E2
白に近い灰色の壁が見えてきた。明るい色をした木の扉の前に、子ども用のマウンテンバイクが置いてあった。
「……何で、俺走ったんだろ……」
雫が滴る前髪をかき上げて、息を整えながら、買い物袋の中を確認する。野菜は無事だ。しかし、コロッケは、無残な形になっていた。
「俺のシャツが、鮮やかに染められそうだな、これは……」
何日か前に、桜蔵を置いて出かけたら本当に締め出されたことを思い出し、珪はため息をついた。
玄関扉の取っ手に触れると、数字がランダムに動く。珪は、慣れた調子でセキュリティーを解除して、扉を引いた。
室内は、きれいに掃除がされていた。
こちらを向いて置かれているソファーに、あの少年が座っている。
「中へどうぞ」
「話って、何?」
珪の後ろで、扉が閉まり、鍵がかかる音がした。
「先に、着替えますか?ずぶ濡れですね」
「着替えるって言っても、ここにはアキのしかないからな。サイズが合わない」
「洗濯乾燥機が使えます。ジャージくらいなら入るでしょう。シャワーもどうぞ。風邪ひきますよ?」
「じゃあ、遠慮なく」
珪は、勝手知った様子でロフトへ上り、アキの服から自分でも着られるサイズのものを選ぶと、1階奥のバスルームへ向かった。
濡れた服を洗濯乾燥機に放り込み、スイッチを入れる。
シャワーで体を温めて、あの少年のことを考えた。信用してもいいのか、何かの罠なのか。哲にそっくりで、この部屋に、どうやら暮らしているようで、自分のことをしっている。
「はぁ……(なぜ、この部屋に呼んだ?)」
濡れた髪をかき上げて、シャワーを止める。
身なりを整えてからリビングに戻ると、コーヒーのいい香りがしていた。
「ブラックでいいですか?」
「……あぁ」
少年が立ち上がり、コーヒーを淹れに行く。珪は、入れ替わるように、玄関を正面にしてソファーに座った。
「この匂い……」
「どうぞ」
「ありがとう」
「何も入っていませんよ。ただの、コーヒーです」
疑われていることを、気付かれている。珪は、一つ息を吐いてから、コーヒーを口にした。
「……あれ?」
コーヒーの香りもそうだが、飲んでみてわかった。
「(これ、確か……)」
「サクラ博士が好きだったコーヒーです」
言われて、そうだと思い出す。桜蔵なら、香りだけでわかったかもしれない。
「サク……サクラは、コーヒーはそんなに飲まないだろ?」
「コーヒー以外のモノを飲んでいる姿を、見たことがありません」
「へェ……。あのさ、サクラの関係者?」
「はい。関係者かと言われれば、関係者です」
子どもとは思えない言葉づかい、サクラの関係者。
「それって……」
「すぐにわかります」
「アキのことは?」
「知っています。いろいろと」
「まぁ、だろうな。ここに入れたんだし」
ソファーの背にゆっくりともたれかかり、膝の上で、指を組む。
「聞いてもいいですか?」
「何?」
「ぼくと哲博士は、似ていますか?」
「あぁ!そっくり!もう、小さい頃はこんなだったんだろうな、ってくらい!」
珪は思わず、身を乗り出していた。そこで、ふと気付く。似ているかどうかを訊いたということは、この少年は、哲本人とは会ってない。
「アキ……」
ため息と共に、小さく呟く。
「コーヒー、冷めますよ?」
「……あぁ」
哲の家で、サクラが好きだったコーヒーを啜る。
「食事は?どうしてんの?」
「コンビニで。コーヒーを入れたりするくらいはできます」
「この豆も、わざわざ?」
「話は、聞いていましたから……」
声のトーンが落ちる。
顔を上げれば、あの寂しげな顔。コーヒーを飲むサクラを見、話をしたことがある少年。サクラと、会っている少年。今は、いない事を知っている。
「哲博士とサクラ博士は、知り合いなんですか?」
「あぁ、知り合いっていうか、親友?昔からだって聞いたけど」
「サクラ博士は、ここには住んでないんですね?」
「ここは、アキの家。アキの事は、調べたの?」
「調べたことと、それから、サクラ博士から、よく……」
サクラの話になると、少年の表情は曇る。
詮索は止めようと、珪は話題を探した。本当は、どこで会ったのか、どういう関係なのか、サクラの最後の姿を知っているのか、訊きたいことはある。しかし、哲と同じその顔を、哀しみで歪ませたくはない。
「掃除、してくれたんだな」
「はい。あのままでは、住むに住めませんでしたから」
「そうだよな」
前に来た時には、埃まみれだったのだから。
「ここの家具は、哲博士が選んだものなのですか?」
「あぁ、そうだよ。気に入った?」
尋ねると、少年は嬉しそうに、それでも少し照れた様子で、黙って頷いた。
「センスあったからな、アキは」
改めて、室内を見回す。一つ一つがこだわりぬいて選んだものなのに、全てが調和している。
「このソファーなんて、すげぇ、座りごこちいいし」
「はい」
