第五章 流転

 モンド、ビシャス、ゲイル率いる勢力との戦闘から半日が過ぎ、ネイバーハッドの町並みは月明りに照らされ、静けさを取り戻しつつあった。未だ半壊した家屋や建物、原型を留めない程に散乱した露店や公共物の補修に大人数が動員され、ネイバーハッド町内は国内の衛兵や中央管理軍の別部隊が駐留していた。住み家を失った町民も数多く、また不安な情勢も相まって衛兵が町を出てすぐの場所に設置した移動型のコテージに移住する者も居り、平常に戻るには幾分時間が掛かりそうだった。

 ウィルとアノンは雑踏に紛れ、買い出しに出ていた。事の後、少年を運ぶ折に診療所に立ち寄った二人はそこでレイバーと合流し、ライアンを含める怪我人の治療に医師やスタッフを専念させるため、不足分の物資調達を進んで請け負っていた。

「包帯に脱脂綿、消毒液、抗生物質……薬品類はだいたい揃いましたね」

 アノンがウィルに向け、笑みを浮かべる。半日前の塞ぎ込み様はどこに行ったのか、ウィルは上の空で聞き流していた。

「後は解熱効果のある薬剤だけ底を付いてしまっているので、なにか代用を……って聞いてますか、ウィル少佐」

「おう」

「絶対、嘘」

 アノンが頬を膨らませているが、ウィルは歩みを進める。売り場を失ってしまったのだろう、商店の主や露天商が中央広場に集まり、簡易な屋台を共有して商売を続けていた。襲撃を受け傷付いたこんな時にこそ、少しでも日常に近づこうとしているのだろう、ウィルは支援の意を込めて買い出し予定の物とは関係のない物も購入していた。

 黄金色に輝くそれをウィルは口に放り込み、美味そうに頬張る。

「なに食べてるんですか、ウィル少佐」

「べっこう飴だ、食うか」

「頂きます!」

 アノンも甘い物には目がないのだろう、ウィルと一緒になって次から次に口へと放る。べっこう飴の原材料は水と砂糖だけだ。流通が滞り、物資が不足した中でも作れるのだろう。

 ウィルは一通り頬張り終わると、アノンへ顔を向けていた。

「解熱効果のある薬剤が底を付いてるならキャベツでも買って行くか。張り薬の代用になるだろ」

「あ、聞いてたんですね、了解です」

 ウィルは野菜類を取り扱っている屋台に立ち寄り、先のキャベツを幾つか注文していた。それを受けていた屋台先のふくよかな女性がアノンに気付き、声を掛ける。

「もしかして、ライアンちゃんと一緒に私達を助けてくれた人かい?なんだい、それならそうと言ってくれれば良いのに!タダでいいよ、持っていきなよ」

「い、いえ、タダはさすがに……」

 アノンの困った様子に女性は笑い声を上げ、肩を叩く。

「いいんだよ、まだまだいっぱいあるからね、こんな時だよ、みんなで助け合わないとね」

「……ありがとうございます」

 袋に幾つもキャベツは入れられ、女性から袋を受け取るウィルに、アノンは女性へ頭を下げていた。

「それにしてもキャベツをそんなに沢山、なにを作るんだい」

「その、調理用にという訳ではなくて、張り薬の代用に……」

「ほー、なるほどね。うちの子も薬が嫌いでねぇ、小さい頃はよくおでこに貼ってやったもんだよ、知恵が利くんだねぇ、さすがライアンちゃんの上官さんだ」

 女性の話しにアノンは恐縮しきりだった。あまり見ない光景にウィルも笑みを浮かべる。

「ところでライアンちゃんは大丈夫かい?聞いたところじゃあいつらに肩口を斬られたそうじゃないか、心配でね」

「大丈夫ですよ、応急処置が迅速に行われたのが幸いしました。残念ながら傷跡は残ると思いますが……」

「……そうかい、キレイな子なのに悔しいね。あの子、小さい時から知っていてね、元気で良い子なんだよ、宜しく伝えておいてね」

「分かりました、宜しければお名前を伺っても宜しいでしょうか」

「サボイのおばちゃんって言ってくれれば伝わるよ、お願いね」

「はい、あの、キャベツ本当にありがとうございます」

「いいんだよ、ほら、戻ってあげな」

 アノンはもう一度女性に一礼すると、ウィルと診療所へ歩みだしていた。途中不思議そうに首を捻っているアノンに気付き、ウィルが尋ねる。

「どうした、アノン」

「あー……いえ、先程の女性ですけど、その、失礼に当たるかもしれませんが、珍しい名前だなーと思いまして」

「サボイの事か?」

「そうです。シーヴォリー王立国内ではあまり使われていない人名ですよね。他国の王家に似たような名前の家名はあるんですけど……王家の方なんでしょうか」

 アノンの屈託のない表情に、ウィルは思わず吹き出していた。

「な、なんですか、笑う事ないじゃないですか」

「いや、すまんな。アノンはあまり料理はしないし、興味もなかったよな」

「……う、そうですけど、なんですか、お嫁に行けないとか言うんですか、今それ関係ありますか」

 アノンのころころ変わる表情がウィルは好きだった。優しく視線を送り、話を続ける。

「そうじゃねぇよ、キャベツの品種の名前だ。サボイキャベツ。別名ちりめんキャベツだ。今俺が持ってるやつな」

「……え」

「つまり、キャベツのおばちゃんって言えば、ライアンには伝わるんだろ」

「ええ……そういうことですか」

 昔なじみの間柄でしか通用しない呼び名に、アノンはジト目を表していた。ウィルとアノンは往来する町民や衛兵、軍人を避けて歩き続け、ほどなくして診療所へ戻っていた。

「ウィル少佐!アノン中尉!おかえりなさい!」

 二人をレイバーが出迎え、それにウィルが答える。

「いいのか、同期の傍に居てやらなくて」

「それが意識を取り戻しまして、急ぎ報告をとお二人を探しに……重ね重ね、どうお礼を言えば良いのか……」

 メイン通りで倒れていた少年は、レイバーの同期だった。頬に多少のヒビは残るだろうが、容態は安定しているようだった。レイバーの言葉に、アノンの表情には影が差す。

「いいんですよ、お礼なんて……もう少し私達の到着が早ければ、あの子も過剰な消耗をする事なく助けられたかもしれませんでした。それが悔しくて……」

 そう言うと俯くアノンに、レイバーは焦り出す。

「そんな、僕は何も出来なかったんです、本当に感謝しています、顔を上げて下さい」

 アノンとレイバーが話し始めると、地面に穴が開きそうなくらい空気が重くなる傾向にあった。たまにはそれでもいいが、常時これでは困る。ウィルは咳払いをし、話題を変えていた。

「レイバー、買い出しは終わったから、ここのスタッフに解熱薬以外、買えた事を伝えてくれ。俺達はこのまま備品庫に入れてくるからよ、頼むわ」

「わ、分かりました、解熱薬以外ですね、伝えてきます!」

 踵を返し、中に戻ろうとするレイバーをウィルが引き留める。

「あー、レイバー、変わりにキャベツを買ってきたことも伝えてくれ」

「キャ、キャベツですか」

「そう、キャベツだ。はよ行け」

「了解です!」

 診療所は駆け足厳禁、レイバーは努めてそれを順守しながら、急ぎ足で診療所の奥へと消えていった。それを見送り、ウィルはアノンに声を掛ける。

「ほれ、行くぞ、アノン」

「……はい」

 力なく付いてくるアノンを背に、ウィルは診療所の備品庫へと歩みを進めていた。立ち止まることなくウィルは一人思う。

 アノンの千差万別の表情を俺は気に入っている。それは長所でもあるが、短所にも成りえる。人付き合い程度なら見直す機会もあるだろうが、戦場ではそうはいかない。生きるか死ぬかの状況に、次はない。先の戦闘でも敵の挑発に引っ張られ、加減をする事なく中央広場の敵を皆殺しにしたアノンは、その後の戦闘に参加出来る余力を残せなかった。俺が傍に居る時ならそれでもいい。守ってやれるからだ。だがもし、俺が居なくなった後はどうする。この激情をコントロールする術を学ばなければ、生き残れないだろう。

 人造兵器は力を過剰に消耗しない限り、長命だった。最初期に作られた人造兵器は優に百歳を超え、容姿は二十代で止まっていた。いつまでも、俺は傍に居てやれる訳ではない。それだけが気掛かりで、ウィルの心は締め付けられていた。

