の部屋に入ってきた妹に、タケルは奇妙な眼差しを向けた。
彼女の両手には、お茶の準備がされているトレイがあった。
普通、弦木家ではメイドなどが給仕等を担当する。そうでない場合でも、傍付、ユキならば彼女の護衛たちが率先して雑務を行うだろう。
「なんで、ユキがお茶の準備をしてるんだ?」
「タケル兄さんの護衛の代わりに、私が持ってきてあげたの」
「
益々怪訝な顔をしたタケルに、ユキは微笑みながら上品に頷いた。
「ええ。正確には私のあの護衛達に伝言と一緒にお願いしていたのだけど」
そう言いながら、ユキは机の上にお茶の準備をし始める。
「元々、私はタケル兄さんと、兄妹水入らずでお話をしようと思っていたからね。私が代わりに持って来たわ」
「そうか。とりあえず、ありがとう」
微妙な顔をタケルが礼を言うと、ユキは悪戯染みた顔を浮かべる。
「どういたしまして。あと、安心して。私が淹れた訳ではないから」
「別にそんな心配はしてねぇよ。むしろ、少しは淹れ方覚えたらどうだ?」
「飲んで欲しい相手がいない訳じゃないのだけど、それは別の機会にするわ」
「そうかよ。で、何で生鐘はお前、正確にはお前の護衛にお茶を頼んだんだ?」
そんな彼女が他人に任せて、その姿を見せない事にタケルは疑問を隠せない。
予想外の生鐘の行動に、タケルは慰ぶしむものの、ユキはどうでもいいばかりに素気なく答える。
「急用らしいわ。それしか聞いてないし、知らないし、興味もないわね」
「ああ、そうかよ」
疲れたような声を吐き出して、タケルは観念した。
再度、この妹に問い直しても無駄だろう。
自分に何も言わず別のことをした生鐘に思う事が色々あるが、その事に関しては一先ず後で処理することにした。
タケルがそうやって腐れていると、ユキは面白そうに訊ねる。
「あら? タケル兄さんは可愛い妹より、あの
「別に選好みしてるわけじゃねぇ」
「そう、なら良かった。少しでも態々お茶を運んでいた妹を邪険するようだったら、タケル兄さんの株が下がるとこだったわ」
「そりゃあ、ようござんした」
相も変わらず、一癖も二癖もある妹だ。
一応、年相応の部分もあるのだが、普段のユキは大人顔負けの態度や仕草をする。それが背伸びではなく自然体で行っているので、中々に豪胆な幼子だ。
タケルは小さく溜息をする。別に貞淑的な妹を望んではいないが、相手にするとあの兄とは違った気疲れを感じることがある。
「んで?」
タケルはお茶の準備を終えたユキを対面側に腰を落としながら、気だるそうな声で彼女に訊ねる。
「元々、俺に話があったんだろ? 何の話だ?」
「単刀直入に言うと、最近何か悩んでない? 私でよければ相談に乗るけど」
紅茶が注がれたティーカップを差し出しながら、彼女はそんな事を聞いて来た。
何を言い出すかと思えば、とタケルは頭を痛める。
だが、彼は心当たりもあるので否定も拒絶もしない。下手な反応は、より妹を楽しませるか失望させるかのどちらかだ。
何より、無遠慮な態度だが、ユキはユキなりに、妹として兄を気遣っているのだろう。
「……妹にそんな事と言われるようじゃあ、兄貴失格だな」
紅茶を一口飲んでからタケルがぼやくと、ユキも紅茶を一口飲んでから、笑顔で答える。
「失格ではないけど、株は低下しているわね」
「下がらなかったんじゃなかったのかよ」
「暴落の危機を防いだだけだわ」
「ああ、そうですか」
もう一度、タケルは紅茶を一口飲む。
財がある弦木家だけに、上質な茶葉を使っている筈だが、あまり良い味には感じられなかった。
「で。結局のところ、妹様は最近お悩みのお兄様をなじりに来たわけですか?」
「それも興味が注がれることですけどね」
そう言いながら彼女は再び紅茶を口に含む。その仕草は絵になっており、表情からして彼女はタケルとは違い、しっかりと紅茶の味を楽しんでいるようだ。
少しの間、口の中で芳醇な舌触りを堪能した後、ユキは小さな口を開いた。
「どちらかと言えば毎日顔を合わせているお兄様の一人が、最近少々陰鬱な顔なのも、いい加減目障りなりましたので」
射抜くような痛烈な言葉に、タケルは頭を抱えそうになった。
というか最近の自分は身近な女子達の言葉に翻弄されてばかりではないだろうか?
