D
明るい木の扉が、白に近い灰色をした外壁によく映えた。三角の屋根は濃い灰色をしている。
4、5歳ほどの幼い少年が一人、その建物を見上げていた。
早朝5時。さすがにまだ涼しく、もともと人通りの少ないこの建物前の路地に、人はいない。本を1冊抱えた彼だけ。
人が出入りしなくなってどれくらい建つのか、薄汚れた建物は、それでもまだ、セキュリティシステムで守られているらしい。おそらくは、持ち主が造ったオリジナルだ。
少年の頭に浮ぶ哲博士の写真と、彼に関するあらゆるデータ。哲博士は、ここで仕事をし、ここで生活をしていたはず。
玄関と思われる、明るい木の扉へ歩み寄る。持ち手の長い、取っ手がついた引き戸には、しっかり鍵が掛かっていた。
開けて中に入るには――――。
「あ……」
縦に長い取っ手の中央に、僅かに見える数字。
少年は、辺りを見回し、踏み台になるものを探した。何かの店の裏口らしき場所に、お酒を入れるケースが一つ転がっている。引きずるように玄関扉の前まで持ってくると、ひっくり返して踏み台にする。
ケースの上に乗ると、ちょうど、目の高さに取っ手がきた。僅かに見える数字が浮ぶ場所に触れる。
すると、10個の数字がランダムに動いた後で、整列した。順にではなく、バラバラに。
「哲博士……哲博士……」
考えて、視線を泳がせる。
―― 思い出らしいよ。アキって、変なこと覚えててさ。店の名前なんて、ホントに良かったとこしか頭に残ってないくせに、二人で最初に行った店で、幾ら払ったかは覚えてんの ――
いつも、サクラ博士は、自分を膝に抱いて哲博士の話をしてくれた。ポツリポツリと、少しずつ。
哲博士は、普通は覚えてないだろうという事を、いつまでも覚えていたりする。そう、例えば――――。
―― アキって、自分の誕生日や血液型覚えるみたいに、当たり前のように、自分の資格登録№とか免許書№とか覚えてるんだよ ――
セキュリティーに入れるなら、他人には絶対にわからない、自分だけがわかる数字。
間違えるとどうなるのかわからない、オリジナルのセキュリティー。少年は、高く脈打つ心臓を落ち着かせるように、大きく息を吐いた。じっと、真剣な眼差しで、取っ手に映る番号を見つめ、間違えないように慎重に、10桁の番号を押していく。
鍵に開く音が、耳に届いた。
踏み台からゆっくりと降りて、場所をずらして、また上る。取っ手を引っ張るようにして、体一つ分を開けて、少年は、建物の中へ飛び降りた。
人が住まなくなってどれだけ経ったのか、中は少し、埃っぽかった。
置いてあるものを観察しながら、奥へと進む。
1階は、ひと部屋。仕切りはない。ソファーとローテーブルの応接セットが出迎えていた。入って左の壁に沿うように、中央あたりに小さなキッチンがあり、少し離れてテーブルやイスのダイニングセットが置かれている。右の少し奥に、複雑な機材。少し手前に、パソコンの類が整然と並んでいた。
見上げると、高い天井に二つ、プロペラ式の扇風機がつけられている。
ゆっくりと視線を下ろしていくと目に留まったのは、入って右の壁に沿ってつけられた階段と、その先にあるロフト。
突然、時を止めたかのような、広くも狭くもない部屋。機材とパソコンには、埃避けのビニールカバーが掛けられていた。
少年は、金属製の階段を、カンカンとゆっくりとした音を立てて上った。
上には、ベッドが一つと、本棚、服を入れるためのラックがある。奥の壁に、大きな窓が一つ。青いカーテンが、外の光を遮っていた。窓に歩み寄り、カーテンを一枚開けて、光を入れる。振り返ると、窓と平行に置かれたベッドの下に、引き出しが二つあるのが見えた。金属製の弧を描く取っ手を、両手で引っ張る。小さなキャスターが、クルクルと音を立てた。中に入っていたのは、見覚えのある、胸から上の写真をつけたプラスチックのネームプレートと、一冊のアルバム。
青い表紙のアルバムを取り出して、少年は、引き出しを引っ込めた。
白い布を被ったベッドに座り、ページをめくる。
「……サクラ博士……」
茶の短い髪、涼やかな雰囲気のあの人が、笑っている。鮮やかな写真の中で、背の高い男の人と一緒に。見たことのない、明るい顔。
次のページをめくる。
楽しそうに笑うサクラ博士の姿。その横にいる、自分によく似た哲博士の姿。やはり、彼も、楽しそうに笑っていた。
