第7話 ダンシングブレイド7

 ヒートには、リブラに拾われる以前の過去の記憶が無い。

 正確には境界大陸ホライゾン・ゴールド現地住民ネイティヴ、そのどこかの森林部族だったらしい生活をしていた記憶はあるのだが、うっすらとしてうまく思い出せない。そして物心ついた時には商品として檻に入れられていた。

 ただ、よく殴られていた記憶だけはある。相手は恐らく奴隷商の男。なぜ殴られたかは覚えてはいない。きっと下らない、どうでもいいことだったのだろう。言うことも聞かず、反抗的なヒートを殴る理由などいくらでもある。もちろんまだ幼いヒートには、それに抗う方法はない。

 リブラと出会ったのは、売り物として檻の中にいた時だった。


 檻の隅で、膝を抱えたまま動かないヒートを見つめ、リブラはしばらく動かなかった。

 やがて意を決したように檻の中へ腕を差し入れる。延ばされた細い手が、ヒートに触れようと伸びる。

 怯えと不安に駆られ、ヒートが身を引こうとした時、彼女は微笑みながら声をかけた。


「もっと広い所へ行きたくない? 私もね、狭い所ってキライなの。あなたと同じよ」


 リブラに買われた日、ヒートが彼女にした最初の質問は、「なぜ自分を買ったのか?」だった。

 彼女はやはり軽やかに微笑みながら答える。


「パートナーが欲しかったから。昔の私にあなたが少し似ていたから、ピッタリだと思ったの。――似たもの同士の方が、上手くいきそうじゃない?」


 それ以後、リブラが死ぬまでヒートと共に冒険者とその戦闘奴隷として過ごした八年間、彼女が自らの過去を語ることはなかった。

 聞こうと思ったことはある。だが聞いてしまえば満ち足りた今が壊れてしまうような気もする。なぜかそう思った。彼女はけして過去を必死に隠そうともしていないのに、ただ語ろうとしない。それだけなのに。

 

 ヒートはあの時に聞くべきだったのかと悔いる。過去など知らなくても、今この瞬間にリブラがいればそれで良かった、その思いが愚かだった。

 幸福だった。幸福に溺れた結果が、この後悔だ。

 己の愚かさが本当に救いがたい。


 それでも、ヒートは彼女を守りたかった。失いたくはなかった。

 それさえも叶わないならば、せめて彼女の死の真相を明かしたい。

 その願いと執念だけが、ヒートを動かす。動かし続ける。


▽ ▽ ▽


「――――リブラ」


 石作りの床の冷たさで目を覚ます。染み込むような冷気に鈍くなった上体を上げ、ヒートは自分を確認する。深呼吸をし、負傷箇所や痛む部分に手を当てた。


――よし、マトモに呼吸できるなら肋骨に異常無し。顔の骨や手足の筋にも際立った異常無し。打ち身はほっといてもその内治る。やっぱ脚はまだ動かないか……


 リブラから戦闘が終わった直後は必ず体のチェックをするように昔から教育されている。更に数時間後にもう一度念入りにチェックを重ねるようにも言われていた。

 肉体の異常を最も早く感知できるのは本人だけであると共に、痛覚は意外と異常チェックの役に立たない。

 戦闘中のアドレナリンの過剰分泌、または薬物の使用などで痛覚は鈍くなりやすく、本来の異常――骨折や重度の負傷に気づきにくくなる。戦闘直後と、戦闘より時間を経過した後に触診などチェックを重ねるのは深刻なケガの早期発見につながりやすい。基本はヒートとリブラの二人で迷宮に挑むことが多かったのでそれだけ自己管理やサバイバルの方法はたたき込まれていた。

 しかし今は、両脚が封じられていることが最大の問題である。


――これじゃ逃げらんねぇ……


 這いずってでも外へ逃げ出すか。マトモに動けないのではすぐに捕まる。そもそもどこへ行けばいいのか。


――竜翼亭のおばちゃんのとことか……あと、ギルドのリャーベィさんとか……ダメだ。あのクモヒゲがオレを追っかけてきたら迷惑にしかならない。


 リブラとよく行った食堂の女主人。ギルドで顔見知りになったギルド受付嬢。共にリブラの友達だったヒートの良く知る人達だったが、巻き込むわけにはいかない。今のヒートはダークの所有物だ。転がりこんだ所有物の引き渡しを拒めばあとは警官を呼ばれるだろう。なによりあの男が何をしでかすかわからない。


――なにか、なにか逃げ出すには……ん!


