第7話 決意の朝
コルトルだけが帰還して、1週間。ようやく傷が癒え、すっかり元気になったコルトルは、所有者であるジェイコブを背に乗せて、アトラスの街を歩いていた。基本的に大人しい性格だが、トカゲのような大きな尻尾が、横に大きく揺れている。ジェイコブといることが、よほど嬉しいようだ。ジェイコブもつらえて優しく笑みを浮かべた後、今までの出来事をふと振り返った。
あの日の夜、ファティマとジェイコブは、今後のことを話し合い、1つの結論を出した。そして、不安と緊張が高まる中、ジェイコブは重い足を無理やり動かすように、宮殿にあるダイナバード保護機関に出向いた。コルトルの手当てに対して感謝の言葉を述べるために。違約金を支払うために。所有権を移すことを伝えるために。保護機関もジェイコブたちが出した結論を、快く受諾したのだが。
「君の言い分は分かった、ジェイコブ。ただ、もう1つの条件は、ちょっと……」
さすがの保護機関も、ジェイコブが出したある条件に対して、渋い表情を浮かべた。ジェイコブが出した条件――それは、所有者である自分に、万が一命に関わることがあれば、全ての判断を連帯保証人であるファティマに委ねることだ。
きっかけとなったのは、父の失踪事件だ。手紙で帰ると記されていたのにも関わらず、帰ってくる気配がなかったのだ。旅人という職業は、世界各国を回る一方で、死と隣り合わせである。所有者がいなくなっても、あらかじめ決めておけば、今回のように慌てることはないと予測していた。
苦渋の選択を強いられる保護機関、懇願する若き旅人。長い論争の末、保護機関が出した結果は、保留。条件を飲み込まないのも、同然だった。不完全燃焼ではあったが、結果は概ね満足である。所有権が移ったことで、またコルトルと過ごすことができる――ジェイコブはそれだけでも嬉しかった。
コルトルの世話を終え、玄関に向かう。すると、次第にジェイコブの表情が、一気に真っ青になった。よくよく見ると、重心であるファティマが玄関先で、しゃがんで義父の荷物を整理するために、手をつけかけているではないか。
「あら、お帰りなさい」
「ただいま……じゃないよ! ファティマ、しゃがんで大丈夫なのかい……!?」
笑顔で迎える妻ファティマ、裏腹に困惑と焦燥の入り混じった表情を浮かべるジェイコブ。新しい命を宿した妻の体を、心配していた。
「私は大丈夫です。体の様態も悪くないし、幸い子ども達もぐっすり眠っているので、お義父様のお荷物を片付けようとしておりました。だけど……」
ファティマの言うとおり、確かに顔色は良い。つわりで立ち眩みがひどい時期もあったので、そのことを思うと、夫であるジェイコブの憂いは晴れた。だが、ファティマは躊躇った様子で、少し伏目がちに玄関先に置かれていた荷物を見る。視線を移せば、相も変わらず、父のカバンの中は荷物と紙でゴチャゴチャしているではないか。
(父さん……)
旅立つ時にあれだけ整理したのに。いらないものはちゃんと捨てるように言ったのに。息子の整理整頓に対する気遣いは報われることなく、片付けようとしたファティマにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「とにかく、ここでやるのはキミにとって負担がありすぎる。食事部屋に机と椅子があるから、そこで作業しよう」
ジェイコブはファティマの体を支えると、食事部屋にある椅子に座らせる。玄関先にあるカバンを手に持つと、机の上にドサッと置いた。
カバンの中のもの全部取り出すことも考えたが、片付けの苦手な父親のことを、誰よりも息子である自分がよく分かっている。一度、机の上に全てを取り出して、荷物の山に埋もれた時の恐怖は、嫌でも鮮やかに思い出してしまう。それだけは絶対に避けたいジェイコブは、一番安全な方法で荷物を仕分けることにした。
「ファティマ、悪いけどボクと一緒にカバンから荷物を取り出して、使えそうなものとそうでないものを分けてくれないかな?」
「分かりましたわ」
ファティマの承諾を得て、早速荷物の仕分けに取り掛かる。黙々と使えるものとそうでないものを分けていたが、時々分からない道具を見つけては、判断に困ることがあった。
「おとうしゃーん、おてつだいしゅるー?」
夕方になり、お昼寝から目覚めた子どもたちが、舌足らずながらも声をかけてくれる。ファティマと一緒に乱雑に置いた紙を整えたり、いらないがらくたを分けてくれたが、それでも荷物の整理は終わらない。子どもたちを寝かしつけ、辺りが寝静まった後も、黙々と仕分け作業を続けていた。そんな男に忍び寄る影は、疲労と眠気。単調作業ゆえに、無意識のうちに退屈とさえ感じる。
作業していた手の動きが徐々に鈍くなり。最後のとどめに、視界が、ぐにゃり、と曲がった。とうとう我慢ができなかったのか、瞼をゆっくりと閉じる。眠っていると気が付くこともなく、意識は一瞬にして暗闇の中に落ちた。
◇ ◇ ◇
深い、深い、記憶の奥底。気が付けば、ジェイコブは、海に漂うクラゲのように、真っ黒の空間を漂っていた。
(ここ、は……?)
