G:Sakura

 新月は、明日――――。

 リュータは、1階のソファーに座って、機器類のメンテナンスをしていた。

 PCは、今日は朝から珪が使っている。

「ねー、アキィ?」

 リュータが、少し困ったような顔をして、正面の一人がけのソファーに足を組んで座るアキに声をかけた。

「そんなにまじまじと見られたら、やりづらいんだけど……」

 いつものコーヒーを飲みながら、アキは、目を細め、優しく笑った。

「見てて飽きないんだよねー。ここから見ると、ちょうど、タローちゃんの向こうに珪ちゃんの背中があって、なんていうか、日常の風景?いいなぁって」

「リュータだってば。……いつもと変わんないよー?」

 リュータは、不思議そうにアキを見つめ、後ろの珪を振り返り、首を傾げて作業に戻った。

 アキは、やはり、微笑ましいと言いたげに見つめている。

 そして、傍に置いていた上着を手に取り、徐に立ち上がった。

「俺、ちょっと出掛けてくる」

「いってらっしゃーい」

 リュータが、笑顔を向けた。

「いってらっしゃい」

珪も、手を止めて肩越しにアキを振り返った。

「いってきます」

 上着を着ると、アキは、玄関に行く前に、リュータの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。

「なに?」

「いーや。なんでもない」

 悪戯な笑みを残して、アキは出掛けていった。


 その日、アキは、帰ってこなかった。


「ねぇ、珪ちゃん」

「んー?」

 月のない、次の日の夜――――。

 リュータと珪は、遅咲きのサクラの木を持つ公園に来ていた。

 二人とも上下黒い服を身に纏い、これから、その先の人工の森へ向かう。

「侵入の前に、アキん家寄って行かない?」

「…………後にしない?」

 昨日、「出かける」と言って出た後、まだ彼は帰ってこない。

 サクラに会いに行く前に、アキの無事を確かめたいリュータと、それでもいなかった時のことを考えている珪。

 確かめて、いなかった場合、侵入どころではなくなる。それは、後々リュータを後悔させるだろうし、今回は、アキから頼まれているものもある。

「珪ちゃんが、そう言うなら」

 2人は、森へと歩き出した。

 桜の木の傍で、リュータが立ち止まる。

「珪ちゃん、覚えてる?」

 数歩前で珪が立ち止まり、振り返った。

 リュータは、まだまだ咲きそうにない桜の木を見上げて続ける。

「初めて出会った時のこと」

「リュータと?」

 珪は、思い出すように眉を曲げて、短く唸った。

「確か、ビルの間の、細い路地……」

「あはは。覚えてないのー?ここで初めて会ったんだよ?」

 目を丸くして、珪は、リュータと桜の木を交互に見つめた。

「え?ここ?」

「珪ちゃんが言ってるのは、あれでしょ?俺が落とし物した時でしょ?」

「そう。違うの?」

「この公園で、俺が珪ちゃんに声をかけたのが最初。珪ちゃんの覚えてるのが2回目。3回目は、やっぱりここで、大好きな場所で最高の相棒ができて、俺、もう運命だって思ったもん」

「あー、なんかそんなこと言われて口説かれた気がする」

「今、すっごい実感してる。珪ちゃんが傍にいてくれて、本当に良かったって。珪ちゃんがいなかったら、サクやアキにも出会ってないかもだけど、もし、この状況に珪ちゃんがいなかったら、って思ったら、ゾッとする……」

 リュータの言葉を聞いて、珪は、静かに微笑んだ。

「それは、俺のセリフだよ。今、お前がいなかったら、お前と出会ってなかったら、きっと俺は何もできない」

 微笑み合うその顔に、決意が見える。

「行こうか、珪ちゃん。取り戻しに」

「あぁ。取り戻しに」

 少しずつ崩れていく日常に嘆きながら、それでも、目の前にある、相棒しあわせに感謝して歩き出す。

 

―― カギになるから ――


 アキがくれたマイクロSDには、2つのモノが入っていた。

 そのひとつが、LABまでの道のり。

 元4区だった土地を利用して作られた人工の森は、深く広い。LABの関係者でなければわからない入り口と、経路だった。

 しかし、珪がこの情報をリュータに見せた時、彼は、真剣な眼差しで口元に深い笑みを浮かべた。


―― やっぱり、ここかぁ…… ――


 LABが4区だった場所にあると考えていたリュータは、その場合、施設を作るなら何処なのかを、いろいろと想定していたらしかった。そして、その第一候補が、まさにLABが建つ場所だった。

