D2

11時前とはいえ、まだ午前のはずなのに、日差しは焼けるよう空気は絡みつくように重い。そんな気温上昇中の街を、珪は、全力疾走中。日陰に入り、足を止めて、膝に両手をついて息を整える。身体中から、汗が噴出していた。

「あぢぃ……。あ~、あと100メートル……?」

 項垂れていた顔を上げて短く息をつき、気合いを入れ直す。

「寝ててくれ、桜蔵ぁ……」

 力ない声をあげたあと、再び駆け出す。あと100メートルちょっとの距離に、身体に残る全力を振り絞って。

 100メートル走なら、あっという間にゴールなのに、こういう時には妙に長く感じる。

 焦る珪の目に見えた、空と同じ色の玄関扉。哲の家と同様、引き戸にコの字型の取っ手がついている。飛びつくようにして取っ手を握り締め、玄関の前で肩を上下させて荒い息を整える。

「……はぁ、暑い……」

 項垂れる体を無理矢理起こして、取っ手の持ち手部分に浮ぶ数字を素早く押していく。このセキュリティーシステムは、哲の家と同じもの。10桁の数字を押し、解除音を聞く前に当然のように扉を左へ引いた。

「あれ……?」

 しかし、扉はびくともしない。

 仕方なく、もう一度、10桁の数字を打ち込む。今度は、小さく声に出して確かめながら。

 しかし――――。

「……あれ?」

 やはり、扉はピクリと動かず、閉じたまま。

 身体中から噴出す汗に、冷や汗が混じった。

「……マジで?」

 締め出された。と、いうことは―――。

「起きてるっ?!」

 珪は、ベルトループに引っ掛けたヒップバックからケータイを取り出し、時間を確認した。

11時、15分前。

「何で、今日に限って……」

 ケータイを片手に、扉を両手で叩く。

「さーくらぁー!」

 反応なし。

「さーくーらぁー!」

 哲が「出かけてくる」と言い残し、戻らなくなってから、独りを嫌がる桜蔵を置いての外出なんて、一度もしたことがなかった。同じ店の中でバラバラに行動することはあっても、外出は、当たり前のように、2人一緒。

「開けてってば、桜蔵ぁ」

 本当に締め出されるなんて、思ってもみなかった。

「さーくーらぁー……」

 ここが人通りの多い通りでなくて良かったと、珪は心から思っていた。

「あぢぃよ、桜蔵ぁ……」

 ここから徒歩30分はかかる哲の家から、この暑さの中を全力疾走したのだ。すでに、声に元気はない。

「あけてぇ~、さくらぁ~……」

 反応がない。思った以上に怒っているらしい。

 照りつける日差しが、いつも以上に痛く感じる。

「桜蔵ってば~……」

 無理矢理でも起こして連れて行くんだったと、今更ながらに後悔して。でも置いていったのにも理由があったんだと、言い訳を頭に浮かべて。ため息を一つついた後、出てきた言葉は。