 診療所の寝台は今や満員を超え、廊下にまで簡易寝台を設置し、怪我人や患者がひしめき合う状態になっていた。普段より喧騒の漂う診療所だったが、最奥に配された備品庫には静けさが沈み込み、窓から伸びる月の明かりに僅かな埃が映し出される。

 買い出しで手に入れた物を、次々と用途別に納めるウィルとアノンの作業音だけが備品庫に響き、会話はなかった。キャベツだけは食品庫だろう、ウィルはキャベツを一つ掴み、おもむろに窓にかざしていた。艶のある緑の発色に、土の肥えた良い匂いがする。丹精込めて作られたのだろう、ウィルは一人頷き、それを袋に戻していた。

「あの、ウィル少佐」

「おう、どうした」

「亀裂から出てきた覆面、どう思いますか」

 アノンの言葉に、先の戦闘が思い起こされる。にわかに信じ難い現象を目の当たりにし、ウィルは多少なりとも困惑していた。本部にも報告済みだが、追って返信は未だない。おそらく信じられていないのだろう。現在その現象を見て生き残っているのはウィルとアノンだけだった。過去のどの文献にもウィルが知る限り、亀裂から人が出てきたという記述はない。

「腐食性の霧も発生せず、まるで移動手段のようだったな、あの亀裂」

 アノンは頷き、ウィルを見つめる。

「おそらく亀裂の先は無害の領域だったんでしょう」

「無害ねぇ、亀裂の中にどこから入ったのか、どうやって開けたのか、分からん事だらけだよな」

 ウィルの言葉に、アノンは俯く。相棒の様子の変化に、ウィルが反応していた。

「なんだ、なにか知っているのか、アノン」

 ためらう素振りを見せるアノンに、ウィルが続ける。

「機密事項って奴か。言ってお前が不利になるようなことなら、言わんでいいぞ」

 そう言うとウィルは作業に戻り、黙々とこなしていく。アノンを含め、人造兵器は名義上階級を付与されているが、人間のそれと違い、あまり意味を成さない。いくら少佐位であるウィルだろうと知らされない情報があり、下位のアノンが別のルートで知り得ていることもあるのだろう。そのあたり、ウィルは特に関心がなかった。アノンに危険が及ばないのであれば、の話しだが。ウィルは作業を終え、アノンに振り返る。

「不利にならないのであれば話せ、アノン」

「……巻き込んでしまって宜しいのですか」

「いつもの事だろ、気にすんなよ」

 ウィルの言葉に、アノンがなんとも言えない表情を浮かべる。泣きたいのか、笑いたいのか、よく分からない表情だった。アノンは意を決し、言葉を発していた。

「あの、異界ってご存知ですか」

 その時だった。備品庫が控えめに数度叩かれ、レイバーの声がした。

「ウィル少佐、アノン中尉、作業の方はどうでしょうか、お手伝いします」

 不意の訪問に、話の腰が折れてしまったのか、ばつが悪そうにウィルが答える。

「……いや、終わったよ、レイバー、今戻る」

「了解です、ライアン三等兵がお二人にお会いしたいそうなので、病室の二〇五にお越し下さいとの事です」

 そう言い残し、レイバーの足音が遠ざかっていく。ウィルは改めてアノンに問う。

「で、異界……とか言ってたよな、何の事だ」

 アノンは小声で返す。

「その話しは今夜、別の機会に。おそらく盗聴されています」

「レイバーにか?そんな素振りは無かったが」

「人造兵器の中には、聴覚や視覚が異常に発達した者達も居ます。私もそれなりに耳は良い方ですが、レイバー君はそれ以上かも。安全圏内を作りますので、その時に続きを聞いて下さい。ウィル少佐、お願いします」

 アノンの懇願に、ウィルは頷く。

「分かった、いつでもいいからな」

「……はい」

 珍しく小声で話す二人は備品庫を後にし、ライアンを訪ねるため病室へと向かう。その前に食品庫にも寄らなければいけないが。アノンの発した異界という単語に、ウィルは聞き覚えがあるような気がしたが、どうにも思い出せなかった。またかとウィルは一人愚痴る。知らないはずの事を知っていたり、知っていたはずの事が思い出せない時がある。今回もその例に漏れず、ウィルの頭には靄がかかり、判然としない。アノンの話しを聞けば少しは晴れるだろうか。薬品の匂いが沁み付く診療所の廊下を歩きながら、ウィルは唸っていた。

 ネイバーハッド町内には診療所が二ヵ所設置されており、ウィルとアノンが滞在している診療所は、町内で最も大規模なものだった。さすがに首都に点在する国立病院とは病床数で劣るものの、それでも病床数は百を超え、ネイバーハッドの豊かさを象徴する施設の充実ぶりを見せていた。

 診療所は三階建てになっており、ライアンはその二階部分、病室二〇五に入所していた。目的の場所に辿り着き、扉の前で不意にウィルがアノンへ顔を向ける。

「病室に入るのって、なんか緊張するよな」

「……そうですか?優しくノックして下さいね。扉、壊れちゃいますから」

 アノンの言葉に怪訝な表情を浮かべるウィルだったが、極めて優しく扉を叩いていた。

「あー、ウィル少佐だ。アノンも連れてきた、入っていいか」

 ウィルの声に、どうぞお入りください、とライアンから返事が聞こえていた。ウィルが扉を開け病室内へと入り、アノンが声を出して続く。

「お邪魔しまーす」

「すみません、お呼び立てしてしまって」

 そう言って寝台から起き上がろうとするライアンをウィルが片手で制していた。

「そのままで構わん、気を使うな」

「……了解です、どうぞ、お二人も手近の椅子にお座り下さい」

「おう、悪いな……って、凄い量の花だな」

「は、はい、町の皆さんがお見舞いに来てくれまして」

 寝台に病衣を纏って身を預けるライアンの周りには、カゴに入れられた生花が所狭しと並べられ、特にガーベラが多く、病室内は鮮やかに彩られていた。纏め結いしていた髪は病室では解いているのだろう、栗色の髪が肩口よりやや長く垂れ、制服に身を包んでいたライアンに比べ、ずいぶん柔和な装いをしていた。

 アノンは椅子に腰かけながら花に身を寄せ、目を閉じる。

「んー、良い匂いですねぇ」

「私もこの匂いが大好きで……丁度、収穫の時期なんです」

 アノンの言葉に笑みを浮かべるライアン。それを横目にウィルは窓辺に立ち、花に触れる。

「白いガーベラの花言葉は確か、希望だったよな」

「あ、そうです、博識なんですね、ウィル少佐」

 ウィルの意外な一面にアノンは驚くが、ライアンは素直に応じていた。

「花言葉なんて憶える人だったかな……」

 アノンの呟くような声に、ウィルが目を細める。

「あんだよ」

「いえ、なにも」

 二人のやり取りにライアンは微笑むが、肩口がまだ痛むのだろう、小さく息を吐く。

「無理すんなよ、しっかり休め。今回はよく頑張ったな」

 ウィルの気遣う視線に、ライアンが頷く。

「ありがとうございます……あの、ウィル少佐もどうぞお座り下さい」

 そう促すライアンだったが、ウィルは窓辺に視線を向け動こうとしなかった。

「俺は立ったままでいい。念のためだ、気にするな」

「……は、はい」

 恐縮しきりのライアンだったが、アノンが察して話しを続ける。

「レイバー君から、私達に会いたがっていたと聞いたんですが」

「……はい、今回の事態を鎮圧して頂いたお二人にだけ、お話ししたい事があります」

 ライアンの言葉に、アノンは神妙な面持ちを向ける。

「気掛かりな点がいくつかありまして、一部はまだ本部にも報告しておりません」

「……というと?」

「まず一つは、その、アノン中尉の前でこのような呼称は失礼に当たるかもしれませんが、首謀者達の外見は人造兵器のそれと類似しておらず、一般人同様、普通の外見でした。にも関わらず彼らは空間を掌握し、それを用いて戦闘をしていたという点が挙げられます」

「霊石、つまり核を生身の人間に移植していたって事ですね」

 アノンの解釈に、ライアンは頷いていた。

「新兵の課程時に学んだ程度なので、浅い知識でお恥ずかしいのですが、過去そのような実験が実際に行われた文献は存在しますが、その、被験者はいずれも強い拒絶反応を引き起こして生き残れず、実現不可能と言われている技術のはず……ですよね」