しかも、今は妹だ。我ながら情けないとタケルが心の中で項垂れていると、ユキはそんな兄の内心を察していないのか、いるのか、優美な笑みを浮かべて話を続ける。
「最初に申し上げた通り、若輩者の私ではございますが、一応、お兄様の家族ですので」
一応、などではなく正真正銘の血の繋がった兄妹、家族などだが、タケルがそうツッコミを入れる隙も与えずに、ユキは言葉を続けた。
「まだ誰にもお悩みを打ち解けていなのであれば、何も言わぬ壁になって、愚痴の一つも聞いて差し上げましょうと思った次第です」
丁寧な口調だが、毒舌混じりの長々とした台詞にタケルは顔を歪める。
これが別の兄妹ならば、兄に対して妹風情が偉そうな口振りをするなと一喝しそうな場面だが、この弦木家にそんな格差は存在しない。
非があれば誰であれ認める。それが弦木家の家訓だ。
それに刺々しい言葉だったが、ユキは心配しているのは確かだ。
タケルが逆の立場だった場合、妹が陰鬱な顔なのに自分には何も言わなかったら、多少の不満は持っただろう。
それはユキも同じだったので、先程のような言葉も言ったのだ。
タケルは歪めていた顔を少しだけ柔らかくし、言いたい事は言い切ったと、すっきりとした顔をしているユキを見つめる。
「嫌な顔を見せて、悪かった」
素直にタケルが謝ると、紅茶を飲んでいたユキの動きがピタリと止まる。
謝罪されるなど思ってもいなかったのだろう。ユキは何とも言えない顔で、タケルを見つめた。
「あと、ありがとうな。心配してくれて……」
タケルが手を伸ばして、ユキの頭を優しく触れる。
そのまま丁寧に撫でていると、ユキは不満そうな顔でタケルから視線を逸らした。
「そう簡単に認めるなら、最初からそうして欲しいわ……」
頬を染めるユキを眺めながら、タケルは伸ばした手を戻し、苦笑する。
「男は意地っ張りな生き物なんだよ」
「それは難儀なものね」
「あと意地っ張りついでに、俺が悩んでることはユキにでも言えないな」
心配してくれた妹には悪いが、己の苦悩を目の前の相手に漏らす訳にはいかない。
これは自分自身が定めて、結論しなければならないことだからだ。
「これは自分で考えて、そして行動しないといけないことだから……」
タケルが申し訳なさそうに言うと、ユキは呆れ顔で溜息を吐いた。
「解っているなら、できるだけ早くしてほしいわね」
「ああ、そうするよ」
「まったく、似た物主従だわ」
「似た物主従?」
妙な言葉にタケルが聞き返すと、ユキは呆れ顔のまま言った。
「タケル兄さんのあの護衛。あの人もさっき何か悩んで立ち止っていたのよ。
最後はやるべきことを、しようとしたみたいだったけど……」
「生鐘がか…・・」
彼女がその時何を悩んでいたのかは知らないが、最終的に行動したのならば自分も負けていられないとタケルは思った。
そろそろ、一歩踏み出してみるか。
タケルは心の中でそう決めながら、ユキに向かって意地悪い笑みを向ける。
「主従が似ているなら、ユキもそうじゃないか?」
「私が? あの双子と? どこがかしら?」
心底意外そうな顔を浮かべた彼女に向かって、タケルは面白そうに答える。
「言ったところで、認めないだろうから言わない」
「なに、それ?」
不愉快そうに顔を歪めるユキを眺めながら、タケルはカップに残った紅茶を口の中に入れた。
「自分で考えてみろ。何でも教えてあげるほど兄は優しくない」
「それは、ずるくないかしら……」
「悩んでる兄様に対し、問答無用で諫言できる妹様には十分な対応だろ」
「……気に障った仕返しのつもりなの?」
「内容はともかく、言い方がもう少し優しかったらと思っただけだ。気にするな」
「なら、気にしないわ。さっきの似ているという言葉もね」