「……ごめんなさい」

 中から聞こえる音はない。

「開けてください、桜蔵さん」

 ソファーで二度寝してんじゃないだろうかと、嫌な予感が頭に浮んだ。

 ―――カチャ。

「あ……」

 扉が、少しだけ開いて子どもみたいに不貞腐れた桜蔵が、隙間に見えた。

「……あの、桜蔵……?」

 汗だくの珪の表情には、力がない。

 桜蔵は、相変わらず、口を尖らせて俯いている。

「……おかえりなさい……」

 表情と同じ、不貞腐れた声。

 珪は、引きつった笑みを浮かべた。

「た、ただいま……」

 桜蔵が、ようやく、中へ招き入れるように扉を開けた。

 とたんに、冷気が珪の体を包んだ。全身に汗をかき、服も十分すぎるほど水分を吸収した今、心地よい筈のクーラーの冷気は寒いくらいだった。

 それでも外の猛暑よりマシで、珪は、ホッと息をついた。

 中へ入った珪の後ろで、ひとりでに扉がゆっくりと閉まっていく。

 桜蔵は、すでにソファーへ歩き出していた。

 とりあえず、シャワーを浴びて着替えようと、珪は、奥へ進んだ。桜蔵が、ソファーにどかっと勢いよく腰を下ろしたのが、視界の端に映る。

「おなかすいた!何か作って!」

 怒りをたっぷり含んだ声で、桜蔵が言った。頼むというより、命令口調。まるで、駄々をこねる子どものようだった。

 ソファーの前を過ぎたところで足を止めて、珪は、まだ膨れっ面の桜蔵を見つめた。

「朝メシ?冷蔵庫にサンドイッチ作っ……」

 答えかけた珪を、桜蔵が眉を釣り上げて、キッと睨んだ。キレイな顔だけに、妙に迫力があった。

「作るっ!作ります!」

 笑顔で取り繕って、珪は、キッチンへと方向転換。

 室内を満たす、冷たい空気と、気まずい沈黙。後悔の念に駆られながら、珪は、何とか機嫌を戻そうと、冷蔵庫を覗いた。

 しゃがんでメニューを考えていると、背中で声がした。

「ごめん。珪ちゃん」

「へ?」

 思わぬ台詞に、間の抜けた声しか出なかった。珪は、何事かと冷蔵庫の前にしゃがんだままで、桜蔵を振り返った。

 彼は、ソファーとキッチンの間に、不安げに立ち尽くしていた。何か悔やんだように、顔を歪ませて。何かに心を痛めたように。

 珪に思い当たることと言えば、ひとつ。

「あ、締め出したこと?」

 問うと、桜蔵は視線を泳がせた。

「それも、だけど……もう一こ」

 言いよどむ桜蔵に、珪は、穏かに微笑んだ。桜蔵が悔やむのは、どうしようもなく不安に駆られた、弱い自分。戻ってきて安心したのに、余計に苛ついて八つ当たりした。桜蔵の心の内は、よくわかる。何故なら―――。

「まぁ、お互い様だから」

 珪の言葉に、桜蔵の表情が少し和らいだ。

「何か、手伝う?」

 詫びの印に、桜蔵が聞いた。

 まだ少し不安げな顔だ。こちらの様子を、ドキドキしながらそっと伺っているのが、珪にも伝わる。優しい笑みで、桜蔵を見上げる。

「おいしいコーヒーが飲みたい」

 珪の言葉に、桜蔵を包んでいた緊張と後悔と不安が、一気に解けた。端正な顔を笑顔に崩す。

「わかった!」

 弾むように、桜蔵がキッチンへ駆けてくる。

 コーヒーメーカーを前に、手際よく準備する桜蔵を見て、珪は、安堵して息をついた。何だか、歌いだしそうな雰囲気だ。

 冷蔵庫に作っておいたサンドイッチは、桜蔵の朝食用。それに、自分の分も作り足してサラダとフルーツをつけ、ヨーグルトを器に盛り、ソファー前のローテーブルに並べる。コーヒーが、香ばしい匂いをさせていた。

「俺、シャワー浴びてくる。先に食ってて」

 珪は、洗面室へ消えた。

「うん。じゃあ、先に食べてる」

 言われた通り、素直に従うことにして、桜蔵はカップに自分の分のコーヒーを入れ、一人掛けのソファーに座った。

「いただきまぁす」

 コーヒーをひと口飲んでから、サンドイッチにかぶりつく。美味しくてため息が出た。

 料理ができる。掃除もできる。今は自分がやっているが、洗濯だってできる。それで、仕事ができて、才能は、たぶん世界一で、背も高いし、何気にスタイルもいいし、顔もいい。おまけに、泥棒もできる。

「はぁ~。俺って幸せ~……」

 珪の存在は、自分を向上させる。

 サンドイッチと一緒に、自分の幸運をじっくり噛みしめていると、洗面室のカーテンが開いた。

 Tシャツとジーンズのラフな恰好をした珪が、バスタオルで頭を拭きながら出てくる。真っ直ぐにキッチンへ向かい、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、直接口をつけて飲んだ後、深いため息。