「……ええ、その通りです。生身では耐えられません」

「でも……」

 ライアンが俯き、アノンが代わりに言葉を続ける。

「それと思しき集団だった、そういう事ですね」

「はい。これは町の人達も見ていた事で、本部にも報告したのですが、取り合ってもらえませんでした」

「んー、まぁ、実際目にしないと信じられないですよねぇ」

 アノンは軽めに応じているように見えるが、目線はどこか遠くにある。黙して耳を傾けるウィルにはそう思えた。心なしか落胆するライアンだったが、更に言葉を続ける。

「ここからは本部にも報告していない事項になります。その、故意に過少報告をする事は罰則に値するのは承知していますが、どうしても気掛かりで……」

 顔を下に向け、ライアンは涙ぐんでいた。

「なにを信じていいのか分からなくなりました。不安で、怖くて、誰に相談すればいいのかも判断出来なくて……」

 両の拳を懐へと引き寄せ、ライアンは強く握る。涙が一つ、二つとその拳に当たり、行き場を無くした心を写すように、滴が右へ左へと流れていく。

 その様子を見ていたウィルが、頭を掻きながらライアンに声を掛けていた。

「やっちまったもんは仕方ねぇさ。後でフォローしといてやるから安心しろ」

 ライアンは驚きウィルを見上げ、アノンもそれに続いていた。

「そうですねー、尻拭いなら現場の最高責任者であるウィル少佐にやってもらうとして」

 アノンは言うと椅子から立ち上がり、ライアンへ歩み寄る。その握り締めた拳を解くように、優しくアノンが手を当てていた。

「私とウィル少佐なら、信じてくれますか」

「……頼ってしまって宜しいのでしょうか」

「信じて頂けるのであれば、いくらでも」

 ライアンはウィルとアノンを交互に見やり一呼吸置くと、意を決した表情を浮かべていた。

「首謀者達が話してたんです。通信は妨害している、傍受もしているって。でもおかしいんです。妨害だけなら全ての通信波を遮断してしまえば容易とは言えませんが可能ではあります。ですが、傍受となると難易度が跳ね上がるはずなんです。我が中央管理軍の通信波は複雑に暗号化されていて、その、四桁の暗証番号を打ち込むとか、特定の文字列が正解だったりとか、通信波を物理的に拾えば聞こえるとか、そんなやわな代物では有り得ません。これはどう考えても」

 一気にまくし立て、確信まで話そうとするライアンの口に指を当て、アノンが制していた。

「それ以上はライアンさんの身に危険が及びます。言いたい事は分かりましたので、どうか落ち着いて」

「は、はい……」

 ライアンの予測に、ウィルも心の中で同意していた。中央管理軍の通信技術は連合国内でも随一の技術で、暗号化の複雑さも群を抜いている。まずもって他国やその辺の勢力が解読出来るほど脆いものではない。情報が洩れれば即敗北に繋がる事さえある情報戦に、我が組織が手を抜く訳がない。今回の事態のように敵対勢力の頭数で押されたとはいえ、中央管理軍の軍人が少数を残して全滅するなど過去に一度もなかった。

 となれば、考えられる可能性は二つだけ。裏切り者が居るか、敵対勢力の通信技術が中央管理軍を圧倒しているか。ウィルはおそらく前者だろうと結論付けていた。イーレ=ヴェレンス大将を筆頭に組織化された中央管理軍も一枚岩ではない。世界から亀裂をなくし、秩序を保つという崇高な目的の光に伴って、組織内部には大きな闇も生まれていた。

 出世欲、権利欲、利益欲、どれもこれもくだらない沽券ばかりだった。ウィルは一人奥歯を噛み締める。ヴェレンスも相当手を焼いていたが、いかんせん組織が大きくなり過ぎた。実力に比例して与えられる地位が、人を狂わせていく。敵対勢力を動かし、出世なのか利益なのかは知らないが、それを教授しようとする輩は後を絶たなかった。全くもってくだらない、ウィルは自然と身体に怒気を宿すが、その圧にライアンは顔が蒼白になっていた。

 気付けば病室内は静まり返り、ウィルが手を置いていた窓辺には軋みが生じる。

「ちょっと、ウィル少佐、ライアンさん怖がってるじゃないですか」

「……あ、悪ぃ」

 ウィルをたしなめ、アノンがライアンに向き合う。

「ごめんなさい、怖い人ですけど、悪い人じゃないので」

「い、いえ……」

 ライアンは息を飲み、静かに吐き出す。

「妹から聞いた通りでした。お伝えする事が出来て良かったです」

「……妹さんですか?」

 アノンが首を傾げ、ライアンに問う。

「はい、ネリスの事ですよ。父が妹だけ逃がしてくれていたんですが、首都には辿り着けなかったみたいで……道中お二人にお会いして助けて頂いた事を話してくれました」

「な、なるほど」

 ライアンの言葉に、アノンはようやく合点がいく。ほぼ初対面の自分達が、信じてくれとは胡散臭いにもほどがあったが、先にライアンの妹であるネリスも助けていたのか。栗色の髪に顔の印象が僅かばかり似ているとは思っていたが、縁とは分からないものである。

「アノン中尉の応急処置が的確で、お医者さんもびっくりしていましたよ。数日もすれば痛みもなく歩けるそうです。妹に代わってお礼を申し上げます。ネリスは今自宅で療養中ですが、後日改めてお礼がしたいと言ってまして……」

「いえいえ、大した治療も出来ていませんので、軽傷で良かったです……あっ」

「え?」

 アノンの急な変化に、驚きの表情を浮かべるライアン。

「サボイのおばさまが、宜しくお伝え下さいって、心配されてましたよ」

「あ、そうなんですか!私の自宅の向かいにある八百屋さんの女将さんですね」

 ライアンの反応に、アノンはウィルに顔を向け妙に頷いていた。

「本当に伝わりましたね」

「だろ」

 病室がようやく重苦しい話しから解放されたのを察したのか、看護婦が扉を小さく叩き、ライアンに声を掛け病室へと入ってくる。

「ご面会の方はお時間が過ぎていますので、どうかご退出を。ライアンちゃん、お薬の時間ですよ」

 看護婦の言う事に異を唱える理由もないウィルとアノンはライアンに目配せし、病室から歩み出る。ライアンの寝台を通る様、ウィルは小声で伝えていた。後は任せておけ。そのまま病室を後にしたウィルは一度も振り向かなかったが、宜しくお願いします、ライアンの声は静かにウィルの背に返ってきていた。

 アノンがウィルに視線を向け、二人は診療所を後にする。宿泊先は決めていないが、中央管理軍の部隊もそこかしこに駐留している。寝床には困らないはずだ。そこに至る前に、アノンは備品庫での話しの続きがしたいのだろう、ウィルを伴い人気の少ない路地へと入る。

「で、さっきの続きだが、この辺りでいいのか」

 ウィルの言葉に、アノンは周囲を見渡す。

「……んー、ちょっと目立ちますけど、もし監視されているとしたら、町を離れる意味もあまりありませんし、この辺にしますか」

 そう言うとアノンはウィルへ左手を差し出し、笑みを浮かべる。ウィルは意図を察し、アノンの手を握り締めていた。

「綺麗な月夜ですし、せっかくですから、もう少し近くに行きましょうか」

 アノンの提案にウィルは頷き、二人の足は地を離れていた。周囲を驚かせないよう気を使っているのだろう、アノンは全身から発せられる煌めきを控えめに抑え、空へと歩み出す。

 ウィルにとっては何度体験しても慣れない浮遊状態だが、ウィルと手を繋ぎ高度を上げていくアノンは上機嫌だった。ウィルは思う。月夜の散歩もたまにはいい。

 アノンが誘うまま二人の高度は更に上がっていく。風になびく度にアノンの髪は光の波を作り出し、眼下に広がるネイバーハッドの町並みへと降り注いでいた。


「……へぇ、まさに圧倒的ですね」

 中夜に描き出されるアノンの煌めきは軌跡を刻み、放物線を象っていく。その美しくも儚げな軌跡を眺め、診療所の窓から見上げる一人の男が居た。

 面会可能な時間はとうに過ぎ、静寂が訪れる診療所内は、歩む音すらよく響いていた。木製の床が軋みを上げ暗闇へと伝わっていく。

 男の目的は一人の人造兵器だった。病室三〇一、診療所の三階にある個室で、普段は特殊な事情の患者用にあつらえた病室だった。かなり奥まった場所に配され、廊下は複雑に折れて迷路のようになっていた。道中には誰も居なかったが、病室三〇一の扉の前には中央管理軍の制服を着た軍人が二人立っている。男は無造作に近づくと軍人へ声を掛けていた。

