-Sakura-

A:4人

「俺、今日から“さくら”になる!」

 強い決意を表した瞳は、まっすぐにディスプレイを睨みつけていた。



 桜蔵さくらが“桜蔵”になった日を、二人は、忘れることはできなかった。

 アキと桜蔵を繋げたのは、けいだった。

 珪とアキは、かつて国際警備捜査機構に所属していて、システム関連の業務に携わっていた。そこでの出会いだった。

 そして、サクラを、桜蔵さくらと珪のところへ連れてきたのは、アキだった。サクラとあきは、昔からの親友だった。

「桜蔵、史那シナ先生からMail来た」

「えー?なにぃ?」

 今は訪問者のいないこの家に、アキやサクラが来ていた頃は、随分と賑やかだった。

「招待状。月末にBirthday Partyだってさ」

「Birthday……あ!」

「一応、聞くけど、行く?」

「行くー!そーだ。珪ちゃんは、何ほしい?」

 数年前までは別の名前を持っていた桜蔵が、今のように笑っていた。

「なんで、俺?俺のためのPartyじゃないだろ」

「えー?だって、サクと珪ちゃんの誕生日、2日しか違わないし。何ほしい?」

「ん~、翠晶堂すいしょうどうのイチゴ大福」

「え?!それ、早く起きて並ばなきゃ買えないヤツじゃん!」

 昔の桜蔵は、1人で、徹夜をして買いに行っていた。今は、珪が彼を起こして2人で買いに行く。

「桜蔵が早起きすんのが見たい」

「そこなのー?それ、イチゴ大福じゃなくてよくない?」

「誕生日には、イチゴが付き物だって言ったの、お前だろ?」

 毎年、11月の月末に開く「Birthday Party」は、数年前から、主役のいないパーティーとなっていた。

 11月26日、サクラの誕生日――――。

 主役がいなくても毎年開催しているのは、彼が何処かで生きているのではないかと、そして、いつか戻ってくると、誰もが思っているからだった。

「とりあえず、史那シナ先生には、行くって返事しとく」

「はーい」

 桜蔵が、弾むように答えた。


 それは、約9年前――――。

 桜蔵が珪と出会って1年が経つか経たないかの頃だった。

 まだ、セキュリティも空調も改良前のこの家に、哲とサクラがやってきた。


 扉横のパネルに示された5桁の数字を押せば開く玄関扉。それが、住人は中にいるにも関わらず、カチャリと音をさせて開いた。

「珪ちゃん、いるー?」

 低すぎない男の声が、吹き抜けの1階に響く。玄関の引き戸を開けて、男が1人入ってきた。

「アキ!」

 目を丸くして、珪は、それまで座っていたソファーから立ち上がった。

 彼の視線の先、入って来たのは、金に近い薄茶色の伸びかけのストレートショートの髪をした、茶色い目を持つ男、アキ

 伸びかけの髪のせいで、表情が少し隠れてはいるが、楽しげに微笑んでいるのが、彼の持つ空気でよくわかった。

 そして、彼の後に続くようにして、室内の様子を窺いながら入ってくる男がいた。茶色い短い髪と黒い瞳、そして細身の体つきをした男だった。

「久しぶり、珪ちゃん……って、あれ?先客?」

「アキ、久しぶり~。先客じゃなくて、同居人の」

 この頃、桜蔵はまだ「桜蔵」ではなかった。PCに向かっていたため、デスクチェアに座ったままだった彼は、珪の言葉で立ち上がった。

 この頃の名前は――――。

「リュータ」

 リュータは、その大きな目で、じっとアキともう1人の客を見つめた。

 アキが、小首を傾げた。

「リョータ?」

「リュータ!」

 初対面のアキに素直にむくれ顔を向けて、リュータが言い返す。

「リュータね、ハイハイ」

 楽しそうに笑うアキに、申し訳なさは微塵もない。

「俺、珪ちゃんの元同僚で、アキ。はじめまして」

「あ、はじめまして」

 むくれ顔を改めて、リュータは返した。すると、アキはまた、楽しそうに笑った。

「あはは。いい子~。あぁ、そうだ。俺の友人連れて来た。こいつ、サクラ。昔からの友だちで、今、医者やってる」

 それまで室内を見回していたサクラが、2人の方へと視線を向けてニコリと笑った。

「どーも。えっと、珪、さんと……リョー……」