 それなら、入り口は何処であろうと、監視とセキュリティを躱すことさえできれば、リュータにとってはそれほど難解な道のりではない。近道さえできる。

 春になれば、何度も通った道。

 大好きな人たちと、美味しいものを持ち寄って、幾度も往復した。

 リュータがかつて住んでいた、大きな集合住宅から、桜の木の下まで。

 昔は雑然としていた町並みは、作られた自然に変わり、名残はまるでない。

「リュータ?」

 昔を思い出していたリュータは、珪の声に、ハッと我に返った。

「え?なに?」

「いや、だから、ホントにこの道でいいの?って。アキの情報と、微妙に違うから」

「あ、ごめん。大丈夫。こっちのが近道っていうか、入り口までまっすぐ行ける」

「それから、」

 珪は、言葉を切り、リュータの眉間をグッと人差し指で押した。リュータの頭が、少しだけ後ろに倒れる。

「うわぁ」

「眉間にシワ。キレイな顔して、睨まないの」

 軽く眉間を弾いて、珪は、悪戯に笑った。

 リュータは、無意識に力んでいた自分に気がついた。そして、スッと心が軽くなる、力が抜けていく自分を感じていた。

 先へ進むと、やがて、白い半球状の建物が見ててきた。屋根部分は緑化されていて、上から見ると、森と同化しているのだろうことがわかった。

 珪は、入り口の傍にあぐらをかいて座り、PCと幾つかの機器を取り出す。それから、アキから預かっているマイクロSD。扉はものの数秒で、セキュリティが解除された。

「じゃ、サポートお願いねー」

「はーい」

 イヤホンとマイクの位置を確認して、リュータは、建物の中に入った。

 明るい色の木の床と、白い壁。アキから聞いていた通りだ。頭の中の地図が、リュータを、サクラの研究室へと導く。確かに、入り口のセキュリティを解除したあと、その先にあるのは、監視カメラのみだ。それさえも、今は、珪の手によって、カメラとしての機能は果たしていない。

 あと少し――――サクラのいる研究室まで。

 あと少しで、サクラは、帰ってくるはず。

 扉に、「SA」と書かれたプレートがはめ込まれている。リュータは、喜びを顔いっぱいに表して、それを見つめた。

 扉の横には、透明なアクリル板が窓代わりに嵌められていた。

 ひょこっと、そこから中を覗く。サクラが、真剣な表情でPCを見ている。アクリル板をコンコンとノックすると、不思議そうな顔でサクラは振り返り、そして、顔面蒼白な様子で、目を丸くして慌ててアクリル板の傍までやってきた。

「リューノスケ!何やってんの?!こんなところで!」

「サクー!会いたかったぁ」

「ダメだよ、こんなとこ来ちゃ!」

「サク、いっしょに帰ろう?」

 リュータが、アクリル板にグローブをはめた両手をついて顔を寄せると、サクラは、悲しげな顔で、片手を彼の手に合わせた。

「珪ちゃん、外で待ってるし、このあと、アキんとこ行く予定なんだ。一緒に行こうよ!」

 サクラは、なにも答えず、悲しげにじっと、リュータを見つめていた。

「もー、サク、仕事しすぎなんだってば。ちょっとは楽しなさい。ホラ、帰ろ?」

 それでも、サクラはなにも答えない。2人の間に、嫌な沈黙が流れる。次第に、リュータの中に生まれる焦りと恐怖。このまま、なにもできないような、嫌な予感――――幼い頃と同じ。

「…………サク?」

 リュータの顔から、笑みが消えた。代わりに満ちていくのは、深い悲しみと寂しさ。

「ねぇ、帰ろうよ……」

 また、ただ奪われるだけ――――。

「サクと帰りたい……。ここ、開けてよ」

「(泣かないで、リュータ。泣かせたいわけじゃない。)俺は、ここを出られない。ごめんな、リュータ」

「(イヤだ……。奪わないで……)サク……」

 しかし、サクラは、アクリル板の向こう側で、その名前の通り、儚げに、しかし、凛として美しく穏やかに微笑んでいた。とても、彼らしく。

「花束持って、ちゃんと行くから」

 奪われる――――また、ここから。

 胸が、ひどく苦しかった。目頭は熱くて、両手のグローブが涙を拭って濡れている。

 納得など、できない。

 それでも、理解するしかなかった。

 サクラは笑っている。彼らしく、穏やかに、凛と。

「わかった……。コーヒー用意して待ってるから……きっと、また遊びに来いよ?」

 リュータの言葉を聞いて、サクラが、嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、リュータ。またね」