意識が朦朧とする中、指を動かそうとしてみたが、うまく力が入らない。口を動かすことはできても、声を発することはできない。ただ、横になって、宙に浮かんでいた。しばらく身をその空間に任せると、下から今までの記憶や思い出が、泡のように浮かんでは、はじけて消える。父グイドと過ごした幼少期、踊り子ファティマとの出会い――悔し涙も、小さな至福も、つい最近のように懐かしく感じた。
そんな懐かしさをかき消したのは、かつて幼い時に見た夢と、とうの昔に置き去りにした記憶。物心つく前に、父の手に引かれて色んな所を歩いたのは、朧気ながら覚えていた。だけど、それ以前の記憶はない。まるで、そこだけストンと抜け落ちたかのように、空白のまま。
覚えてもいないのに、荒れ狂う海原を進む舟の記憶も、赤ん坊の頃に夢で見た白髪の女性に抱かれた記憶も、泡のように浮かび上がる。やがてその泡は波となり、自分が生まれる以前の出来事も全て、脳裏に怒涛に流れ込んでくる――。
(――っ!)
記憶という波に飲まれ、押し流される感覚が体全体に駆け巡る。逆らう術もなく、ただジェイコブは流されるままだった。その時、不意に現れたのは、1羽の鳥。青とも緑ともいえる綺麗な色の羽を広げ、その波に逆らって遥か遠くを、優雅に羽ばたいていた。
待って、と口に動かしても、声にすることはできない。体を動かそうとしても、力が上手く入らない。できる限り全身に力を入れると、1羽の鳥に手を伸ばそうとする。どんなに厳しい冬が来ても、春が訪れる。辛いことも絶えず続けていれば、きっと奇跡が起きると、信じていた。
「……待ってくれ!」
抗いながらも、縮まる距離。ようやくその鳥の羽に触れた瞬間、青と緑が混じった綺麗な色の羽が、ふわりと雪のように舞い上がった。驚きのあまり、声が出ないジェイコブ。まるで、その場だけが、時間の流れが止まったかのように錯覚してしまう。羽に触れたはずの手は、自分と同じ人間の手。目線を上に上げるジェイコブ、その視線の先は――。
「ボク……?」
自分と同じ顔を持つもう1人の自分が、ここにいるではないか。虚ろな目で、こちらを見ていた。
「ボクは、キミだよ……ジェイコブ・アリギエーリ」
もう1人の自分が、羽織っていた鳥の羽をモチーフにしたポンチョをその手でなびかせる。状況を整理する暇も与えられず、もう1人の自分はいつの間にか、あの綺麗な羽を持つ鳥に変貌すると、その羽で風を起こした。
過ぎ去りし過去。今を生き続ける現在。そして、まだ見ぬ未来。自分の生きている時間と比べて、量が膨大で、しかし漠然としている。あまりにも非現実的な出来事を目の当たりにして、頭を抱えて蹲る。思わず大声を上げたその瞬間、頭に衝撃が走る。深く沈んでいた自分の意識が、一瞬で現実に引き戻された。
「……こ、こは……?」
ジェイコブは片手で髪をくしゃっとしながら、慌てて辺りを見渡す。見慣れた食事部屋であることは間違いない。だが、彼の視界に入ったのは、父のカバンと大量の荷物ではなく、泥で固めた土の天井だった。
自分は机に伏せて寝ていたはずなのに、いつの間にか、椅子の背もたれにもたれかかったようだ。体重をかけていたせいで、椅子ごと後ろに倒れてことに納得がいく。床にぶつけた頭から、侵食するようにズキズキ来る痛みが、何よりの証拠だった。
「ジェイコブさん、大丈夫ですか……?」
大声を聞いたファティマは、身籠っているのにもかかわらず、心配した様子で駆け寄る。
「大丈夫、心配かけてごめんね、ファティマ」
心配する妻に、ジェイコブは自力で体を起こした。あの夢は、何だったんだろうか。ジェイコブはぶつけた箇所を撫でながら、ぼんやりとした思考で考える。だけど、いくら考えても、真相に辿り着くことはできなかった。その時、左手に何か厚みのものに触れたような気がした。視線を落とすと、『ハルシオンクロニクル』と記載された、かつて触れることを禁じられていたあの古びた分厚い本だった。