少年の顔一杯に、寂しさが滲む。
「……サクラ博士……」
アルバムの写真に写っているのは、主に3人。サクラ博士、哲博士、長めのショートの髪をした、背の高い男。
少年は、アルバムを手にしたまま、ベッドにごろりと横になった。
「博士……」
体の中心をつかまれたような苦しさに、少年は、小さく丸くなった。
頭を撫でてくれた、サクラ博士の大きな手。温かな掌。それが、目を閉じれば甦る気がして、少年は、ゆっくりと瞼を下ろした。
あの人の思い出で体を包んで、静かに、時が過ぎていくのを待った。体中を流れる苦しさが、消えていくのを。
やがて、主を失った建物に、小さな小さな寝息が一つ、ゆっくりと漂った。
* * * * *
玄関のセキュリティー解除音が、控えめに響いた。
変わらず寝息が漂う建物へ入ってきたのは、スラリとした細身で背の高い男、珪。
中をゆっくりと見回して、漂う埃に咳を一つ。
珪は、床に視線を落とした。久しぶりに入ったこの家の、埃まみれの床に、小さな小さな足跡がある。真新しい足跡を追って奥へと進んでいく。音を立てないよう、静かに、息を顰めて慎重に。
階段の上へと消えていく足跡を追って、ゆっくりと上る。
上がりきった先のプライベート空間で、珪は、足を止めた。驚きに、僅かに目を見開いて。
金に近い薄茶の髪をした少年が、小さな体を小さく丸めてベッドで眠っている。
「……ミニアキがいる……」
紛れもなく、本屋で見たあの少年。桜蔵が、大きな目を輝かせて、似てる、と力説していたあの少年。本を二冊抱えて、窓へ体を向けている。
足音を立てないように、そっと近づいてみた。
「うわぁ……(寝顔まで似てる……)」
額からこめかみの生え際に、汗が滲んでいた。
珪は、枕もとの壁につけられたスイッチを、パチンと上へ跳ね上げた。
高い天井で、プロペラ式の扇風機が二つ、ユルユルと回り始めた。
薄い生地の白いカーテンは閉めたまま、引き上げる形の窓を開けて、中へ風を通してやる。
眠り続ける少年を振り返ると、体は窓へ向けたまま、足と手は伸ばしていた。
金に近い色素の薄い髪が、風にゆれる。
珪の瞳は、少年の持つ本へ向いていた。あの時、桜蔵の手から奪うように持ち去ったサクラの本がある。真剣な眼差しで見つめて、珪は短く深いため息をついた。
この少年は、サクラと何の関係があるのか。哲と何か関係があるのか。他人の空似にしては、あまりにも似すぎている。
「……隠し子?」
言った後で、珪は、乾いた笑いを漏らした。
「誰から隠すんだよ」
可能性として、ゼロでないにしても、哲の性格を考えると限りなくゼロに近い。
珪は、足音をたてないように注意しながら、階段を降りていった。
哲にも、彼女くらいいたかもしれない。
「(ちゃんとしてるからなぁ、そういうところ……)」
彼女がいたのなら、そういうこともあっただろう。しかし、仮に子どもができたなら、まず、自分たちに、少なくともサクラには相談していそうだ。
「(一人でこっそり育てさせてるとか……)ないな」
頭に浮んだ可能性をきっぱりと否定して、珪は、ビニールカバーが掛けられたパソコンのラックに歩み寄っていった。
他と同様、埃を被ったナイロンカバーは、その向こうのパソコンを白く煙らせている。
珪は、ラックと壁との左右の隙間を覗いて、プラグを探した。
電気も水道も、生活するのに必要なものは、まだ、ここへも通っている。哲がいつ帰ってもいいように、金だけは支払っているから。
「たまに来て、掃除もしてやりたいけどなぁ……」
見つけたプラグを差し込んで、珪は、カバーを外した。
「スイッチを入れる前に、一応……」
カバーが掛けられていたおかげで、キレイなままのパソコン周りを、丁寧にチェックする。探し物は、発信機やら盗聴器やらの類。
「アキは、軍から目ぇつけられてたからなぁー……」
屈めていた体を起こして、じっとパソコンを見つめる。
「ガサ入れされてたら、何も残ってないだろうけど」
珪は、再度、腰を屈めてパソコンの外に繋がる配線を外し、スイッチを入れた。暗かった画面に明かりが灯る。
「何か残せよ?」
祈る想いで、珪はイスに座り、パソコンの操作を始めた。
すると、起動途中、一度暗くなった画面に青色の骸骨が現れた。
「お?」