「うん……」

 最後まで、名残を残して、リュータは、研究室に背を向け、とぼとぼと歩き出した。

 来た道を辿り、珪の待つ扉の向こうへ。

「リュータ……」

 扉を開けると、珪がいた。機器類は片付けて、撤収を待つばかりだ。

「……珪ちゃん……」

 名前を呼べば、抑えていた苦しさと悔しさと、悲しみが、一気に溢れた。

 珪は、辛さと悔しさをにじませた表情で、それでも微笑んだ。

「帰ろう、リュータ」

「うん、かえるっ…………」

 声が震える。それだけ言うのが、精一杯だった。

 顔は涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。

 公園を出ると、リュータは一度立ち止まった。右がアキの家へ向かう道、左が帰り道。

 涙で赤くなった目元を隠すことなく、ぼんやり地面を見つめる。

 歩き出したのは、左。

 珪もリュータも、口を開くことなく、ただ家までの道を歩いた。

 玄関を開けると、明かりのない暗い空間が広がる。

 アキは、やはり帰ってきていない。

「シャワー浴びてくる……」

 力なく呟いて、リュータは、風呂場へ歩いていった。

 それを見送って、珪は、荷物を片付けると、キッチンへ向かった。後悔しか出てこない。今、ソファーに座ったら、その感情に押しつぶされる。

 何故、一緒に行かなかったのだろう。

 何故、こうなるまで気づかなかったのだろう。

 何故、リュータは、これほど辛い経験ばかりを背負ってしまうのだろう。

 彼の背負うものを、軽くしてやりたいと思いながら、その方法が、わからない。 

 きっと、あのカーテンの向こう、リュータは、今も泣いている。

「(……無力だな、俺は……)」

 ゆっくりとカーテンが開けられる音がして、珪は振り返った。

 真っ黒な格好のままのリュータが、2人がけのソファーへ歩いてきて、そのまま倒れ込んだ。

 調理台の上には、トレーに乗せられた丼の中に、優しく湯気を上げるうどんがある。具は、蒲鉾とわかめ、それから斜めに大きく切ったネギ。

 珪は、トレーの上のうどんを、ソファー前のテーブルへ運んだ。

「お腹空いただろ?食べよう」

「…………うん」

 のそりと、ゆっくりした動作でリュータが体を起こす。座り直して、テーブルのうどんを見て、泣きはらした顔で笑った。

「美味しそう」

「召し上がれ」

 いつものように丁寧に咀嚼して、ひと口食べたあと、リュータはもう一度笑った。今度は、珪を見て。

「あったかいね」

「あぁ……」

 日常がここにはあるのに、同時になくしたものがある。

「リュータ……」

 珪は、食べる手を止めて、真剣な表情で彼を見た。

「……ごめん。俺、何もできなかった。せめて、お前と一緒に行けばよかったよ。ごめんな……」

 リュータの目に、涙が滲んでいく。

「今言わないでよ、珪ちゃん。うどんの味、わかんなくなるっ……」

「あ、悪い……」

 リュータは、ごしごしと服の袖で涙を拭った。

「俺は、珪ちゃんがいてよかったって思ったとこだったんだからぁー……」

「悪かったよ、空気読めなくて。ゆっくり食べてください」

「……はい」

 答えるリュータの顔は、涙と鼻水で濡れていた。珪が、黙ってボックスティッシュを差し出す。

「ありがとう……」


*  *  *  *  *


 LABに侵入した日から、一週間がたっても、1ヶ月が経っても、サクラもアキも、帰っては来なかった。

 アキの家に行ってみたが、帰ってきている形跡はなかった。

 リュータは、あの日から、1人になるのを極端に嫌がった。珪が行くところには、必ずついていった。彼にとって、大切な人を奪われるのは、これで2度目。当然といえば、当然の状態だった。

 しかし、それは珪も同じだった。リュータがいないと、どこか落ち着かない。それでも、リュータ程ではないのは、彼が自分を置いていくはずないという、根拠のない自信と、リュータの方から自分についてくるからだった。

