E

 静かに雨が降っている。室内にいれば、その気配すら感じられないほど静かに、しとしとと。湿度は、やや高めだが、常に快適に保たれたこの家には関係なかった。

 アキのミニチュアに出会ってから、10日が過ぎた。

 あれから、二人でもう一度あの本屋に行ってみるが、彼はいなかった。商店街でも、出会うことがない。

 彼の存在が頭から離れないまま、二人は、日々を過ごしていた。

 桜蔵は、ここ2日ほど、PCに向かっている。彼は、表向き、グラフィックデザイナーとして働いていた。

 前回、彼らが侵入した会社は、桜蔵のクライアントだった会社だ。桜蔵は、依頼が来ると、表の仕事と同時に、裏の仕事も行っていた。

「桜蔵~?」

ソファーで雑誌を読んでいた珪が、後ろで作業中の桜蔵に声をかけた。

「なーにー?」

「どんな感じ?」

「どっちが?」

「表の方を俺が聞いても、仕方ないでしょ」

珪の言いように、桜蔵はケラケラ笑った。

「珪ちゃん、しばらく休めるね。ここは、入んなくてもいいかなぁ」

「それはよかった」

 言いながら、欠伸が出た。

「コーヒー淹れるね」

 桜蔵が、クルリとキッチンスペースの方へデスクチェアを回す。

「いや、俺が淹れる。お前、仕事中だろ」

 珪は、桜蔵の動きを制するように立ち上がり、大きく伸びをした。

 ほどなくして、香ばしいコーヒーの香りが部屋を満たす。

 桜蔵は、キッチンに立つ珪を、じっと眺めていた。桜蔵の作業音が止まると、部屋はしんとなった。外の気配まで、感じられるほどに。

「……あ、雨降ってる」

 桜蔵は、近くの窓へ視線をやり、微笑んだ。

 昔は、この部屋によく集まっていた。サクラがいて、哲がいて、もちろん珪がいて自分がいた。賑やかだった。

 哲と珪は、よくパソコンに向かっていて、ソファでそれを眺めるのが、いつもの風景だった。

 

―― なぁ、サク~?アキと珪ちゃんは、さっきから何やってんの? ――

 