「リュータ!」

 サクラの迷いを遮るように、リュータは、2度目の訂正をした。

 サクラが申し訳なさげに笑った。

「ごめん、ごめん。アキがややこしい間違え方するから、わかんなくなっただろ」

「俺かよ」

 けらけら笑いながら、アキは、二人掛けのソファーに腰を下ろした。

 サクラは、それを見送ったあとで、改めて、リュータに自己紹介をした。

「リュータ、ね。よろしく。俺はサクラ」

「よろしく」

 リュータも、今度はニコリと笑った。

「これ、おみやげ」

 そう言って、サクラが差し出した紙の手提げ袋からは、コーヒー豆のいい香りがしていた。濃茶色の紙袋に、ベージュいろで「R」の文字が大きく書かれただけの、シンプルなデザイン。「R」の文字は、よく見ると、たて棒のラインは、ホームページのアドレスでできていた。

「あ」

「あ」

 紙袋を見て、リュータと珪は、同時に小さく声をあげた。

「え?」

 紙袋を差し出した形のまま、サクラは、不思議そうに2人を見つめた。

 答えたのは、珪だった。

「これ、この前、お前がしてた仕事だよな?」

「……うん!」

 殊更に嬉しげな声で、リュータは答えた。

「うわぁ!こんな身近で自分のデザインしたの見るとか、感動~!普段は受けない仕事だったけど、やってよかったぁー」

 サクラから紙袋を受け取って、リュータは、改めて、まじまじと自分がデザインしたロゴを見つめた。

「サク、ありがとー!」

「どういたしまして」

 子どものように喜ぶリュータをみて、サクラが笑った。

 珪はそれを、驚きの表情で眺めていた。

「(もう呼び名が変わってる……)そのロゴ、コーヒー豆の店だったよな?淹れるからかして、リュータ」

「俺も手伝う~!」

 キッチンへ向かう珪に、リュータが嬉しげについていく。弾むようなリュータの少し小さな背中と、クールで広い珪の背中とを見つめながら、サクラはアキの隣に座った。

「アキと珪さんは、警捜で一緒だったんでしょ?」

 コーヒーを用意する広い背中に、サクラが言葉を投げる。

 警捜は、国際警備捜査機構の略称だ。

 珪が、肩越しにサクラを振り返る。

「俺は、辞めてるけどね」

 その答えに、アキがにんまりと笑った。

「俺も、辞めてるけどねー」

「え?!マジ?!」

 珪は思わず、コーヒーメーカーをセットする手を止めた。

「なんで?」

「珪ちゃんが、それ聞く?」

 明るく笑いながら、アキが聞き返した。

「あー……まぁな」

 苦笑いで表情を引きつらせ、珪は、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。

 室内に、コーヒー独特の香りが満ちていく。

「今は?何やってんの?」

 背を向けたまま、珪が訊ねた。

「個人で細々とプログラマー。あと、依頼を受けて、メカニック系も作ってる」

 アキの言葉に反応したのは、リュータだった。

「え?メカニック?」

 温め中のコーヒーカップをそのままに、ソファーへ駆け寄る。そして、1人掛けのソファーの背越しに、リュータはアキへ再度訊ねた。

「アキ、メカニックも得意?」

 その目は、真剣そのもの。

「うん。むしろ、そっちが得意。なんで?」

「あのさ!」

 リュータが、その灰色がかったターコイズの瞳を、キラキラと輝かせて話そうとした時だった。

「待った!」

 珪が、慌てたように、キッチンからスタスタと戻ってきた。

「タローちゃーん?お前、なに頼もうとしてる?」

「リュータだってば!いーじゃん。珪ちゃんの友だちなんだし」

「ホント、わかってくれ。俺はともかく、フツーの人は、そういうの受け入れねーの」

「え?でも、珪ちゃんの友だちだし」

 リュータはポカンと珪を見上げている。

「だーかーら!お前の仕事、なに?」

「グラフィックデザイナーと、ド……――――」

 当たり前のように答えようとするリュータの口を、珪は、慌てて手で塞いだ。察してほしかった珪の思いは、通じなかったようだった。珪は、がっくりとうなだれて、両手をリュータの肩に乗せた。