「夜間帯の歩哨の任、お疲れさまです。差し入れを持ってきました」

「……ん、悪いな、そこに置いておいてくれ」

 男の声に、軍人の内一人が目の前の座椅子を指差す。男は頷き、指示通りに動いていた。

「握り飯と漬物、水筒になります。他になにか必要な物はありますか」

「いや、大丈夫だ。丁度喉が渇いていてね、助かるよ」

 軍人の一人が水筒を開け、口へと流し込む。

「持ってきてもらった側から手を付けるなよ、乞食かお前は」

「いいだろ、別に。今日は働き詰めだったんだ」

 よほど喉が渇いていたのだろう、軍人の一人は水筒に何度も手を付けていた。それを見ていたもう一人の軍人が同意を示す。

「まぁ確かに。人手不足なのは判るが、日勤の後に不寝番ってのはこたえるよな」

「そう思うだろ?しかもなんで正規軍人の俺らが消耗品なんぞの病室を守ってやる必要があるんだよ、意味わかんねぇ」

「……おい、口を慎め」

「っと、すまねぇ。差し入れを持って来てくれたのに、お前に言ったんじゃねぇからな」

 水筒を手に持つ軍人の軽口に男は反応するが、恐縮した姿勢を見せる。

「いえ、判っております。心遣い痛み入ります」

 にこやかな表情を浮かべる男に、二人の軍人はばつが悪そうに目を逸らす。

「まぁなんだ、差し入れ」

 すまねぇな、そう言おうとした軍人の一人が急に呻きを上げて喉を抑え、膝を付いていた。

「おい、どうした、おい!」

「……はっ……はっ……息が、息が出来ねぇ……なんだこれ……」

 膝を付き水筒を放り出した軍人を、もう一人の軍人が背を擦りながら身を寄せる。みるみる内に膝を付いた軍人の顔色は土色になり、喉を通る空気が隙間風のように鳴り、口からは泡を吹き出していた。

「どうなってんだこりゃ……くそ、助けを呼んでくるから待ってろ!」

 言って踵を返し、駆け出そうとした軍人に男が背後から飛び付き、左手で口を塞ぐ。いつのまに持っていたのか、男は右手に握り締めたナイフで軍人の喉を切り裂いていた。数瞬のもがきの後、軍人は動きを止め、それきり動かなくなった。男はゆっくりと立ち上がり、膝を付き泡を吹く軍人を見下ろし、苦しむ様を覗き込む。

「あっ……ぐっ……助げで……助げ」

「診療所ではお静かに願います」

 言って男は躊躇なく膝を付く軍人の喉元をナイフで横に差し、力を込めて右方へと斬り裂く。血飛沫が廊下や窓に飛び散り、軍人は悲鳴を上げることすら出来ずに地に伏せていた。

 男は事を終え、小さく息を吐く。

「消耗品より先に死ぬって、どんな気分なんでしょうかね」

 そう言いながらナイフを指先で持て遊び、男は懐から布を取り出していた。

「窓、汚しちゃったな。綺麗にしないと」

 軍人達の身体を脇に寄せ、男は窓に手を当て布で優しく血を拭う。廊下の方がよほど血溜まりが出来て汚れているのだが、外から見て気付かれなければそれで良かった。男はひとしきり窓を拭き終わると、動かなくなった軍人達の衣服を弄り、病室三〇一への鍵を手に入れる。扉は音もなく開かれ、男が入っていく。

「……なんだ、あれほど物音を立てたのに、まだ眠っているのか」

 男はつまらなそうに呟くと、病室内に一つしかない寝台まで歩み寄り、頬にヒビの入った少年を静かに見つめていた。その気配に気付いたのだろう、少年が目を覚ます。うっすらと開く両の眼は青く、刈り上げた銀髪が印象的な少年だった。男は少年の名を呼ぶ。

「サクリ、僕だよ」

「……あぁ、お前か。どうしたんだ、こんな夜更けに」

 サクリの言葉を聞きながら、男は寝台に腰かけ、サクリに身を寄せる。

「様子を見たくてね。久しぶりに会えた同期なんだ、心配させてくれよ」

 微笑む男に、サクリも弱々しく笑みを返していた。

「お前はいつも優しい奴だな……訓練所では冷たい態度ばかり取っていた俺の見舞いにこうやって来てくれるなんて……」

「僕が落ちこぼれだったからだよ。周りの雰囲気もそんな感じだったし」

「……ごめんな」

「いいんだよ、サクリ」

 男はそう言うと立ち上がり、病室の窓をゆっくりと開け放つ。夜風に乗ってどこからか、花の香りが漂ってくる。おそらくガーベラなのだろう。男はこの匂いが嫌いだった。病室内へも風が優しく流れ込み、男の肩口まで伸びた銀髪が風に揺らいでいく。

「ってかさ、お前、忍び込んだだろ。面会の時間とっくに終わってるはずだぜ」

「あれ、バレちゃった?」

「バレバレだっつーの」

 男とサクリは笑い合い、再び男は寝台へと腰かけながら内心ではこう考えていた。サクリは扉の前に軍人が居た事を知らされていない。病室で療養と待機を命ぜられたサクリはそれに素直に従っていたのだろう。人間達による、ていの良い軟禁だった。

 男はおもむろに腰部の収納帯から何かを取り出し、サクリへと渡す。

「これは?」

 サクリが男へ問いていた。

「クロッカスの花だよ、一輪だけ持ってきた。サクリへのお見舞いに」

「男が男に花を送るとか、なんか照れくさいな……でも、ありがとな」

 サクリの言葉に男は笑みを返していた。

「そのクロッカスの花、紫色で綺麗だろ?僕の好きな花なんだ」

「へぇー、そうなのか」

「……そのクロッカスの花言葉、知ってるかい、サクリ」

「んんー、いや、分かんない。教えてくれよ」

 男は一度だけ窓に目を向けサクリへと再び視線を戻していく。男の両の眼も青色を宿していた。月夜に照らし出され鮮やかに輝くはずの男の眼は沈み込むように色味を落としている。

「クロッカスの花言葉はね……」

 言って男はサクリの口を抑え、収納帯からナイフを取り出し、腹部へと突き刺していた。

「愛したことを後悔している、だよ」

「んんっ!んんんんん!」

 サクリが暴れ出し、空間を掌握しようと力を込めるが、手応えが感じられず両の手は宙を彷徨っていく。

「抑制剤だよ、たっぷりナイフに塗ってある。僕らの機能を著しく制御するための薬。これさ、僕は施設でよく打たれてたんだ、抵抗出来なくなるから……」

 男の言葉が理解出来ないのか、サクリは必死にもがいている。

「力、入らないよね。サクリは経験ない?これを打たれて人間達に酷い事をされた経験」

 男はぐるりと腹部に刺したナイフを捻じり、サクリは苦悶の表情を浮かべる。

「ないよね、サクリは優秀だったから。部隊に品卸しされる側の人造兵器。僕は処分される側だったから好き放題されてたよ。知らなかった?知ってた?ねぇサクリ、聞いてる?」

 男はサクリに問うが、暴れていた両の手が寝台へと沈み込み、サクリはそれきり何も喋らなくなっていた。

「あれ、もう死んじゃった……抑制剤が効いた人造兵器ってタフじゃないんだよね。人間達と同じみたい」

 男は言うとサクリの腹部からナイフを引き抜き、再び振り上げて胸元に突き刺す。何度もそれを繰り返しては胸元を斬り裂く。露わになった肋骨を力づくでこじ開け、核を取り出す。血濡れた核は脈打つのを止め、男の手からは赤い液体が滴り落ちる。

「ビシャスの馬鹿はこれを経口摂食で自身へ取り込んでいた。僕に黙って勝手にね。せっかく慎重に調整してあげてたのに、拒絶反応起こして醜くなっちゃうなんて、本物の馬鹿だよ」

 既に事切れているサクリに向け、男は尚も話し続ける。

「本来はこの核を溶解させ、少量ずつ身体に取り込まなきゃいけないんだ。それでも人間達は拒絶反応を起こしてしまう。身体が元々貧弱な種族だからね。仕方のない事だけれど」