サクラは、ソファにのんびり座って、雑誌を眺めるのが好きだった。


―― お前にはわかんないレベルの、大人の遊び ――


サクラはいつも、穏やかに笑っていた。


―― え~?何それ?アヤシー ――


―― ドロボーが言うか? ――


 以前は、四人でワイワイやっていた。それを思い出して、桜蔵は淋しさに、表情を曇らせた。以前と変わらない家をぐるりと見回す。

「ふふっ」

 そして、そこで見つけたものに、桜蔵は嬉しげに笑った。

 珪が、コーヒーをカップ二つに入れて、こちらへ近づく。

 残された幸せが、そこにあった。

「はい、どーぞ」

「いい匂い~。ありがとう、珪ちゃん」

 デスクチェアの上に、ひざを折り曲げて座り、桜蔵は、早速コーヒーを口にした。

 この家のコーヒー豆は、いつも同じもの。何故なら、サクラが好きなコーヒーだったから。

「サクもアキも、絶対、珪ちゃんにコーヒー淹れさせるんだよね」

「コーヒーメーカーだから、同じなんだけどな。俺が淹れようが、お前が淹れようが」

 ソファでため息をつく珪を見て、桜蔵は笑った。

ここに来た時だけではない。哲は、家に遊びに行った時ですら、珪にコーヒーを淹れてもらっていた。


―― 珪ちゃん、コーヒー ――


それはいつも、疲れた声で、来て早々にリクエストされる。

だから珪は、ソファに座ろうとする体を、いつも立て直すのだ。


―― 俺、客だけど? ――


―― 客がコーヒー淹れないなんてルールは、ウチにはありません ――


文句を言いつつも、結局、珪はコーヒーを淹れに行く。そして、それを見送って、ソファに座るのが、桜蔵のパターンだった。


―― アキ、忙しいの? ――


彼が姿を消す、少し前、めずらしく、ピリピリした空気を醸していた。


――まぁね。ん~、でも、忙しいっていうか、プレッシャー? ――


―― アキが、プレッシャー?一体、クライアントはどこの誰? ――


その時は、まだ、この話題で珪も笑えていた。


―― まぁ、あれよ。言えない人たち ――


この一言で、桜蔵と珪は、察しがついた。サクラは、この時には、すでに会うことも難しくなっていたのだから。

桜蔵の携帯が、短くメロディを奏で、彼を現実へと引き戻す。

 コーヒーをもう一口喉へ流してから、傍に置いていた携帯を手に取った。そのタイトルを確認して、桜蔵は、大きな目をさらに大きく丸くした。

「珪ちゃん!T‐MAIL !」

「は?!」

 T-Mail、それは、桜蔵の携帯にのみ送られてくる、発信者不明のメールで、もちろん、たどることはできなかった。「T‐Mail」と呼んでいるのは、タイトルに、ただ「T」とだけ書かれているからだった。

 珪が、ソファから立ち上がり、コーヒーを片手にしたまま、桜蔵のところへやってくる。そして、彼の携帯を覗き込み、表情を固めた。

「LABO-SA……って、」

 書かれているのは、大抵が記号や数字で、それが場所を示していると気付いたのは、桜蔵だった。今回は、調べなくても、それがどこかが分かった。

「うん。サクの研究室。サクが最後にいた場所だよ」

「……行く気……だよな。やっぱり」

 確かめようとする言葉を、珪は飲み込んだ。桜蔵の瞳が、凛と輝いている。決意したなら、共に行くまで。

「もちろん!サクとアキの残したものなら、俺たちが行かなきゃ」

「じゃあ、予祝といきますか?」

「いきますか!」

「買い出しだな。商店街行くぞ」

「はーい」

 作業をしていたPCや、その周りを片付けて、出かける用意をしている桜蔵は、機嫌よく歌いだしていた。珪も、透明感のある桜蔵特有の歌声を聴きながら、身支度を始めた。

 外は、まだ雨。

 二人は、白いビニール傘をさして、家を出た。

 雨のせいか、いつものうんざりする暑さも控えめで、程よく涼しい。

 桜蔵は、まだフンフンと小さく歌っていた。

「珪ちゃん、アレ食べたい!」

 歌の合間に、桜蔵が言った。

「あれ?」

「あの、もちもちしたイモの奴」

「あぁ!」

 料理は、基本、珪が担当だ。珪は、おつまみのメニューから、買い足す食材を頭に描きながら歩いた。

 商店街に着くと、アーケードに入ってすぐの酒屋へ立ち寄った。自動ドアを入ってすぐに、桜蔵が立ち止まった。

「桜蔵?」

「珪ちゃん、俺、お酒選ぶから、おつまみとか買ってきてよ」

 珪は、目を丸くした。こちらを振り返りもしない桜蔵は、おそらく、不安と恐怖に耐えている。そして、それを見られたくはないはず。

「平気?」

「な、わけないじゃん。だから、待たせないでね」

「わかった。そうだな、20分したら、一回連絡する」

「約束」

「あぁ、約束」

 桜蔵は、ようやくこちらを振り向いた。無理やり笑う桜蔵が、そこにいた。

「あとでね」

「お前こそ、待たせんなよ?」

 額を指ではじくと、桜蔵は、むくれ顔をして見上げてきた。

「あとでな」

 珪は、酒屋を後にした。

 哲が突然いなくなってから、ここを一人で歩いたことはない。独りになるのは、珪も桜蔵も同じだった。桜蔵を失くすのは、何より怖い。

 商店街を一人で歩きながら、早く買い物を済ませてしまおうと、珪はルートを考えた。

まず、八百屋に寄って野菜を買い、その正面にある肉屋に立ち寄る。そこから戻って惣菜を少しばかり買ったら、桜蔵と合流だ。

「よし」

 まずは、桜蔵のリクエストに応えるべく、八百屋でジャガイモと、買い足す食材を買い、予定通り肉屋に立ち寄る。出来立てのコロッケが目に留まり、珪は微笑んだ。買って戻ったら、桜蔵は喜ぶだろう。きっと、子どものように。