「だからかなぁ?溜まり場になってたよ、ここも」
「それで、あの写真……」
少年は、羨ましげに珪を見つめた。
「あんな顔した博士は、知りません」
「どの顔?」
「どれも。楽しそうで、いっぱい笑ってて、へんな顔してて」
珪は、写真を撮った頃を思い出していた。ここに哲が暮していて、サクラが遊びに来ていて、自分や桜蔵も、頻繁に出入りしていた頃。
「バカみたいに楽しかったから。くだらないことして、くだらないこと話して、大切なこともたくさん話したし」
「賑やかだったんでしょうね、この家も」
今はすっかり、静まり返った、主のいない家。
「そりゃ、もぉ。アキとサクは、こんなものがあったら面白いとか、便利だとか言ってるんだけど、まさか作んないだろうなぁ、とか思ってると、案外マジだったりしてさ。そのたびに、俺にプログラミングのこと色々訊いてきて。その間に、サクはサクで、訳わかんねぇこと思いついちゃ、俺らに無理なことサラッと頼んだりするしさ(桜蔵は、桜蔵で、サクの話に夢中だし)。おなか空いたってごねるし」
「哲博士のお仕事、手伝ってたんですか?」
カップを両手で持ったまま、少年が訊いた。それは、とても真剣な表情だった。
「まあな。あいつは、メカニックは強かったけど、プログラミングは俺の方が得意だったから。って言っても、聞かれたことに答えるくらいだけど」
「……それじゃ、哲博士の仕掛けたプログラムなら……」
「俺ならわかる」
少年は、珪をジッと見つめた。何か、思案するように、ただ、じっと。
沈黙が続き、珪が訝しげに眉を寄せたとき、珪の脇で、携帯が歌いだした。流れ出した、着信を知らせるメロディーに青ざめる。手にとり、二つ折りの携帯を開くと、画面に表示された名前は、思ったとおり―――。
「げっ(桜蔵……)」
恐る恐る、通話ボタンを押す。
「はい……?」
『……珪ちゃん?』
怒ったような、拗ねたような桜蔵の声が聞こえた。
「よぉ……」
『もー、今どこ~?』
声を聞いて安堵したのか、怒ってはいるのだろうが、半分泣きそうな声音に変わった。
「お前こそ、今どこ?」
『ウチ!あれから暫く待ったけど、珪ちゃん来ないし、TELないしぃ~』
「悪い悪い」
『口の中コロッケなのに~!』
「わかった。すぐ帰るから」
『今度こそ、早くお願いしまーす』
「はいはい。じゃ、後でな?」
携帯を切って立ち上がり、ヒップバックに入れると、珪は、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。カップをテーブルに戻し、申し訳なさげに笑う。
「相方が待ってるし、帰るわ。コーヒーおいしかったよ。ありがとな」
洗濯乾燥機に入ったままの、自分の服を取りに行く。
洗面室で、すっかり乾いてホカホカの服に着替え、代わりに、着ていた服を放り込んで、リビングに戻った。
少年は、真剣な顔をして、シャワーから出たときと同じに、ソファーの前に立っていた。
「哲博士の、残していったものを、見たくないですか?」
「アキの、残していったもの?」
「はい。最後の仕事を」
「それを知っているということは、お前、そこにいたことになるよな?」
「はい」
珪は、表情を硬くした。
「サクがいなくなった。アキも姿をくらました。そんなところに、ホイホイついてくと思ってんの?」
「哲博士が、サクラ博士のパソコンにファイルを残したんです。サクラ博士、開けることができないまま、いなくなってしまいました。哲博士にプログラミングを教えていたあなたなら、わけなく開けられるはずです」
「俺は、お前をまだ、信じてない」
少年は、真剣な表情で訴えた。
「サクラ博士は、ぼくを『アキ』と呼んでいました。あなたのように、哲博士とそっくりだと。サクラ博士にとって、大切な存在だということも、伝わってきました。哲博士のことが、知りたいんです。そうすれば、サクラ博士のことも、もっと知ることができるから」
それが、ウソか本当かは分からない。本当だとして、その理由が自分たちを陥れることなのかもしれない。
しかし、おそらく哲なら、軍であろうとどこであろうと、データファイルを残すことは考えられる。自分がいなくなることを、計画していたのなら。
そして、あのT‐MAILが、本当に哲からだとしたら。
珪は、決意した瞳で、まっすぐに少年を見つめた。
「分かった。……連れて行け」
哲が残した開くことのできないファイルが何なのか、確かめる必要はある。
「はい!」
少年の顔が、パッと輝いた。
支度をしに階段を駆け上がる少年を見送って、そっと携帯を取り出すと、珪は、桜蔵にメッセージを送った。お互いに何かがあった時には、送ろうと決めていたメッセージ。
件名・ごめん、桜蔵
内容・COSMOS
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