 手から滴り落ちる赤い液体を舌ですくい、男は目を細める。寝台から立ち上がり、窓辺へと身を寄せ、体重を預ける。そこから見える景色が男は嫌いだった。人間達が沢山生きているから。男は無能な自分が嫌いだった。なにをされても抵抗が出来なかったから。

 男は世界を憎んでいた。弱く生まれ、それでも生かしてもらえた世界を愛していたのに、裏切られたから。男は収納帯に核をしまうと寝台へと戻り、サクリへと近付く。

「もう少しだけ、僕に協力してくれよ、サクリ」

 そう言いながら男はサクリの身体に触れ、サクリの一部を両手いっぱいにすくい上げると、手近にあった壁へ何かを記し始める。これは儀式なのだと男は考えていた。弱かった自分を変えるため。それを受け入れず拒絶した世界を壊し、新しい世界を築くため。今日、今こそが、世界に対して宣戦布告をする時なのだと。それを否定するものは残らずかかってくるがいい。全て打ちのめして、生まれ変わってみせる。

 男の狂気は加熱の一途を辿り、もはや後戻りの出来ない道へ男を押し出していた。


「ここまで来れば大丈夫ですかねー?」

 アノンが上昇を続ける中、ウィルはしばらく前から黙り込んでいた。

「……あれ、ウィル少佐、聞いてますか」

「高すぎる」

「はい?」

「止まれ」

「あ、はい」

 ウィルの声色の変化に、アノンは焦っていた。

「あの、高所恐怖症でしたっけ、ウィル少佐」

「……いや、命綱もないこの状況でこの高さは誰でも怖いだろ」

「命綱なら私が居るじゃないですか」

 真顔でそう告げるアノンに、ウィルは片手で目を覆っていた。アノンは空中に歩み出す前、確かにこう言った。月夜だから、もう少し近づこうと。高度数百メートルは少しではない。断じて。

「大きいお月さんですねー、両手いっぱい広げてもそれより大きいかも」

「……頼むから今広げるなよ」

「冗談ですよ。今障壁を作って足場を形成しますね」

 アノンは言うと右手の平を左から右に流し、腕を伸ばしきった瞬間に右拳を握り締め空間を掌握していた。傍目からは何が起きているのかよく分からない。

「出来ました。ゆっくり手を離しますから、足を障壁に置いて下さい」

「お、おう」

 促されるままウィルは恐る恐る目に見えない障壁に向け足を置こうとする。虚空に在るはずのない踏み締める感触を足先に感じ、ウィルの両足は空中で自身を支える軸となっていた。

「立てましたね。上手ですよ、ウィル少佐」

 目を細め微笑むアノンに、どこか子供扱いされた気分のウィルは頭を掻き、視線を月へと移していた。視界いっぱいに広がる月は雄大で、ただ静かにそこにあった。

「確かにここまで来れば、安全圏内って奴だな」

「はい。念のため私達の下方に階層的に障壁を張りました。例え高性能な集音器を用いたとしても、声は拾われませんね」

「そういうものなのか」

「そういうものです」

 アノンは言うと、ウィルに向けていた視線を月へと向け、両手を広げて計ろうとする。一見すれば無邪気にも写るその行動とは裏腹に、アノンの顔は憂いを表していた。視線を戻さぬまま、アノンは口を開く。

「この月が実は二つあるって言われたら、信じますか、ウィル少佐」

「……いや、どうだろうな、考えた事もねぇ」

「ですよね」

 アノンの突拍子もない話しに、ウィルは左手で首を後ろ手に掴み、首を鳴らす。

「……あるのか?」

 ウィルの問いに、アノンは頷く。

「ここではない、もう一つの世界に」

「異界って奴か」

「はい」

 未だ聞き慣れない単語に、想像のし難い話しではあったが、アノンは嘘を付くような性格ではない。おそらく本当の事なのだろうとウィルは考えていた。

「亀裂の先がどのような世界になっているのか、完全に解明はされていませんが、こちら側の私達でも生息可能な大気と大地がある事、そして月が確認されています」

「……って事はつまりあれか、何かしら生き物が居る可能性が高いって事か」

「その通りです、ウィル少佐」

 にわかに信じ難いアノンの話しに、ウィルは唸っていた。原因不明の災害に分類されていた亀裂の先に、まさかもう一つの世界があるなど、誰が予想出来るのだろうか。

 そしてその話しが真実だとすれば、一つの新しい疑念が生まれてくる。

「ちょっと待ってくれ……亀裂から発生する腐食性の霧はどう説明を付ける。あんな環境下で生息出来る生物が異界にはわんさか居るって事なのか」

 ウィルの問いに、アノンは首を左右に振る。

「あれを年中浴びて生息出来る生物はおそらく存在しません。自身に影響がなくとも、周辺の動植物は枯れ果て、食物連鎖自体が成立しなくなるはずなんです」

 アノンの言葉に、ウィルは拳を握り締める。

「よってここから導き出される答えは……」

「……攻撃か、異界からの」

 ウィルの答えに、アノンは頷いていた。

「腐食性の霧を発生させる何か、もしくはその霧が元々発生している地域と、こちらの地域を意図的に繋げているか、どちらにせよ、善意からの行動ではないでしょう」

「……胸糞悪い話しだな」

「同感です」

 あの腐食性の霧によって、一体幾つの町や村が再起不能と化したか。それによって人生を狂わされた住人がどれだけに上っているのか、考えるだけでウィルの頭は沸騰しかけていた。

 自然的な災害ならば諦めも付く。付かざるを得ない。だがこれが何者かの意思によって起こされている事象であるならば、到底看過出来ない。最悪、得体の知れない勢力との大規模な戦争となる。その火種は十分に世界へ撒き散らされていた。

 ウィルの表情を読み取り、アノンも表情を曇らせていた。

「異界の存在については一握りの者にしか知らされていません。連合国の各首脳、各王族は元より、中央管理軍の上層部でも知らされているのは極一部、トップシークレットなんです」

「……公になれば怨嗟の炎が世界を包むから、だろうな」

「はい……」

 ウィルは思う。事の次第は概ね把握出来たが、どうにも腑に落ちない。なぜこのタイミングで、アノンはこの世界の秘密を俺に打ち明けたのだろうか。リスクを補って尚取らねばならないリターンとは一体なんだ。

 ウィルが体験した最近の出来事で関連する事項があるとすれば、一つだけだった。

「……あの生身での空間掌握を可能とした技術は、異界のものなのか」

「おそらく。私も人造兵器の端くれでありまして、そちらの分野には長けている自負はあるのですが、未だ生身での……つまり人間が空間を掌握出来た事例は確認されていません」

「……にも関わらず、奴さんは平然とやってのけていた。って事だな」

 ウィルの言葉に、アノンは頷く。

「一連の国内で起きている亀裂の予兆に加え、正体不明の技術、それらを用いて行動する覆面の動向、これらを総合して考えられる結末は一つしかありません」

 ウィルは目を細め、眉間に皺を寄せる。

「異界からの偵察を兼ねた本格的な侵攻、だろうな」

「……はい」

 今までは、異界側からしてもただの実験だったのだろう。偶発的に、地域を絞らず亀裂が発生していたのは、ほんの小手調べだった。それらの結果は年月を経て山積みとなり、機は熟した。誰の仕業かは分からないが、始めるつもりなのだ。この国から。今すぐにでも。

 アノンは障壁の境に座り込み、宙へ足を投げ出す。

「当初異界は、平行に存在する同じ世界なのではないかとも揶揄されていました。もちろん確証はありませんが」

「……平行って、別の可能性を辿った世界って事か?」

「はい。でも、だとすれば、違った立場とは言えウィル少佐も、ヴェレンス大将も、今日まで出会った人達も異界には存在する事になります。そんな皆さんが、どのような経緯を辿れば別の世界に侵攻しようとするのか、私には想像も出来なくて」