「この本は……」
ジェイコブは血相を変えて、分厚い本のページをパラパラとめくる。だけど、ほとんどのページはまっさらな状態で、読めた箇所は以前読んだ『運命の女神の伝承』のみ。思わずジェイコブは項垂れる。
「ジェイコブさん、何か挟まってますよ……!」
一緒に本の中身を見ていたファティマの指の先は、本に挟まれた紙と、青と緑が織り交ぜた綺麗な羽根1つ。丁寧に三つ折された紙を広げ、一緒にその内容を読んだ。
ジェイコブへ
この手紙を読んでいるということは、コルトルがおそらく無事に到着した頃なのだろう。父グイドの遺書だと思ってくれてもいい、落ち着いて読んでほしい。
まず君が手にしている『ハルシオンクロニクル』――この本は恐ろしい。読み手によって読める箇所は違うらしいが、ここには過去、未来、現在の全てが記されているらしい。
どんなに燃やしても、破いても、この本はまるで生きているかのように、元通りになる。だが、その『ハルシオンクロニクル』が他の人の手に渡り、全てを読めるとしたら。この本を利用して、悪事を働きかねない。
ジェイコブ、お願いがある。その本を、決して誰かに手渡さないでくれ。できることなら、幸せな生活を送ってくれ。
最期まで父親として不甲斐ないところもあったけど、父と呼んでくれてありがとう。本来なら、真実を伝えるべきだったのだろう。だけど、君という宝物を守るためなら、僕はそれさえも墓場まで持っていこう。
最後に、アリトルコ国には絶対に関わるな。好奇心強い君のことだろうから、探そうとするかもしれないけど、探さないでくれ。万が一、その国の土に足を踏み入れたのなら、できることならその場から逃げてくれ。アリトルコ国は、あの国は――
その手紙を読んだ時、ジェイコブの頭の中で疑問が浮かぶ。これは一体、いつ、どこで書いたものだろう、と。グイドは手紙や何かを書き留める時、いつ、どこで書いたかを必ず書く。それほどマメであるのにも関わらず、この手紙を書いた日付は一切記載されていなかった。
ロイグ国で使用されている藁半紙とは違う白い紙だが、比較的新しい。どこで書いたものかわからないが、筆跡はグイド本人のものであることは確かだった。では、グイドはどこに、消えたのだろうか。確かな証拠はないため、推測の域にしかすぎない。
この手紙に書かれたことを信じると、父親がアリトルコ国と何か関与しているとなる。そうすれば、父親が忽然と姿を消す理由もつき、コルトルが負傷していた理由も腑に落ちるのだ。情報が少なすぎる。そう判断したジェイコブは、近辺でグイドに関する情報を収集しようと決めた。
同時に旅人を駆り立てたのは、好奇心。アリトルコ国とは、一体どういう国なのか。アリトルコ国が大国として栄華を極めていたが、神々の悪戯により分裂したという記事は、よく読んでいた。その点に関しては、ジェイコブも記憶に残っていた。
だが、それ以外、全てが謎に包まれていた。アリトルコ国がどこにあるのか、どういった種族が住んでいるのか、自然の形態、政治、歴史――全てにおいて、自分の目で確かめたことも、聞いたこともなかった。だからこそ、知りたいと強く願った。父が失踪した理由を。隠された真実を。アリトルコ国という存在を。例えそれが父の忠告に反すると分かっていても、自分の目で、自分の耳で、確かめたかった。
「ファティマ……決めたよ」
ジェイコブは本をパタリと閉じると、スッと立ち上がり、朝焼けの空を窓から見つめる。
「それじゃあ、あなた……」
「あぁ、父さんは僕を心配して忠告しているけど……それでも、ボクは行く。父さんが隠した真実を、アリトルコ国を探すために――!」
その瞳に、憂いも、迷いもない。その時見た朝焼けはどこか不気味なほど赤く染まっていて、だけど旅人の決意を祝福するかのように神々しく光輝いていた。
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