「タロー、頼むから、そこは隠せ」

「あー、そういうこと。……って、だから、リュータ!」

 アキとサクラが、二人のやり取りを聞いて、ケラケラと笑っていた。

「珪ちゃん、タローって!」

「リュータって名前の面影、どこにもないじゃん!」

 珪は、二人の興味が逸れたことにホッとしていた。

「リュータローだから、タロー」

「リュータ!!」

 コーヒーを入れに戻る珪を、リュータが追いかける。

 部屋は、コーヒーの香り。満ちていく、4人分の明るい笑い声、少々のむくれ声。

 この時、この家は、賑やかさに溢れていた。


* * * * *


「珪ちゃん、いるー?」

 サクラを連れてきた日から、アキは、時々この家を訪れるようになった。

 今日は扉を開けずに、中へ声を投げてきた。

 珪は、朝食を作る手を止めて彼を招き入れると、キッチンに戻った。

「早くないか?まだ、9時半」

「早くないでしょ。もう、9時半」

 アキは、ソファーへと歩きながら、室内を見回した。

「リュータは?」

「あいつが、この時間に起きてたら、奇跡だよ」

 アキは「へぇ」と声をあげて、吹き抜けの2階を振り仰いだ。

「……見てきてもいい?」

 見上げたまま、アキはニヤリと笑った。

 珪は、彼に背を向けたままで答える。

「あぁ。ついでに、起こせたら、起こして。上がって、すぐの部屋」

 珪の「起こせたら」という言い様に疑問を抱きつつ、アキは、鉄製の階段を、カンカンと音をさせて登った。

2階に来ても、扉の前に立っても、リュータの部屋からは物音ひとつしない。扉を3回ノックして、寝ているらしいリュータを呼んでみる。

「おーい、リュータ!起きてるー?」

 中からの返事はない。

 扉を開ける。正面に見える窓は、青いカーテンががっちり閉まってはいるが、日の光はさすがに透けていて、部屋は明るい。カーテンが、まるで澄みきった青空のようだ。ここまで爽やかな朝の部屋ができあがっていて、寝ていられることが、アキには不思議だった。