「……確かに。俺も出来んな」

 アノンは空を見上げ、微笑みを浮かべる。

「私は作り物なので、異界には居ませんね」

「どうだろうな、案外居るかもしれんぞ、アノンは図太いからな」

「それ、褒めてるんですか」

 二人は顔を見合わせ、笑い合っていた。世界の真実がどうであれ、雄大な月を目の前に語り合うのはウィルとアノンの二人だけ。束の間の戯れだった。

 アノンは立ち上がると、ウィルへと歩み寄る。

「知っておいて欲しかったんです。今後どのような事態になっても、不意を突かれないように。ウィル少佐、案外虚を付かれる事が多いので」

「そりゃどうも……って本当に良かったのか、トップシークレットなんだろ」

「はい。ヴェレンス大将からも、信の置ける者には伝えて良いと許可を頂いていますので」

 アノンから耳にしたくない人物の名前を聞かされ、ウィルは露骨に嫌な顔をする。

「あの野郎も知ってたのか……いや、まぁそうだろうけどよ」

「あの野郎って……普段の物言いでは計り兼ねますが、ウィル少佐の事をいつもヴェレンス大将は心配されていると思いますよ」

「どうかな、俺を千尋の谷に突き落として昇ってきたところをもう一度蹴り落とすような女だぞ、あれは」

「そ、そうでしょうか」

 ウィルの言葉に苦笑を返すアノン。

「ところで、聞いていいか、アノン」

「はい、なんでしょう」

「お前は行った事あるのか、異界」

 不意に問われた言葉に、アノンは伏し目がちにウィルから視線を外していた。

 当然の質問だった。異界の存在が確定しているのであれば、誰かが行って戻って来た事になる。ウィルが思い付く人物でそれが可能な能力を有している者はそう多くない。

 アノンは意を決し、ウィルへと向き合う。

「……ありますよ、一度だけ」

 発してアノンは俯き、言葉を続ける。

「施設で初めて行われた空間掌握の実験の時でした。力の加減がよく分かっていなくて、その、全力でやったんです。空間を押し出そうとして押し過ぎたのか、空間に穴を開けてしまって……」

 言いながらアノンはウィルから離れ、障壁の上をゆっくりと歩み出す。

「吸い込まれるように、その穴に入っちゃたんです、私。その時でした。施設に居たはずなのに、どこか分からない海岸に居て、振り返ると穴が閉じかけていました」

 アノンは月へ手をかざし、人差し指と親指で輪を作り覗き込む。

「夢中で戻ろうとしていたので、よく憶えていませんが、呼吸は出来ていた事、踏み締める大地と水平線、そして今日のように大きな月が出ていました」

 ウィルは黙してアノンの話しに耳を傾ける。言葉の挟みようもなかった。

「瞬間的に長大な距離を移動した可能性もあったんですが、私が施設で実験をしていた時刻は早朝でした。前夜の月も新月に近く、満月を見れる地域は存在しませんでした」

「……時間を跳躍したか、別の世界に行ったか……しか残らねぇな、そうなると」

「仰る通りです、ウィル少佐」

「どっちにしろ、異界だな」

「はい」

 もはやウィルの知識量では理解の及ばぬ範疇に話しは及んでいたが、気掛かりな事が脳裏を過り、ウィルは思わず口に出していた。

「それだけの力を使っちまったら、お前の身体はどうなるんだ、大丈夫だったのか」

「あー……はい、一週間、寝込みました」

「本当にそれだけか」

 アノンの素知らぬ態度に、ウィルは予測が付いていた。おそらくだが、アノンは命に関わるほどの甚大なダメージを受けたに違いない。空間の亀裂を修復するだけでも息が絶え絶えになるほどの消耗なのだ。空間に穴を開け、別の世界と行き来するなど、想像を絶する負担がアノンに課せられたはずだった。それが紙一重の隣り合わせの世界だったとしても。

 ウィルは毅然とした口調で言い放つ。

「二度とやるな、命令だ」

「……善処します」

 アノンはウィルに目を合わせようとはしなかった。唇をつぐみ、アノンは思う。状況によってはやらざるを得ませんとは、口が裂けても言えない。そんな事になれば、この人はなにをするか分からない。作り物の自分にはこの上にないほど大事にされている事は理解している。理解しているからこそ、自身より先にウィルが潰えてほしくなかった。アノンがウィルと世界の秘密を共有したかったのには二つの意味があった。一つは先にも言ったが、ウィルの身を案じての事だった。覆面が亀裂を利用して移動している事を考慮すれば、膨大な力を内包した存在であることは疑いようもない。加えてウィルと一戦交えたビシャスという存在。おそらく複数の核を有し、生身での拒絶反応にも耐えた異形の者。予断が許されない状況だった。

 もう一つの意味は至って単純。ウィルに、覚悟を決めてほしかった。自分が役目を果たすべき時に、堪え切れるように。一人では暴走しがちなウィルを残して逝く事に、アノンは躊躇わざるを得なかった。それでも、事態は無情にも迫り来るかもしれない。お互い共依存のような関係だからこそ、心の準備をする必要があった。

 上空に一際強烈な風が通り過ぎ、ウィルとアノンの身を凍えさせていた。月に背を向け、ウィルはアノンに向け言葉を発する。

「戻るか」

「そうですね、明日も早いので」

 アノンがウィルへと歩み寄り左手を差し出す。ウィルがその手を取ろうとした瞬間だった。

「熱いなぁ、僕までほだされちゃいますよ」

 聞こえるはずのない声が、下方から聞こえていた。月夜に照らされ異常なまでに光彩を放つ青い眼に、肩口までの銀髪をなびかせ、見覚えのある少年がそこに居た。

「……レイバー君!?」

 アノンの驚愕の声に、レイバーは不敵な笑みを返す。左右交互に繰り出されるレイバーの両手は次々とアノンが作り出した障壁を相殺し、空中を蹴り上がってくる。

「あははっ、脆いなぁ、最高傑作さんが作り出した障壁なんてこんなもんですか!」

 ついにウィルが足場としていた障壁までが一瞬で相殺され、ウィルは足場を無くして空中へと投げ出される。

「うおっ」

「ウィル少佐!」

 誤算、その一言だった。ステイルから見張り役として派遣されたレイバーが牙を剥いてきた。アノンは奥歯を噛み締め、下降を始めるウィルへと手を伸ばし、後方の空間を蹴り出して接近する。控えめに抑えていたアノンの煌めきは強さを増し、濃紺の空に軌跡を描き出す。その間を割ってレイバーが立ち塞がっていた。

「どこに行くんですか、アノン中尉、僕と遊びましょうよ」

 レイバーの挑発に、アノンは右手を突き出して応戦する。

「どきなさい!レイバー士長!」

「どく訳ないだろうが!」

 アノンとレイバー、両者の空間の押し出し合いで周囲は震え上がり、空間は重く軋みを上げて怒号を響かせる。一瞬の均衡だったが、アノンが競り勝ちレイバーは弾け飛んでいた。

「うっはっ、すげぇ!連戦で消耗して尚この圧かよ!」

 猛烈な勢いを後方に空間を押し出して相殺すると、レイバーは態勢を整える。その隙を突いてアノンはウィルへと辿り着き、両手で抱き着いていた。

「このまま地上まで加速します!」

 言葉を発するが早いか、アノンは天を背に蹴り出し、急速に高度を下げていた。息も許されぬ風圧の中、ウィルとアノンはすぐ側面にレイバーの姿を目視する。

「ちょっと遅くないですか?力、貸しますよ」

 言うと同時に、レイバーは右足を振り被り、アノンの背へと撃ち放つ。その爪先に刃物でも仕込んでいたのか、ずぶりと濡れた音がしていた。

「ぐぅっ」

 間近で聞こえるアノンの呻きに、ウィルは叫んでいた。

「レイバー、てめぇ!」

「え、なんですか、聞こえませんよ」

 レイバーの言う通り、二人はアノンの掌握だけでも高速で下降していた所に、レイバーの力まで加わって更に速度を上げて下降を続けていた。レイバーとの距離は開き続け、ネイバーハッドの町からずいぶん離れた森がみるみる内に接近する。

「アノン!大丈夫か!アノン!」

「……はい、深手ではなさそうですが、不味いですね。力が入りません……」

 ウィルの呼び掛けになんとか応答するアノンだったが、視界が霞み、空間の掌握が上手く出来ない状態になっていた。背中に生じる刺された感覚と痛み、この力の抜け様、おそらく抑制剤の類を撃ち込まれた。アノンは瞬時に状況を理解し、同時に自身とウィルの行き着く先が脳裏を過っていた。このままでは二人共に相当の高さから地上へ叩き付けられ、命はない。