不気味に笑いながらクルクル回り始めた骸骨を、珪は、楽しげに目を細めて見つめた。そして、素早く文字を打ち込む。パソコンは、再び、動き始めた。
「やっぱり、か。あのまま置いておくと、骸骨が5回廻ったあと電源が落ちるんだよな。俺の教えたこと総動員だな、あのヤロー」
ここにはいない家の主に毒づいて、珪はファイルを探した。Eyesroidと、彼が残したかもしれない「何か」を収めたファイルを。別の誰かに開かれるかもしれないものに、「何か」を残すとは考えにくいが、自分や桜蔵にだけわかる方法で、何かを残しているかもしれない。
「もう4年経つのに、今更、何してんだ、俺は……」
ボヤいて、チラリと、階段の先を見やる。
「ミニアキめ……」
息をついて、パソコンに意識を集中させる。
室内に、キーボードを打つ音だけが響いていた。
2階の窓が開いていて、天井につけられたプロペラ式の扇風機が回って、淀みきっていた室内の空気が、入れ代わっていく。
埃ぽかった室内が、幾分マシになった頃、珪は、視線を感じて、顔はパソコンに向けたまま、目だけをそっと、2階へと向けてみた。
金属の柵で仕切られた、2階と吹き抜けとの境で、少年が床に這うようにして、こちらの様子を伺っていた。何やら興味深そうに、じっと。
声を掛けてみようか。
しかし、彼がサクラや哲を探していて軍と何らかの関わりがあるなら、それは得策ではない。
目を合わせたら、どんな反応をするだろうか。
しかし、怯えられてベッドに潜り込まれたりしたら、軽く傷つく。
変わらず注がれる視線を、どうしたものか思案して息をついた。
パソコンに視線を戻すと、ふと、ディスプレイの右下に表示されている時刻が目に付いた。
「げっ」
10時を悠に過ぎていた。
いつも起こさないと起きない桜蔵には、何も言わずに出てきている。彼が、放っておいても目を覚ますだろう11時よりも前には帰るつもりで。
そして、何食わぬ顔で、彼を起こそうと考えていたのに。
「やっべ……」
慌ててパソコンを終了させる。二階からこちらを伺う少年にかまうことなく、珪は、パソコンのプラグを外し、配線を元に戻してカバーを掛けると、玄関へ急いだ。扉脇につけられた金属製のスイッチの一つを落として、プロペラ式の扇風機を止める。
「窓は閉めとけよ、ミニアキ」
背を向けたまま、2階から変わらない興味津々の視線を向ける少年に言葉を投げて、珪は、哲の暮していた家を後にした。
引き戸がゆっくりと閉まっていく。
カチャッと鍵の掛かる音が、控えめに室内に響いた。
少年は、伏せていた床から体を起こし、服についた埃をパタパタと払った。
ジッと玄関扉を見つめた後で、風の吹き込む後ろの窓を振り返る。
「……ミニアキ?」
少年は、首を傾げた。
さっきまで、下でパソコンを弄っていたのは、間違いなく写真の中の男。
「哲博士とサクラ博士を知っているヒトだ」
ベッドに置いたままの、2冊の本を手に取る。サクラ博士の残した本と、ここで見つけたアルバム。
ベッドに座り、心地よい風を正面から受けて、少年は、もう一度、アルバムを開いた。
サクラ博士、哲博士、それから、自分を「ミニアキ」と呼んだあの男。少なくとも、この家には、3人が出入りしていたらしい。3人、もしくは、写真を撮った人物が別にいたとして、4人。
少年は、アルバムを元あったベッド下の引き出しに戻してサクラの本を抱え、階段を降りた。1階をもう一度、見てまわる。
奥にひとつ、機材の置かれたスペースに埋もれるようにして、扉があった。開けてみると、そこは、センスの良いシンプルなデザインのトイレ空間と、その先に、半透明のガラス扉で仕切られたお風呂があった。
扉を閉めて少年は、埃を被った室内を眺める。
何気なく置かれたラックや椅子、ソファーなど、どれをとっても、住人の、哲博士のこだわりがよくわかった。
―― アキの家に連れてってあげたいなぁ、きっと気に入るよ? ――
あたたかで、穏やかな声を思い出す。
確かに、この空間は好きらしい――――あの人が言ったように。
「気に入ったよ?サクラ博士」
静かな笑みを浮かべて、少年は、どこにもいないあの人へ、ぼんやりと声を投げた。
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