 その様子を、桜蔵は不思議そうに見つめていた。何でこうなることがわかっていながら、自分を置いて出かけたんだろう。

「外、暑かった?」

「そりゃもう……」

 たっぷりと感情を込めて、珪は答えた。スポーツドリンクを冷蔵庫に戻し、桜蔵が出しておいたカップにコーヒーを入れる。

「走ったの?」

 コーヒー片手に、疲れを身体中に纏わせた珪が、ソファーへやってくる。桜蔵は、それを目で追っていた。

「全力疾走」

 もう一度ため息をついて、珪は桜蔵の正面に座った。

「いただきます」

 サンドイッチを一つ取り、かぶりつく。サンドイッチの半分が、彼の口の中へ消えた。

「どこ行ってたか、当てていい?」

 桜蔵も、サンドイッチをもう一つ取り、かぶりついた。

「どうぞ」

 珪が、残りの半分を口へ放り込み、早くも2つ目を手に取った。たっぷり咀嚼した後で飲み込んで、桜蔵は、お言葉に甘えてと、口を開いた。

「珪ちゃん、アキの家に行ってた?」

「……当り……」

 珪は、思わず、食事の手を止めた。

 その正面で、桜蔵が、心底残念そうに眉尻を下げた。

「起こしてくれてよかったのに~。俺も行きたかった!」

「今度な」

 短く素っ気なく答えてサンドイッチを黙々と食べる珪を、桜蔵はジッと見つめた。

「ねぇ」

「ん?」

 珪は、桜蔵を見ようともしない。

「今更だと思うよ?」

 手にしたままのサンドイッチに、桜蔵は、パクリとかぶりついた。少しだけサンドイッチが、桜蔵の口の中へ消えた。

「何?」

 食欲を満たし、満足したのか、珪は、ソファーの背に腕を掛けて寄りかかり、足を組んでゆったりとコーヒーを飲んでいる。

 珪が、桜蔵を置いて哲の家に行ったのには、わけがある。桜蔵は、それに気付いていた。

「だからさ、アキの家。アキは、軍からの依頼でも、面白いって思ったら引き受けてたから、監視も受けてたでしょ?」

「……まあな」

「珪ちゃんは、あれでしょ?自分とアキは、昔からの知り合いだから、自分が、Eyesroid狙ってるかもしれない人たちに知られちゃうのは、仕方ない」

「……うん。それから?」

 珪の表情に、動揺が伺える。どうやら、桜蔵の予想は当っているらしい。

「でも、俺は、アキを調べたところで辿り着く筈のない存在だから、今、まだ監視を続けてるかもしれないアキの家に、俺を連れて行くのは、危険じゃないだろうか」

 珪は、コーヒーを手にしたまま、たっぷりの間を置いた。

「……よくわかったな」

 桜蔵は、残りのサンドイッチを口に入れ、新しいものを手にとった。咀嚼中、ずっと、珪を呆れた様に見つめる。

「珪ちゃん?」

「んー?」

「俺だって、アキの家に出入りしてたんだけど?」

「……いや、そーだけどさっ!」

 身を乗り出してまで反論しようとする珪に、ため息が出た。

「俺が調べるんなら、アキの家に出入りしてた人間は、とりあえず、一通り調べると思うんだけど、そのあたり、どう思います?」

 再度言葉に詰まる珪の返答を待つ間に、桜蔵は、食事を進めた。

「……今更?」

 控えめに尋ねた珪に、桜蔵は、無言で大きく頷いた。

「そーかもなぁ」

 独りごちて、珪はコーヒーを啜った。

「そんで?それだけの思いして、何か収穫あったの?」

 桜蔵は、コーヒーを手にして、ソファーの背に凭れた。

「とりあえず、パソコンは開いた。中は、詳しく見てないから、まだ、わかんないなぁ。でも、アキ、しっかりロックかけてったみたいだから、そう簡単には消されたりとかされてないんじゃない?」