 いとまは、数瞬もなかった。

「ウィル少佐……私が盾になります、下にして下さい」

「だめだ」

「聞いて下さい!抑制剤を撃ち込まれて掌握が一瞬出来るかどうかなんです!」

「分かってる」

「分かってない!」

 地上はもはや目前だった。

「俺の両脇から手を出して一瞬でいい、押し出せ」

 ウィルの言葉に、アノンは霞む視線を向ける。

「信じろ、やれ!」

「ぐっ……了解です!」

 ウィルの言う通り、両脇から手を出し、アノンは一瞬だけ空間を押し出していた。だが速度は殺しきれていない。地上との激突は避けようがなかった。アノンは目を閉じ、ウィルへと身を寄せる。やっぱり駄目だったじゃないですか。そう思った瞬間だった。ウィルがアノンを抱き寄せ、頭と上半身がウィルに隠れるように包み込む。

「息を止めろ、アノン」

 ウィルの言葉と同時に、激突する地面とウィルの背の間に爆発が起きていた。迫り来る熱風にアノンの肌は焼けるようにヒリ付くが、大部分をウィルが受け止め、二人の身体は一瞬宙に浮くとウィルを下に地面へと転がっていた。

 激突する瞬間、ウィルは手製の爆薬を地面へと投げ放ち、直後に起爆させていた。下降の速度を相殺しきる策とは言え、代わりに熱傷と衝撃がウィルを直撃したに違いない。耳元で聞こえるウィルの呻きに、アノンは気が気でどうしようもなかった。肝心な時に盾にもなれない。

 自身を包んでいたウィルの両腕を解き、アノンは地へ手を付きウィルの顔を見ようとするが、全身に力が入らなかった。態勢を崩し、ウィルの隣へ倒れ込むだけだった。

「あれ、踏み潰された虫みたいになってると思ったら、やるもんですね」

 レイバーが音もなく宙から降り立ち、距離を取ってウィルとアノンを見据える。

「特別に濃縮した抑制剤を撃ち込んだはずなんですけど、凄いな」

「少し黙れ、レイバー」

 背から焼けた衣類と肌の匂いを漂わせながら、ウィルが立ち上がる。微かに震える両足を両拳で叩き、ウィルは地を踏み付ける。霞む視界にそれを捉えていたアノンは察していた。ウィルは完全にキレている。

「怖いなぁ……か弱い消耗品ですよ?お気に入りと一緒に可愛がって下さいよ」

 レイバーは尚も挑発を続けながら、更にウィルから距離を開ける。ウィルは倒れ込んだままのアノンへ視線を送る。

「アノン、休んでろ、すぐに片付ける」

「……はい」

 不用意にアノンを動かす訳にはいかない。レイバーがなぜ襲撃を仕掛けてきたのか。仮に知り得たとしても、現状はなに一つ好転しない。加えて、話し合う気は毛頭ない。

 ウィルは小さく息を吐き、全身に感じる痛みを抑える事に注力していた。

「爆薬使って浮力を得るなんて、イカれた発想してますよね、ウィル少佐って」

 堪え切れなくなったのか、レイバーは顔を歪め笑い声を上げる。ウィルはレイバーの動向に興味はなかった。無言で歩み寄り、障害を除くため戦闘態勢に入る。

「あぁ、タイマンでやる気はないですよ、助っ人呼んでますので」

 言うとレイバーは指を鳴らす。途端に空間が軋みを上げ、レイバーの後方に二つ亀裂が生じていた。同時に複数の亀裂が生じる様をウィルとアノンは初めて目撃する。

 黒い手が亀裂の淵を掴み、ゆっくりとレイバーの隣へ歩み出る。全身黒の装束に身を包み、覆面を被るその様相にウィルは見覚えがあった。

「一人は面識ありますよね、覆面さんです」

 三度、最悪なタイミングで邂逅する覆面に、ウィルは奥歯を噛み締める。その間ももう一つの亀裂から金属の擦れ合う音がし、中から見知らぬ人影が歩み出ていた。

「こちらは初めてですよね、なんて呼びましょう?なんでもいいですかね」

 見知らぬ人影はウィルと同程度の背丈に、全身を赤い板金鎧で武装し、一際目立つ大型の両手剣を携えていた。板金鎧の胸元にも、その両手剣にも、双頭の白馬に剣と杖の紋章が刻まれている。

「まぁ、呼び名なんてどうでもいいですよね、死んでいく方には」

 レイバーは両手を広げ、楽しそうに首を左へ傾ける。

「覆面さんはあそこに転がっているアノン中尉を、僕と騎士さんはウィル少佐でいきましょう、殺して構いません」

 アノンは未だ力が戻っていなかったが、顔だけ必死に上げ、ウィルへと声を張り上げる。

「逃げて下さい!ウィル少佐!」

「却下だ、黙って休んでろ」

「なにが却下ですか!私だけ置いて逃げて下さい!」

 アノンの懇願にウィルは応じず、戦闘態勢を解く事はなかった。レイバーはそのやり取りを見ながら苦笑し、収納帯からナイフを取り出すと右へ左へと指先でもて遊んでいた。

「お熱い関係ですよね、羨ましいなぁ……本当、目障りです。死んで下さい」

 レイバーが弾けるように駆け出すと、それを合図に覆面と騎士も駆け出していた。覆面は木々を蹴り上がり、ウィルの上空を飛び過ぎてアノンを取りに。レイバーと騎士はウィルへと挟撃をかけようとしていた。騎士の横に構えられた両手剣が月明りに反射し、鈍い光を生み出す。その三者三様の動きに、ウィルは瞬時に判断を下していた。予め両手に握り込んでいた複数の爆薬を時間差で起爆するよう軸を動かし、一つは覆面目掛け親指で撃ち出していた。

「ちっ、手元の爆薬に気を付けろ!」

 レイバーの言葉は時既に遅く、覆面は爆風に身を晒し態勢を崩していた。続けて撃ち出された四つの爆薬がレイバーへと迫る。

「え、僕には四つですか、多くないですか!」

 冗談めかせた物言いとは別に、レイバーは後方へ蹴り出すと同時に空間を掌握し、幾つも障壁を展開して爆風から身を防いでいた。残るは騎士一人。無言でウィルの左方から水平に払われる両手剣をウィルは沈み込むようにかわし、満身の力を込めて騎士の右腕を打ち上げる。通常の人間相手であればこれで持ってる武器ごと腕が天を差すところなのだが、騎士は直前で右手のみ両手剣から離し、更にウィルの打ち上げに耐えて腕も僅かに上がるだけだった。

 板金鎧の重さ以上に感じる騎士の腕の圧に、ウィルは嫌な予感がして後方へ飛び去る。その瞬間、騎士は残った左腕だけで両手剣を振り上げ、頭上に構えると同時に右手を添え、ウィルへと振り下ろす。僅かにそれはウィルの肩口を掠め、浅く鮮血が迸る。

「なんだ、刃物効くじゃないですか、嘘吐きですねぇ」

 レイバーは後方から空間を押し出しながらウィルへと迫る。アノンへの影響を考慮し、ウィルはあえて避けずにレイバーの一撃一撃を全身に受ける。ウィルの肩口からは更に血が噴き出し、口元からも血が滲み出していた。

「……あれ、本当に空間の掌握じゃ吹っ飛ばないんですね」

 効いてそうですし、いいですけどね。そう言い放つレイバーの言葉に、ウィルは心底苛立っていた。大抵の刃物が通じない事は決して嘘ではない。ウィルの屈強な身体すら斬り裂く騎士の一撃が常軌を逸している、それだけだった。レイバーの空間の掌握も大して効いていない。口元からの血は奥歯を噛み締め過ぎただけである。反論しようにも、この場では全くといっていいほど役に立つものではない。

 ウィルは状況を脱するためアノンへ近付き、抱えて逃げようとしたが、急に視界が眩み出し、地に膝を付けていた。

「……あ?なんだこりゃ……」

 ウィルの怪訝な顔に、レイバーは嬉しそうに笑いながら歩み寄る。

「あはー、ようやく効いてきましたね、痺れ薬。僕らが持ってる武器全部に塗っておいたんですよ。アノン中尉用の抑制剤とは別にね」

「くそ野郎が……」

 ウィルは咳き込み、それでも片膝以外、地に付けていなかった。その様子を見てレイバーは呆れ顔を浮かべる。

「この痺れ薬、大の大人が数人はころっと死ぬ量を塗ってあったはずなんですけど……」

 ウィルが眩む視界の中、アノンに僅かでも近づこうとする姿勢をレイバーは横から蹴り飛ばすが、ウィルは全く動じなかった。逆に足を取ろうとウィルは反射的に手を伸ばすが、レイバーにかわされ、ウィルの手は宙を泳ぐだけだった。