 軋んだ音を立てて檻が開く。ランプの灯りに照らされた人影を見て、ヒートが強張る。


――ダーク……! じゃない。


 小柄な老婦人だった。片手にランプ。片手にバスケット。肩には毛布を下げている。

 ダークブルーの使用人服。恐らくはここの家政婦か。

 灯りに照らされてシワが目立ち始めた顔が見える。ヒートを見つめる老婦人の表情は、困っているような、少し悲しそうな、そんな複雑な顔をしていた。


 ▽ ▽ ▽


「まあまあ年頃の女の子をこんな所に入れるなんてねぇ。いくら戦闘奴隷ブレイドといってもこんなヒドいことするなんて……」


 ヒートの前に並べられた皿にはトーストされたパンが乗る。その上にスライスされたチーズとハム。最頂上をレタスが彩る。スープカップにはポッドからスープが湯気を立てて注がれた。炒められた香ばしいオニオンの香り。


 それらを見下ろしながら、ヒートは動かない。


 老婦人――ベネディクト・オデットと名乗った――が言うことにはこの牢屋は屋敷の中にあるらしい。

 あのクモヒゲはつい二日前にいきなりやって来てバトワイズの郊外にある大きな屋敷を即金で買い取りすぐさまに居を構えたそうだ。

 ベネディクトは現地で雇われた使用人で、彼女以外に使用人はいない。


――郊外にある屋敷って……確か事業起こした人が昔に建てたやつだよな。


 その後物の見事に倒産して妻子に逃げられた彼は屋敷で自殺。格安で売り出された物件だったはず。


――自殺したのはなんでも地下室だったって……ここかなあ、やっぱり。


 最も幽霊なんぞ気にしている状況ではないが。


「旦那様も服ぐらい着せてあげればいいのに……こんな所さぞ冷えるでしょ。私の孫もあなたぐらいの年齢でねぇ」


 未だに座ったまま沈黙を続けるヒートにうやうやしく毛布をかけ始める。


 ヒートは一言も会話はしていない。ここまでは全部ベネディクトが一人で喋り続けたことだ。


 猜疑と敵意を向けたままのヒートへ、老婦人は語りかけ続ける。それだけが、ヒートと彼女の距離を縮める唯一の方法とでもいうように。


「怪我はしていないの? 痛むところは? 女の子は体を大事にしなきゃダメよ。あなた顔も黒髪も綺麗なんだからちゃんとお手入れしないと」


 矢継ぎ早に重ねられる言葉に、ヒートは無言を返す。

 何も喋りたくはなくて、何を喋ればいいかもわからなかった。

 ベネディクトはひとりで暮らしていること。

 遠くの街に息子夫婦と孫がいること。

 髪と肌を美しく保つ方法。

 この街の秋の景色が好きだということ。

 最近は小麦の値上がりが酷い。

 キルオル海でもうすぐ取れるサーモンは美味しいという話。


 取り留めのない、しかし老婦人がよく理解できる言葉。

 ヒートとの距離を縮めようとする彼女の言葉。


「食欲がないなら仕方ないけど……食べないの?」


 無言を返す。正直腹は減っている。だが大人しく食べるのも腹が立つ。あのクモヒゲと、ここでのうのうと飯を食らう自分自身と。


「ダメよ。食べられるなら食べないと。生きていくためには人間は食べなきゃいけないのよ。明日のために食べなきゃいけないの」


 そうだろう。ベネディクトのいうことは正しいとヒートも思う。リブラも同じことをいっていた、常に万全になるために食えるときに食っておくべきだと。

 だがリブラにはもう明日はこない。

 そしてリブラを守れなかった自分には、当然黙っていても明日が来る。

 守れなかったヒートは、勝てなかったヒートは、失ってしまったヒートは、それでものうのうと明日を迎えるだろう。

 無様に飯を食い、のうのうと恥知らずに朝日を浴びるのだ。


 冗談じゃない。ふざけるなよ。ふざけるなよオレ。


「あ、毒が入ってるとか疑ってるの? じゃあ私が一口食べてみるから、それならいい? ……あ」


 気がつけばパンを掴んでいた。引ったくるように口元へ運ぶ。

 力任せに掴んだトーストとハムとチーズがひしゃげ、レタスが落ちる。構わずに口に入れた。

 そのまま力一杯に噛む。噛んで噛んで飲み込む。


 旨い、と思った。何も守れず、浅ましく恥知らずな自分に嫌気がさして、それでもなお生きるための糧が旨いと思った。

 生きなければならない。リブラの仇を取るために、どれほど恥知らずでもヒートは生きて強くならねばならない。

 不意に浮かぶ涙をこらえ、スプーンも使わずにスープカップごと飲み干す。泣く資格など、今のヒートにはない。

 どんなものでも食らいつくしてやる。どんなものでも飲み干してやる。強くなるために、それだけのために。



▽ ▽ ▽


 牢の鍵を開けて、老婦人が出て行く。バスケットには空になった器。


「じゃあまた朝にね」


 安心した笑顔で老婦人が告げる。食事を取れる力があると確認できた。


「――――あ、あ、の」


 ぎこちなく、ヒートは声を出す。


「う、まかった、よ。ありがとう、ベネディクト……さん」


「こちらこそ、ベネでいいわよ」


 嬉しそうに言葉を返す。ベネディクトという人間がヒートにもなんとなく理解できていた。

 この人は優しいのだ。なんというか、どうしようもなく。


「オレも、ヒートでいいよ。ベネさん」

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