そう言ってからユキはカップをテーブルに置き、そのまま立ち上がる。
「話は終わったみたいだし、そろそろお暇するわ。片づけは別の人に頼んで。意地悪を言う兄に妹は優しくないの」
「それくらいはするよ……。ユキ。改めて、ありがとうな」
座ったままタケルが見上げてそう言うと、ユキはくすりと笑う。
「終始優しかったら、株は上がるのだけどね……」
そう言った後で、ユキは優雅にお辞儀をした。
「それでは、お邪魔したわ。次に二人でお茶するときは、楽しい話題にしましょう」
「ああ、そうだな」
最後に年相応の可愛らしい笑顔を浮かべたユキを見送ってから、タケルは立ち上がった。
そう、タケルは悩んでいる。
自分と護衛である輝橋生鐘。
自分の弟子である
出逢った当初、二人のやり取りはぎこちなかった。
今は多少軟化したようだが、結局は何も変わっていない。
タケル自身が彼女たちに対して、今後どう接するべきか。
それは、かなり前から考えていたことだった。
自分に向けてくれる言葉、笑顔。それにどう向き合うか、ずっと迷っていた。
だが、迷っているだけでは何も変わらない。
自分の想定しているものが『自惚れ』である可能性だってあるのだ。
いい加減、覚悟を決めるべきなのだろう。
まずは、同じ場所に住む生鐘からだ。
タケルは軽く身支度をしてから、自分の部屋を出て行った。
†
とにかく、生鐘が何処に行ったのか調べるべきだろう。
少なくとも、この広い屋敷内に生鐘の気配をタケルは感じられなかった。
今は不良品とはいえ、優れた素質持つタケルの察知能力は桁違いに高性能だ。
そのタケルが解らなければ、タケルでも解らないほどの技術で気配を隠してなければ、少なくともこの屋敷にはいないだろう。
ユキは急用だと言っていた。
もしかすれば、何かしらの仕事を言い渡されたかもしれない。
ならば、聞くべき相手は自ずと決まってくる。
タケルの護衛である生鐘に対して、主であるタケル以外が直接彼女へ命じることをできる人間は少ない。
タケルはとある人物の気配を探ると、該当人物はすぐに見つかった。
近くに別の気配も感じ取るが、特に不思議に思わなかった。その二人が一緒に居るのは極々自然であるからだ。
タケルは脚を動かし、屋敷をしばらく移動すると、一つの扉の前で止まる。
「入って来るがいい」
タケルがノックをする前に、部屋の中から声が聴こえてきた。
これに関しても、タケルは特に驚きはしない。
仮にタケルが本気で気配を隠したところで、この中にいる人間ならば察知しても不思議ではないからだ。
「お邪魔します」
詫びの言葉を言ってから、タケルは扉を開き、部屋に足を踏み入れた。
中央が空いた空間に、両脇には本棚。奥には大きな椅子と机がある。
そこは書斎だった。タケルの兄である弦木ジンが、家で仕事をする場所である。
そして、部屋の主にして、タケルが声をかける前に、彼へ部屋に入る様に促したジンは絡みつくような視線をタケルに向けて、悠然と微笑む。
「何ようかな、愛する弟よ?」
「別に兄さんに用って訳じゃけど……」
ちらりとタケルはジンの隣に控えている細身の男に目を向ける。
そこに居るのは男の名は
同時には、弦木家に雇われた人間を管理する立場でもある。
彼ならば生鐘の行方を知っているだろう。無論、先程からずっと一緒に居るのならば、ジンも行方を把握しているだろう。
「兄さんか宗司。どっちでもいいんだけど、生鐘が何処に行ったか知ってるか?」
「ああ、知っているとも」
何気ない問いかけに答えたのはジンだった。
「輝橋生鐘は、テロが起きている武術大会の会場に向かった」
「──は?」
理解するのにタケルは数秒かかった。
武術大会でテロ? しかも、何故、その場所に生鐘が赴いたのだ?