 あれから、1年――――今年も桜は、咲いて散っていった。

 今は、遅咲きの桜が咲いている。

 数年前、サクラの出版祝パーティーをしたことを、リュータも珪も思い出していた。これから先、春が来る度に思い出すのだろう。

 賑やかな、日常の風景を。

「珪ちゃん、今日、行きたいとこあるんだけどさぁ」

 カメラの手入れをしながら、PC作業をしている珪へ声をかけた。

「どこ?」

「出会った場所へ」

 リュータは、そう言って、ニヤリと笑った。

「いいよー」

 午後、太陽の暖かな日差しの中を、2人は、1年ぶりにあの公園へ向かった。

 街中の桜は、もう緑の葉を広げている。

 1年ぶりに来た公園の中では、遅咲きの桜が、満開になっていた。

 近くの店で、コーヒーをテイクアウトして、果物やら甘いお菓子も買って、2人は、桜がキレイに見える公園のベンチに座った。

「すっげー。改めて見ると、キレイだなー」

「でしょ?俺の思い出。いろぉんな、思い出が詰まってる場所」

「ハジメテの場所か」

 珪の言いように、下世話な響きを感じて、リュータは、呆れ顔で彼を見た。

「……珪ちゃん、言い方」

 珪は、それを笑い飛ばして、桜を見つめる。そうしていると、ふと思い出すことがあった。

「あれ?お前さぁ、もしかして、初めて会ったときも、カメラ持ってた?」

「あ、思い出した?そうだよ。この公園で、珪ちゃんが桜に見とれてたのを、撮らせてって言ったのが、最初」

「あぁ!あのときの!」

 第一印象を思い出して、珪は、声をたてて笑いだした。リュータが、隣でそれを、訝しげに見ている。

「思い出したー!俺、あの時、一瞬男なのか女なのか、迷ったんだよ」

「うわっ、失礼なっ!」

「だって、もっと華奢だったしさ。あー、あと、お前がやけに楽しそーにカメラもって現れたから、撮られてもいいかなぁって思ったんだよな。考えてみれば、あの時から、お前は俺の道しるべだったのかもな」