「めちゃくちゃキレイな寝相。ホントに寝てんの?つーか、ホントに人間か?生きてる?」

 近づいて見下ろすリュータのベッドは、全く乱れていない。その上、彼自身も、仰向けのまま、キレイな寝姿を保っていた。

「リュータロー、起きろー」

 カーテンを開けて、日の光がダイレクトに差し込むようにすると、ベッドから抗議の声が聞こえた。

「ん~……」

 アキが振り返る先で、リュータが眉間に皺を寄せて、日の光に背を向けた。

「あ、生きてる。つーか、生身の人間だ」

 しかし、リュータはまだ、穏やかに眠っている。

「おい、起きろ!朝だぞ!」

「遠慮します」

「すんな……。珪ちゃんの朝メシ、うまそうだったぞー?」

 ベッドの端に腰かけて、リュータの体をゆすってみる。リュータは、仰向けになって、うっすらと目を開けた。

「知ってる~。ん~……起きたいのに、眩しくて目が開かない」

「太陽のせいにすんな」

 開けたままの扉の向こうから、階段を登ってくる音がした。

 やがて、珪が顔を覗かせた。

「起きた?」

 それは、起きていないことを予測していた顔だった。

「眩しくて目が開かない、とか言ってる」

 珪は、予測した通りの答えだったらしく、アキの言葉を聞いて、短く笑った。

「今日は、太陽か。毎日、毎日……」

 珪は、ベッドへ歩み寄ると、顔を覆っているリュータの両腕を取り、無理矢理ベッドから引き剥がした。

「ホラ、起きろ。メシ、できたぞ」

「珪ちゃんのオニ~」

「起こせっつたの、お前だよ!ハイ、起きて顔洗う」

 ここで手を離すとベッドに戻るのは、この1年で学習した。珪は、リュータを洗面所に押し込んでから、支度に戻った。

「いつも、こう?」

 アキが、ソファーから訊いた。

「いつも、こう。もう少ししたら、アレが信じらんねぇくらい、機嫌いいリュータが出てくるから」

 ソファー前のローテーブルに、二人分の朝食と、アキのためのコーヒーが並ぶ。

そして――――。

「アキ、おはよー。珪ちゃん、今日の朝メシなに~?」

 珪の言葉通り、にこやかなリュータが、洗面所から出てきた。

「……マジか」

「な?」

 2人を他所に、リュータはソファーに座り、キラキラした目で朝食を見つめている。

「わぁ、おにぎり好き~。具は?入ってんの?」

「塩昆布」

「さすが、珪ちゃん。いただきます!」

 リュータが、きっちりと手を合わせてから食べ始めた。

「どうぞ、召し上がれ」

 感情を込めずにそう言って、珪もおにぎりにかぶりついた。

 正反対の2人を面白いと眺め、アキは、先程から鼻腔をくすぐるコーヒーを口へと運んだ。

「あ、これ、サクラのコーヒー?」

「そう、前にもらった、リュータがロゴデザインした店の。もらった分は、もうないんだけど、二人とも気に入ってたし、同じの買ってきた」

 リュータの食事が、半分終わる頃、珪の器は空になっていた。アキはそれを、興味深げに眺めながらコーヒーを飲んでいた。

 季節は、秋。

 寒くも暑くもない気候。もっとも、この星に国が存在しなくなってから、気候までも科学の力でコントロールしているため、不自然な自然しか感じることはない。

「リューノスケは、いつも春なのかもなー」

「リュータだってば。なに?どーいうこと?」

 聞き返して、添えられている漬け物をポリポリとかじった。

「春眠暁を覚えずってやつ。朝、起きらんないんでしょ?」

「違うよ。朝が来るのが早いんだよ」

 自分は悪くない、と言いたげな言い分に、珪は呆れ、アキは声を立てて笑った。

「目覚ましかけないの?」

「それでコイツが起きてくれるなら、とっくにやってる」

 珪は、別に怒っているわけでも、不満に思っているわけでもない。それは、アキにはよくわかっていた。もちろん、リュータもよく理解している。

 この不思議な二人の関係に、アキはまた、声を立てて笑った。

「そりゃそうだよな。あ、そーだ。俺が作ってやろうか?」

「え?!」

 子どものように目をキラキラさせて、リュータがアキを見つめる。

「俺特製の目覚まし時計、作ってやるよ」

「やったー!」

 玄関扉のセキュリティが解除される音がして、扉が開いた。

「アキ、いるー?」

 顔を出したのは、サクラだった。

「ここって、誰の家だった……?」

 食後のコーヒーを味わっていた珪が、がっくりと項垂れて呟いた。

 それを見て、リュータとアキが、ケラケラ笑っている。

「珪ちゃん、愛されてるねー」

 そう言ったリュータの顔は、幸せに満ちていた。リュータは、友だちが増えることが嬉しくて、一緒に過ごせることが楽しくて、ただそれだけで幸せな気がしていた。



* * * * *



 イルミネーションと赤と緑、それから大きなリボンがついたプレゼントボックス。クリスマスが溢れる町を通り抜け、リュータと珪は、表通りから2つほど奥へと進んだ路地を入った。