「そっか」

 安堵の息と共に吐き出した桜蔵の、短い言葉の中に溢れる喜び。

 嬉しそうにサンドイッチの残りの一つにかぶりつく桜蔵の姿に、珪の表情も自然と優しくなっていく。

「あ、そーだ」

 サラダを素早く平らげた珪が、思い出したように、ニヤリと笑った。

 サンドイッチを黙々と食べる桜蔵は、不思議そうに、大きな瞳を珪に向けた。

「あのアルバムも、まだ残ってた」

 どのアルバムなのか、すぐに思い当たらず、桜蔵は珪を見つめたまま、眉間に皺を寄せた。

 珪は、まだ、意地悪に笑っている。

「ほら、桜蔵が、俺やアキやサクを撮ってたあれ」

 桜蔵が、ようやく「あー」と声を上げた。懐かしそうな顔の後、桜蔵は、再び、少しだけ眉間に皺を寄せた。

「え?珪ちゃん、PC以外も見てきたの?」

 ヨーグルトを口へと運びながら、珪は首を横に振った。

「入ったらさぁ、つけたての足跡が、埃まみれの床にあって」

「え?!」

 珪の言葉に焦った桜蔵が、心底驚いた顔をして、身を乗り出した。サラダの最後のひと掬いを器へ戻して。

「誰かいたの?!」

 慌てた様子の桜蔵を見て、珪は、もう一度、子どものように楽しげにニヤリと笑った。

「いた、いた。上にあがってみたら」

 桜蔵が、小さく息を飲んだ。緊張した面持ちで、続く言葉を待っている。

「ベッドの上に、アキのミニチュアが」

 アキの家に入り込んだ先客の正体がわかると、桜蔵の表情が、パッと輝いた。

「何してたの?!話しとかした?!」

「眠ってたから話してないけど、寝顔もアキそっくりだった」

 思い出して、珪の顔に零れる笑み。

 桜蔵が、本当に残念そうに声を上げた。

「見たかったなぁ~、それ!」

 アキの家で見た事を、珪は、楽しげに伝えた。

「で、そのミニアキが、大事そ~に、本2冊腕に抱えてたの」

「あ!あの時の?」

「そう、一冊は、あの時のサクの本」

「持ち歩いてたんだ……」

 嬉しそうに、ゆったりと桜蔵は微笑んだ。

「もう一冊が、あのアルバム」

「ちゃんと残してあったんだぁ~」

 桜蔵の笑みに混じる、懐かしさ。

「ミニアキ、見てくれたのかな、あの写真」

「見たんじゃない?気に入ったんだろ、たぶん」

 珪は、コーヒーのおかわりを入れようと立ち上がった。

「俺も見たかったなぁ」

 背中で聞こえる、桜蔵の悔しげな声。

 小さなキッチンから、香ばしい匂いで室内を満たすコーヒーメーカーへ歩み寄る。カップにコーヒーを注いで、珪は、ピッチャーをもう一方の手に持ったまま、ソファーへ戻った。

「桜蔵、そんな早起きできないって」

 珪の台詞に、桜蔵は、反論の言葉が見つからなかった。

「珪ちゃん、何時に起きたの?」

 悔しげに、珪を見やる。

 珪は、思い出すように眉を寄せて天井を見上げた。

「7時半、くらい?」

 相変わらず早いと思う桜蔵の頭に、ふと、湧き起こる疑問。

「えっと、ミニアキは、珪ちゃんが行った時には寝てたんだよね?」

「うん、寝てた。近づいても起きなかったし、爆睡だったんじゃない?……あれ?俺が来た時、すでに爆睡ってことは……」

 そう、それよりも前に、あの少年は来ていたことになる。

 珪と桜蔵は、互いに顔を見合わせた。

「子どもだったよね?まだ、小さくて……」

 本屋で見た姿を、桜蔵は頭に浮かべる。

「うん。あどけない寝顔で……そーだなぁ、4、5歳くらい?」

「ずいぶん、早起きな……」

「泊り込み?住み着いてる……わけないよな、あの埃まみれの中」

「だよね~?だって、あの家のセキュリティーって、ここと同じでしょ?アキの関係者じゃないきゃ……」

「解除、できないよな?しかも、あんな子どもじゃ」

 仲間内しか知らない筈の、哲の家のセキュリティーを解除し、中に入ってベッドで眠っていた。しかも、早朝に。

「……何してたのかな」

 独りごちて、桜蔵は、コーヒーのピッチャーに手を伸ばした。空のカップに満たされていく、琥珀の液体を見つめながら、友人そっくりの子どもを思い出す。

 テーブルに置いたピッチャーが、カタンと音を立てた。

「少なくとも、調べモノじゃなさそうだな。寝てたし」

「……もし、さ」

 仮定の話をする桜蔵の口調に、強い決意が篭る。瞳に宿る、強い意志。ゆるりと落とされた視線は、テーブルではなく、その先を見つめていた。

「ん?」

 珪が問い返すと、桜蔵は、顔を上げ、力強い視線を真っ直ぐに彼へ向けた。

「もし、ミニアキが、ホントにEyesroidやアキのこと追ってるなら、やっぱ、俺、負けたくないな……」

 珪が、口の端を上げて笑う。

「負けるわけないだろ?俺が一緒なのに」

 桜蔵は珪を、誇らしげに見つめた。そして、柔らかに、端正な顔を笑顔に崩した。

「大人げないよな、俺たち。あんな子どもに、対抗する気満々で」

「仕方ないさ。キレイ事で追ってるものじゃないし。見てみたいし、欲しいし、アキにも会いたい。本能が求めてるんだから」

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