どう反応したら良いのか処理が追い付かずタケルが硬直していると、ジンは平然と話を付け加える。
「詳細に言うべきか? 輝橋生鐘は殺人武術推奨過激派がテロを行っている第27回倉木高校武術新人戦の会場、倉木私立武道館に単独で向かったのだ」
「いや、待て。ちょっと待ってくれ!! テロだぁ!? しかも、何で生鐘がそんなとこに一人で向かってんだよ!!」
「直接も聞いてないので細かい理由は解らぬが、概ねは園原天花がそこに居たからだろう」
「────」
今度こそ、絶句した。
テロが起きた場所に天花が居て、更にはそこに生鐘も向かっている。
一瞬でも、タケルの意識を停止させるには十分な情報だった。
「彼女は貴君の友人でもあるからな。主君の友を守る為、自ら出向いたわけだ」
言葉を失っているタケルにジンは微笑みながら言葉を投げかける。
「良い
「んなことどうでもいいんだよ!」
殺気混じりの怒号だった。
「なんでそんなこと知ってて、今まで黙ってやがったぁっ!」
吼えるのではく、放つような唸り。
タケルの憤懣を表すように、部屋が震え、窓が音を鳴らす。
強い怒気を宿した言霊はそれだけで凶器だ。只人ならばそれだけで怯み、たじろいでしまうだろう。
だが、直接怒りの矛先を向けられたジンは逸楽的な笑みを浮かべ、傍らにいる宗司も平然と立ったままだ。
その態度が益々タケルの怒りを増長させる。ジンはその様子を何処か楽しげに眺めた後で、口を開いた。
「問われなかったから語らなかった。言う必要も感じなかったから語らなかった。
別に隠していた訳でもない。現に私は、貴君の問いに対して正直に答えたぞ」
「てめぇ……」
ぎりぎりと今にも襲い掛かりそうな瞳でタケルはジンを睨む。
「ふざけんなよ。アイツらは、俺の──」
タケルが言い切る前に、ジンが被せるように問いかける。
「貴君の何だ? 友人か? 護衛と弟子か? どちらも同等に大切な者か?」
「なにが言いたいんだ?」
慰ぶしんだタケルが、そう質問する。
だが、それをわざと無視したのか、ジンはそのまま語り続ける。
「仮に
思わぬ言葉にタケルはまたも言葉を失う。
続けてジンの口から出された言葉は、誇張、虚偽もない事実であった。
「輝橋生鐘は主の友の危機だと知り、己が判断で駆け向かった勇敢な武人だ。
園原天花は貴君が育てた剣士だ。事実、並の武人では足元にも及ばない力を持つ。
どちらも年若き少女だが、常人よりも遥かに鍛錬を重ね続ける、
それはタケルの方が良く知ることだろう。
生鐘は慣れ親しんだ場所から離れて努力した。
天花は何も知らない場所から今の所まで辿りついた。
彼女たちが強い武人なのは、タケルが誰よりも知っている。
「その二人揃って、無力な人間すら襲う輩に後れを取るとでも思っているのか?
女たちが磨いた技を、体を、心を、否定するのか? 他ならぬ貴君が」
返す言葉が出なかった。
確かにその辺りの過激派ごときに、二人が負けるとはタケルにも思えなかった。
テロの事実を知らなかったことに苛立ちは残るが、ただ闇雲に狼狽することは、彼女たちの侮辱になるのではないかと、タケルも思い始めた。
「気負うのも理解できるが、少々落ちついたらどうだ?
警察の武装隊も既に狩り出されている。事件は貴君が何もしなくても終わる」
タケルの思考が徐々に冷静になる。
今更、自分が動いたところで、警察も動いているなら事態の終息のタイミングはそう変わらないだろう。
ただ、その思考も、すぐに掻き乱されることになる。
ジンは押し黙ったタケルに、笑みを向けたまま次のことを語った。
「例え──」
言われて、タケルは思い出した。
「──そこに我等と浅からぬ因縁がある、
ずっと昔に置き去りにした、ある男の名前を。
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