「ここー?」

 周りに見えるのは店の裏口ばかりで、とても目的地がある場所には思えなかった。

「みたいだな」

  教えられた住所もそれを示す地図も、2人の頭に入っている。

「えー?だって、この辺り明らかに住宅街じゃ……あ」

「あ」

 明るい色の木の扉と、白に近い灰色をした外壁が見えた。三角屋根は、周りの四角ばかりの建物の中で、ひっそりと、しかし、確かな自己主張をしていた。

「あれだ」

 珪が、誰にともなく呟いた。

「アキっぽーい!」

 リュータが、はしゃいだ声を上げた。

 インターホンを押すと、スピーカーから哲の明るい声で、どうぞ、と聞こえた。

 引き戸を両手で持って、リュータが開けながら声を掛けた。

「アッキー!」

「いらっしゃーい」

 片手にインターホンの子機を持ち、機器やPCが収まったいくつかの棚の間にある、作業台の前に、哲はいた。

「イチゴ大福、持ってきたよ〜」

 リュータが、翠晶堂の袋を差出して見せた。

「ありがとー。珪ちゃん、コーヒー淹れて」

 部屋の中央に、玄関と平行に置かれたソファーとローテーブル。そこに腰を下ろそうとしていた珪は、信じられないと言いたげな顔で、体勢を直した。

「何で、俺なんだよ。客なんだけど?」

「俺、今、手が離せないの。コーヒーメーカーそこね。豆は冷蔵庫」

 ブツブツ文句を言いながらも、珪はコーヒーを淹れ始めた。

「アキ、何やってんの?」

 リュータは、機器の中に埋まるようにして座る、哲の手元を上から覗き込んだ。

彼の手元にあるのは、大判のスクリーン。タッチペンと専用の定規を使い、図面を引いていた。

「なに?これ?」

「作るって言ったろ?お前の目覚し時計」

「わぁ。結構、本格的に作ってくれてるー!」

 目を輝かせるリュータを、哲はケラケラ笑って見つめた。

「そりゃ、そーでしょ。タローちゃん起こすんだから。普通の作ってどうすんの」

 リュータが、感動の表情で図面を見つめている間に、玄関の方から、ピピピッという電子音の後に、ピーッという音が聞こえた。

 3人共に玄関を振り返り、そして、哲がニヤリと笑った。

「解除失敗の音。サクラだ」

 哲の言った通り、直後に扉を叩く音と共に、声が聞こえてきた。

「アキー、開けてー!」

「インターホンの意味な……。タローちゃん、サクラ入れてやって。戸の横にあるボタン押したら開くから」

「リュータだってば、もう……」

 半ば諦め気味に反論をして、リュータは玄関へ向かい、言われた通りに扉を開けた。

「あ、リューノスケ〜。来てたの?」

 涼しげな空気をまとわせたサクラが、そこに立っていた。

「うん。珪ちゃんと遊びに来た」

 リュータの言葉に、サクラがキッチンを見れば、コーヒーを今まさに用意し終えた珪がいた。

「珪ちゃん、俺にもコーヒーお願い」

「はーい、ホットコーヒーひとつですねー」

 珪の投げやりな口調を、3人が笑う。

 リュータだけは、それでも珪のフォローに駆け寄った。

「珪ちゃん、イチゴ大福あるから怒んないで」

「ホラ、リュータ。3人分運べ」

「はーい」

 サクラが、ソファーに座り、リュータはローテーブルにトレーを置いて、一つをサクラへ、そしてもう一つを自分が座る場所へ置いた。

「アキ、コーヒーはこっちに置いといていい?」

 まだ図面を引く哲へ声を掛けた。

 軽く「あぁ」と答えが返される。

「アキ、玄関のセキュリティーナンバー、簡単にしてよ」

 サクラが、うんざりした顔で哲を見やった。

「もう、ホント覚えらんない」

「セキュリティーなのに、簡単にしてどうすんだよ」

「指紋とか、網膜とか、いろいろあるでしょ?」

「とりあえず、インターホン使えって、サクは。一度も解除できてないのに、何で毎回チャレンジすんの?」

 コーヒーを喉へと流しながら、サクラは「んー」と思案するように宙を見つめた。

「“カチャ”っていう音聞いたときの快感っていうのかなー」

 サクラの言葉を聞いて、リュータが目を輝かせた。

