第2話 在りし日の記憶

 それは、少年ジェイコブにとって、あり得ない夢だった。そう感じるのは、故郷であるロイグ国で育ち、砂漠で過ごす厳しさとその恩恵しか知らなかったから――ただ、それだけだった。


 それなのに、今、自分は、荒れ狂う大海原を横切ろうとする舟にいる。意識はあるのに、体を思うように動かせない。何か叫んでも、言葉が出ない。ただ、できることは、赤ん坊のように、泣いて何かを訴えるだけだった。


「……大丈夫かい!?」


 若い男の張り詰めた声が、ジェイコブの耳に入る。そこには、自分とよく似た容姿の男が、舟の舵を取っていた。


「……父さん?」


 色素の薄い茶色の髪と、海のように穏やかな青い目、そして右目の目元の黒子。自分の記憶が正しければ、あの姿は父親だ。けれども、荒れ狂う波と戦う彼に、その声は届かなかった。


「……えぇ、ケーユクス。大丈夫ですわ、でも――」


 父の呼びかけに女が応えると、毛布にくるまれた自分を、我が子のようにしっかり抱き締める。真珠のように艶のある、青みがかった銀髪は強風にあおられたが、カワセミの羽根と同じ色をした目は、優しさに満ちあふれていた。


 どうやら、自分はこの夢の中で、赤ん坊の役割を担っている。全く覚えのない記憶はずなのに、抱かれた温もりは、どこか懐かしい。しかし、父の名前はグイドのはず。女がケーユクスと呼んだのが、腑に落ちなかった。


 一組の男女は、雨で冷え切った白い顔のまま、辺りを見渡す。今にも舟を飲みこもうとするのは、大波の白い牙。舟のどこかにしがみつき、立つのがやっとだった。


「海神様が、怒っている……」


 寒さと恐怖で震える女の唇が、微かに動く。しかし、その声は波の音でかき消された。女が普段から海の様子を見ていたのか、自身が持つ何かしらの能力によるものなのか、定かではない。


 全てを飲み込む荒波、全てを吹き飛ばす風、今にも雷鳴が響きそうな曇天――ありとあらゆるものから推測し、女は海神様の怒りととらえた。大波に揺られ、今にも転覆しそうなっている舟の上で、女は我が子を守るように力強く、けれども慈愛に満ちた優しさで抱き締める。少し目を伏せた後、舟に揺られながらも、何とか舵を取る男に近寄った。


「ケーユクス、この子を――ハルシオンをお願い」


 ハルシオンと呼んだ赤ん坊の柔らかな額にそっと口づけると、女は自分の子をケーユクスの背に紐で括りつける。彼の邪魔にならないよう、手早く括り付けたのは、彼女なりの配慮かもしれない。しかし、彼女がこれから起こす行動に、男の顔から血の気が引いた。赤ん坊として、その光景を見届けるジェイコブでさえ、鼓動が激しくなる。


「アルキュオネー、一体……何をする気だ!?」


 アルキュオネーと呼ばれた女は、舟に振り落とされないように、ゆっくりと、確実に舟の先頭に立つ。


「もうお分かりでしょう? 私たちは、海神様のお怒りに触れてしまったのです」


 慈愛に満ちたその笑顔は、どこかはかなく、胸を締め付ける錯覚に陥る。女は両手を上げ、荒れ狂う大海原に向かって、張り詰めた声で叫んだ。


「海神様――私の身をもって、あなた様の怒りを静めて差し上げましょう!」


 突然、天からの雷が、怒り狂ったかのように海面を叩く。男はとっさに目をつむったが、ゆっくりその目を開いた。


「アルキュオネー……?」


 男の唇が微かに震える。舵を取る手を忘れ、ふらついた足取りで、なんとか舟の先頭に辿り着く。しかし、彼が愛した女性の姿はすでになく、悲しい色をした波が、無慈悲に襲うばかりだった。


「アルキュオネー……。アルキュオネェェェェェェェェエエエエエエエエエエエ!」


 男の悲痛な叫びは、大波によって掻き消される。荒れ狂う波は舟をあちこちに揺らしながら、地平線の彼方へと遠ざけると、ジェイコブの意識がそこで、プツンと切れた。


 これが、少年ジェイコブが見た不思議で、どこか懐かしい夢。この夢が、彼が実際に赤ん坊の頃に体験していると、今の時点で気付くことはない。自身の出生も、本当の名前も、全てを知るのは、後の祭りになってからだった。

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