第5話 久遠の別れ

 アトラス市場から聞こえる商人たちの声が、目覚めの合図となる。ジェイコブは寝室から出ると、台所からトン、トンと切る音が聞こえた。寝惚けながら台所を覗くと、グイドが朝ご飯を作っていた。


「……あぁ、ジェイコブ。起きたんだ、おはよう」


 息子の視線に気が付き、グイドは優しく笑う。どうやら、栄養豊富な野菜を切っているようだ。しかし、余所見をしていたせいか、指には切り傷を作っていた。


「父さん!」


 ジェイコブは慌ててナイフを取り上げる。ただ食材を切っているだけなのに、なぜ。不思議に思いながら、父の傷の手当てをした。もぅ、と頬を膨らませて、文句を垂れる。だけど、今だけは、父の顔をまっすぐに見れなかった。グイドが朝から台所に立つこと――それは、旅に出るという暗黙の合図だ。


(あぁ、父さんは王様の命令で、また世界中を旅するのか)


 手当てを終え、父の代わりにナイフを持つ。寂しさを紛らわすように、残った食材をみじん切りした。かまどに火がくべられ、鍋の中でポコポコと気泡が顔を出す。切った野菜を鍋に入れ、具材が柔らかくなれば、完成だ。朝ご飯の支度を終えた。


「父さん、今度はどこを旅するの?」


 野菜をふんだんに使ったスープを、スプーンで一掬いすると、ジェイコブは父に質問を投げかける。


「うーん……今度は、海の向こうにある大陸に行く予定だよ」


 グイドはそう答えると、市場で仕入れた薄焼きの平らなパンを頬張った。スプーンを持つジェイコブの手が、一瞬止まる。スープの水面に映るその表情は、今にも泣きそうだ。


「そっか……当分、戻ってこないんだね」

「……あぁ。今日のうちにサマルカンドに行かないと、明日の船には乗れないからね」


 グイドは朝食を食べ終わると、飼育小屋へ向かう。体を休めていたコルトルは、飼い主の顔を見ると、嬉しそうに大きな顔を擦り寄せた。一方のジェイコブは、食器を片づけを終えると、玄関に置かれているカバンの中身を確認する。どうやら整頓されておらず、無造作に詰め込まれていたのようだ。


(せめて、食材と必要なものくらい、きちんと分けてよ)


 ジェイコブは呆れながらも、カバンの中を整頓する。何か困った時に、いつでも必要なものが取り出せるように。息子が旅立つ父のためにできる、最後の気遣いだった。旅の支度を終え、グイドはコルトルを手綱で引っぱると、ジェイコブと市場を抜ける。砂漠へとつながる門に辿り着くと、グイドはアトラスに留まる息子に声をかけた。


「それじゃあ、ジェイコブ……行ってくる」

「父さん、気を付けてね」


 空が朝焼けを包む中、親子はお互いの拳をこつんと合わせる。いつものように、父の背中を見送る――はずだった。その瞬間、ジェイコブは思わず、え、と声を小さく漏らす。不意に、父がジェイコブを抱き締めたのだ。


「……父さん?」

「すまない、ジェイコブ。不甲斐ない父親で――」


 グイドは唇を強く噛みしめ、強く、強く抱き締める。何かから守るかのように、何かを決意したかのように。名残惜しいけど、何かと向き合うような表情を浮かべると、コルトルの背に跨り、アトラスの地を後にした。


 口をポカンと開けたまま、ジェイコブは父の背中を見送る。なぜ、父が急に自分を抱き締めたのか。なぜ、謝ったのか。分からなかった。旅立つ父に、行ってらっしゃいと言いたいのに、その言葉が出てこない。手を振ることさえ、忘れていた。


(どうか……どうか父さんの旅が、安全なものでありますように)


 ジェイコブはそっと目を閉じ、右手を胸に持っていくと、父の旅が安全になることを祈る。しかし、少年の不安は、雲のように募る。それが現実になることを、今はまだ知る由もなかった。

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