「すいません、コロッケ二つ」

 出来立てのコロッケを入れた袋を、満足そうに眺めながら、珪は来た道を戻っていく。

「あ、そうだ。連絡しとくか……」

 まだ、約束の20分にはならないが、惣菜を買ったら自分の買い出しは終わる。

 桜蔵に電話をかけると、すぐにつながった。

『はーい』

「桜蔵?今どこ?」

『今?コンビニ~』

「何、立ち読み?」

『違うよ。枝豆捜して、2軒目』

「あったのか?」

『うん!』

「じゃあ、いつもの惣菜の店に来いよ。肉屋のコロッケあるぞ」

『マジで?!すぐ行く!』

桜蔵の弾んだような声の後、通話は終わった。

ケータイをズボンの後ろポケットに戻そうとして、珪は、動きを止めた。

メロディが聞こえる。着信を知らせる、メロディが。

「誰だ?桜蔵?」

 表示されているのは番号で、名前ではない。桜蔵ではなかった。見覚えのあるような、ないような番号。

「……はい」

 警戒しながら、応答する。

『珪さん、ですか?』

 子どもの声だった。しかも、聞き覚えがある。

『書店でお会いした者です』

 子供らしからぬ言葉づかいであるが、それよりも――――。

「って、お前!」

 書店で会ったということは、「アキのミニチュア」だ。

『お買い物ですか?』

「は?!」

 珪は慌てて周囲を見回した。

 そして見つけた。友人によく似た小さな子供を。

『はじめまして』

「は、じめ、まして……」

 数メートル先で、携帯片手に話をしている「アキのミニチュア」は、まじめな顔でじっとこちらを見つめていた。

 言葉が出てこない。聞きたいことはたくさんあった。何で番号を知っているのか、とか、何であの家に入れたのか、とか、哲やサクラの関係者なのか、とか、そもそも誰なんだ、とか。しかし、そのどれもが口をついては出てきてくれない。

『哲博士やサクラ博士のことで、お話があります。あの家でお待ちしてます。では』

 言うだけ言って、電話は切れた。

 視線の先で、少年は、路地から奥へと消えていった。

 茫然とそれを見送った後で、我に返った珪は、慌てて彼の後を追った。

 消えていった路地の向こうに、当然ながら彼の姿はなく、それでも、駆り立てられるように珪は彼と同じ道を走り出した。

 雨の中、傘も差さずに。

 荷物を抱えているとはいえ、こちらは大人で、向こうは子ども。簡単に追いつける――――はずだった。

「あのガキ、何で移動してんだ?!」

 哲の家へと急ぎながら、珪がぼやく。

 その時、珪のズボンのポケットで、携帯がメロディを奏でた。

「はい?」

『珪ちゃん、今どこ?』

 桜蔵だった。

「あ……」

 待ち合わせていたことを思い出し、冷や汗が伝う。

『あ、じゃないでしょ?!どこ?』

「あーー!」

『珪ちゃん?』

 耳元で、携帯越しに桜蔵の訝しげな声がする。

珪の視線の先、追っていた少年が、突き当りの通りを自転車で通り抜けていった。

「悪い、桜蔵」

『え?ちょっと?』

「かけ直す!」

 珪は、通話を終わらせて走り出した。

 珪の頭に、桜蔵の怒った顔が過った。

 しかし、気になってしまったのだから、仕方ない。友人にそっくりな少年が、話をしたいというのだから。しかも、その友人の話を。

 雨はいつの間にか、小雨になっていて、傘を差さなくても差し支えないほどになっていたが、雨の中を走っていてずぶ濡れの珪にとっては、もう関係なかった。

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