「道しるべ??」

「俺を惹き付けて、飽きさせない存在」

「あはは。珪ちゃんにそう言ってもらえると、光栄です」

 1年前とは違う、新しい日常が、生まれ始めていた。

 すこしずつ、前に向いて。

 その時、珪が体にかけているウエストバッグの中で、ケータイがメロディーを奏でた。

「はーい」

 電話の相手は、史那だった。

「珪ちゃん?」

「久しぶりー。なに?」

「そこに、リュータもいる?」

 史那の声は硬く、緊迫したようにも感じて、珪は、戸惑うしかなかった。

「いる、けど?」

「今から、こっちに来られる?」

「え?診療所に、ってこと?」

「そう。すぐに、こっちに来てくれる?リュータも一緒に」

「……わかった」

 戸惑いのまま、珪は、通話を終わらせてケータイをもとの通りにカバンに入れた。

「誰?史那?」

「あぁ。今すぐ、診療所に来てくれって」

「珍しいねー。なんだろう?」

「とりあえず、行くか」

 まだ残している果物やお菓子を手に、2人は公園を後にした。

 史那の診療所は、この時間は昼休み中だ。ガラスの扉に、午後の診察時間を知らせる札が、内側からかけられ、カーテンが閉まっている。

 鍵のかかっていない扉を開けて、中に声をかけると、受付から史那は顔を出した。

「こっち」

 挨拶もなく、辛辣な表情で受付の中に案内される。

 珪もリュータも、胸がざわつくのを感じた。嫌な予感しかしない。

「これ……見てくれる?」

 史那が示したのは、彼のPCの画面だった。表示されている、ひとつの通知。

 珪も、リュータも、表情をなくした。

 言葉が出てこない。

 理解ができない。


『 サクラ博士の死亡を、お伝えいたします。 』


 前置きと、後に続く言葉が添えられた、A4用紙なら半分に満たない、事務的な文書。

 簡素なそれは、メールで届いたものだった。

「…………なに、これ……?」

 いつもよりも低い声で、リュータが呟く。

 言葉なく、ただじっと画面を見つめていた珪は、リュータの声で我に返った。

「サクはどこだよ……?」

 リュータらしからぬ、低く唸るような声が、部屋に響く。その声が、震えていた。

 答えは、どこからも返ってこない。

「サクの体は、どこなんだよっ!」

 グッと拳を作り、リュータは叫んだ。

「リュータ……」

 彼の中の感情を思うと、珪は、かける言葉が見つからなかった。

「あるはずだろ?!死んだっていうんなら、その体がどっかにあるはずだろ!こんな通知ひとつで死んだとか、バカにすんな!!納得できるか!!」

 振りまいているのは、怒りか、悲しみか、絶望か、それとも、その全てか。

「何なんだよ!……何だと思ってるんだよ、あいつら!俺……俺たちを!!」

 リュータの声は、いつの間にか、涙声に変わっていた。

「サクラを返せ!!」

 そのまましゃがみこみ、リュータは、大声で泣き始めた。

 収まるまでは、見守るしかない。

 珪は、リュータの隣に座り、彼の爆発した感情が収まるのを待った。

 やがて、泣き声が小さくなり、なにも聞こえなくなった頃、珪が、リュータの肩にぽんと手を置いた。

「落ち着いた?」

「なんで、珪ちゃん、そんな大人なの?」

「大人な訳じゃないよ。ムカつくし、怒ってるし、悔しいし、でも、さっき、リュータが全部言ってくれたから」

「そっか…………」

 リュータの表情が、少しだけ和らいだ。

「リュータ、口開けて?」

「え?」

「え、じゃなくて、あー」

「あー?」

 珪は、ニヤリと笑って、そこに残っていた形のよいイチゴを押し込んだ。反射的に、リュータは、モグモグと食べていた。

「幸せの味」

 珪が、にやりと笑ったままで、そう言った。

 思わず、リュータも笑顔になる。

「ふふっ」

 コーヒーの香りがする。

 リュータが振り返ると、史那が、トレーにカップを3つ乗せてテーブルに置くところだった。

 リュータは立ち上がり、開いたままのPCを見つめて口を開いた。

「ねぇ、珪ちゃん、」

「ん?」

「俺、今日から“さくら”になる!」

「は?」

 訝しげな顔をして、珪は、立ち上がった。

 リュータは、強い決意を表した瞳で、まっすぐにディスプレイを睨みつけていた。

「サクとアキが帰ってくるまで、リュータじゃなくて、“さくら”になる。リュータは、隠しとく」

「リュー……」

「さくら!表記は、桜に蔵」

 そこへ、4人でいたリュータを隠して。

「桜蔵ね」

「史那ー、コーヒーありがとう」

 リュータは、いつもと同じに笑って、テーブルの上のコーヒーを手に取った。ひとくち飲んで、美味しいとご満悦だ。

「なぁ、桜蔵?」

「なぁに?」

「俺、サクは生きてると思うんだけどさ」

「珪ちゃん、」

「あいつが、そう簡単に死ぬと思えない。病気とか聞いてないし。でしょ?史那センセ」

 史那は、一言「まぁね」と笑った。

「アキとサクがなんか企んだとしか思えない(俺に、研究データなんて消させるし)。だから、取り戻そう、桜蔵」

「うん!取り戻す!」



*  *  *  *  *


 あれから、4年が経ったが、アキもサクラもまだ、取り戻していない。

「桜蔵ぁー、そろそろ史那センセのとこ行くよー」

 2階で支度中の桜蔵へ、珪は叫んだ。

 桜蔵は、すぐに吹き抜けの柵から顔を覗かせた。

「お待たせー」

 カンカンと、階段を降りてくる音が、室内に響く。

「イチゴ大福とー、おつまみとー、シャンパンとー、」

 birthday partyの持ち物をひとつひとつ挙げて、桜蔵は、すこぶる機嫌がいい。

 史那の診療所は、変わらずにそこにある。サクラもアキも、何かあったときに、いつでも駆け込めるように。

 今日は、party。

 診療所ではなく、2人は、住居スペースの入り口へ回った。桜蔵が、扉を開けて中に声をかける。

「史那ー」

「お邪魔しまーす」

 今日は、party。

 2人を取り戻すための、予祝の集い。シャンパンを入れた、3人のグラスが合わさる音が響く。

「かんぱーい!」

「かんぱーい!」

「かんぱーい!」

 変わらずに傍にあるもの、ここが今味わえる、桜蔵の幸せ。


ー第0話:END and continue……  

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