「あー!わかるー。俺も、俺もー」

 コーヒーを持って隣に座った珪が、リュータの頭を軽く叩く。

「お前のは、ちょっと違うだろ」

「何が違うって?」

 哲が、サクラの隣に座る。

 珪は、コーヒーと共に顔をそらした。

「……こっちの話」

「えー。内緒話〜?リューリュー、珪ちゃんがイジワルなんだけど〜」

 わざとらしい口調で、哲が、リュータに話を振ると、彼はニコリと笑顔を咲かせた。

「珪ちゃんが言うなって言うなら、言わなぁーい」

 そして、イチゴ大福の1/3がリュータの中に消えた。

「あー、早起きして買ったかいがあったー。うまぁ〜」

 正面で、サクラが笑う。

「リョータは、ホント珪ちゃんに懐いてるねー」

「珪ちゃんは天才ですごい奴なんだから、ついてった方が面白いに決まってんじゃん」

 リュータは、当たり前に言ってのけたセリフに、3人が驚きのまま、表情を固めた。最初に口を開いたのは、珪だった。

「……お前は相変わらず……ストレートにそんなこと……」

 珪の顔が赤くなっているのを見て、哲が、ニヤリと笑った。

「まぁ、珪ちゃんが天才なのは、認めるけどね」

「お前……。何、この仕打ち」

 気恥ずかしさに耐えられなくなった珪は、眉間にシワを寄せた。

 リュータは、哲の同意が嬉しくて、身を乗り出して続ける。

「だよねー!ホント、珪ちゃんと出会えて相棒になってくれて、最高に嬉しい!類は類を呼ぶって本当なんだね。アキだってサクラだって、すごい人ばっかり」

 子どものような、リュータの率直な言葉。サクラは目を細めて微笑んだ。

「俺は、そんな思考ができて、素直に言えるお前が、一番すごいと思うけどね」

 サクラの考えに、アキも珪も、うんうんと頷いている。リュータだけが、キョトンとサクラを見ていた。

「あー、もう。本当に、ここにいる3人のDNAだけは、残して欲しいもんだねー」

「そう都合よくいくかよ」

 珪が、そう言って笑う。

「えー?そう?じゃあさ、サンプルちょうだい」

 サクラが、実に爽やかな笑顔を浮かべた。

 珪もアキも、リュータまでもが、怪訝な顔をして、サクラを見やった。

「はい?」

 アキは短く聞き返した。

「サク、お前、なにする気?」

 珪の表情が、引きつる。

「だから、3人のDNA残したいから、研究にね」

 人の良さげな顔をして、サクラは当たり前のように答えた。

「えっと……確認しときたいんだけど、サンプルっていうのは?」

 リュータが、恐る恐る訊ねると、サクラは何がわからないのか、と正面にいる彼を見た。

「え?何?ここで保健体育の授業しろって?」

「遠慮しとく……」

 リュータは降参と言うように、両手を胸の高さに挙げて、苦笑いを浮かべた。それを、イチゴ大福にかぶりついたアキが、軽く笑い飛ばす。

「つーか、出せっつって、はいどーぞって出せるかよ。アホか」

「あはは。まーね。でも、真面目な話、生命の神秘に、そろそろヒトの手が加わっても、おかしくないかなぁってさ。俺、そっち専門だし」

 サクラの考えに、「あー」と短い声で同意を示したのは、珪だった。

「まぁな。これだけ自然を色々いじってたら、あり得るかもな」

 ただの、雑談のはずだった。可能性や未来、興味のあることに、花を咲かせている、それだけだった。

「えー?将来、そうなるのぉ?なんか味気ない」

 ソファーにあぐらをかいて座るリュータが、不満げにコーヒーを啜っている。

「お?タローちゃんは、ロマンチストか?」

 アキが、面白いとニヤニヤわらっている。

「リュータだってば!っていうか、ロマンとかじゃなくて、そう思わないの?」

「男だし?」

「アキー!」

 笑い声が響く。ただ、賑やかに時が過ぎていた。

 雑談だったのだ。誰もが軽口のはずで、これが大変な事態へ繋がるなど、4人とも、想像もしていなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る