「うは、危なっ、しかも硬っ……蹴った僕の方が痛い……」

「ウィル少佐……ぐぅ」

 アノンの呻き声にウィルは視線を向けるが、既に視界は途絶えかけ、周囲の状況すら判然としなかった。いつのまにかアノンに接近していたのだろう、覆面がアノンの前髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。覆面は手にした短刀を振り上げ、アノンを突き刺そうとするが、レイバーがそれを制していた。

「覆面さん、待って下さい。その角度じゃ核を傷付けちゃいますよ、もったいない」

「……そんな事は承知している、邪魔をするな」

「あー、はい、そうですか。気を付けて下さいよ、ほんと」

 覆面とレイバーのやり取りに嫌悪感しか抱かないウィルは、痙攣する全身を奮い立たせ、アノンへと近付こうとする。その動きを騎士に察知され、両手剣が再度振りかざされていた。

「ウィル少佐、ウィル少佐!逃げて下さい、逃げて!」

 アノンの悲痛な叫びが響き、騎士の両手剣が、覆面の短刀が、それぞれに襲い掛かる瞬間だった。ウィルの一撃にも耐えた騎士が、呻きを上げて宙へと僅かに浮かんでいた。最も厚みのあるはずの板金鎧の胸元が窪み、ヒビ割れが生じている。何者かの正拳をまともに受け、騎士は数歩たたらを踏む。覆面も状況の変化を察し、短刀を止めていた。

「私の愚息だ、触れるな」

 いつもは耳障りなその声も、今のウィルにとってこれ以上にないほど心強い援軍だった。

 目が見えずとも脳裏に刻まれる流麗な黒の長髪に、おそらく敵を見据えているのだろう切れ長の目、不遜な態度が際立つその物腰。間違いない、イーレ=ヴェレンス大将だった。

「……え、いやいや、気配なかったんですけど」

 言って構えるレイバーだったが、既に先程まで居た空間にヴェレンスの姿はなかった。

「どこを見ているんだ、レイバー士長」

 ヴェレンスの言葉に振り返ろうとするレイバーだったが、ヴェレンスの裏拳をこめかみに食らい、悶絶しながら手近にあった木へと殴り飛ばされていた。覆面は後退り、逃げの姿勢を見せる。ヴェレンスはそれを許さなかった。一瞬で距離を詰めたヴェレンスの右手の手刀で付け根から左腕ごと斬り飛ばされ、覆面は絶叫を上げる。

「ぐううううっ!貴様ぁあああ!」

「……ん、聞き覚えのある声だな」

 覆面は左の肩口を抑え、更にヴェレンスから距離を取る。空間が軋みを上げて亀裂が生み出され、覆面が逃げ込もうとする。

「逃がすと思うのか、阿呆だろ」

 言って追撃をかけようとするヴェレンスに騎士が咆哮を上げて襲いかかる。騎士は両手剣を再度水平に払うが、ヴェレンスは踵を返してそれを飛び避け、半回転しながら左の正拳を騎士の兜へと命中させる。板金を幾重にも重ねたはずの兜は鈍い音と共にヒビ割れが生じ、連続で撃ち出されるヴェレンスの拳に板金は徐々に剥がされていった。騎士が劣勢と見るや立ち直ったレイバーが間に割って入り、空間を掌握して障壁を幾重にも展開していた。

「撤退しますよ、騎士さん」

「小細工だな」

 レイバーの言葉とヴェレンスの言葉が重なり、レイバーが騎士を掴んで空中へ逃げようとする隙を狙い連続で蹴りを繰り出すヴェレンスだったが、レイバーと騎士を囲うように展開された障壁に阻まれその一撃は届きそうにもなかった。対モンド戦で見せたウィルの障壁を殴り付けた音の何倍もの凶悪さを秘めた音にレイバーはたじろぎ必死に逃げ続け距離を取る。

「怖っ、怖すぎ」

 茶化した物言いのレイバーを見上げ、ヴェレンスは舌打ちをする。自身の愛用している武器を本部に置いてきたのは失態だったか。素手では埒が明きそうになかった。ヴェレンスは腰部の収納帯から霊石を加工した指弾用の弾頭を複数取り出し、レイバーと騎士目掛け連続で撃ち出していた。

「そんなもん効く訳ないでしょ」

 障壁張ってるんですよ、そう言い放つ予定のレイバーだったが、大気を切り裂いて飛来するその弾頭は、幾重にも展開した障壁を容易く貫通し、レイバーは左足と右手を撃ち抜かれ、騎士の兜は撃ち砕かれていた。レイバーは驚愕の表情と悲鳴を上げる。

「うぁああ!ありえねぇ!ありえねぇって!」

 レイバーの悲鳴と共に空間は軋みを上げ、亀裂が生じる。レイバーは騎士を盾にするように自分から亀裂へと入り、続いてレイバーが中で引きずるように騎士が亀裂へと入ろうとしていた。砕かれた兜から覗かせる騎士の素顔は、透き通るような短めの金髪に、目鼻立ちがくっきりとした中性的な顔立ちで、ヴェレンスはどこかで見覚えのある顔だった。

「……ふむ、そういうことか」

 ヴェレンスの声に答える者は誰も居なかった。ヴェレンスは周囲を確認するが、覆面も既に退却済みであり、空中に出来た亀裂も今や影も形もなくなっていた。ヴェレンスは一息吐くとウィルを見下す。

「おい、愚息、立て」

 ヴェレンスは言うとウィルの脇腹を蹴り上げ、ウィルに呻き声を上げさせる。残念ながら生きているようだった。愚息がここまで動けなくなるのは私が打ちのめした後か、猛獣用の神経毒でも打たれた時ぐらいだろう。ヴェレンスは一人頷くと、続いてアノンに目線を向け、静かに歩み寄り声をかける。

「アノン中尉、意識はあるか」

 ヴェレンスの言葉に呻き声が上がるばかりで、アノンからもはっきりとした応答はなかった。ヴェレンスはアノンの喉に手を当て目を細める。体温が異常に高いが、呼吸は浅い。おそらく抑制剤が打たれている。ヴェレンスは正しく状況を把握していた。通信機に手を当て、応答した通信士に対し、衛生兵を派遣するように指示を出す。

「所在はネイバーハッド近隣の森、地点アルファの五、神経毒と抑制剤を打たれたと思われる部下を発見、保護した……そうだ、早急に来てくれ、以上だ」

 ヴェレンスは通信を切り、腰に手を付き溜め息を吐いていた。

 飛んだ災難だった。愚息が何やら可愛い部下と密談でもしている所を茶化してやろうと思っていたのに、なんだ、この体たらくは。不甲斐ないにも程がある。愚息の事だ。もう一度蹴り上げてやろうかとヴェレンスは足を振り上げるが、通信機の着信に気付き、ヴェレンスは蹴り上げるのを一旦中止せざるを得なかった。

「私だ」

 いつもの口調で部下からの報告を淡々と聞いていたヴェレンスだったが、ネイバーハッド町内の診療所で中央管理軍の軍人二名、及び人造兵器一体が殺害されているとの報告に表情を曇らせていた。

「そうか、分かった。見分が終わり次第、弔ってやれ。以上だ」

 ヴェレンスは通信機を切り、空を見上げる。

「……今日は部下がよく死ぬ日だな」

 一言だけそう呟き、ヴェレンスは目を閉じる。必ず首謀者には報いを受けさせる。それまで待っていてくれよ。必ずだ。一人足りとも残さずお前達に送ってやる。ヴェレンスは括目し、周囲を探っていた。衛生兵達の到着が近いのだろう、続々とここへ近づく気配を察し、ヴェレンスはそれ以上なにも言わなかった。

 強い風が吹き、木々は騒めきを高めるはずが、ヴェレンスの怒気を感じたのだろうか、木々は鳴りを潜め、嵐が去るのを待つように、静かに佇んでいるだけだった。

 翌日の早朝、ネイバーハッド町内は前日にも増して騒然としていた。国内の衛兵ばかりか、かの戦闘集団と名高い中央管理軍が数多く駐留する夜中に、人造兵器を含む軍人三名が診療所で殺害され、近隣の森では町を救った英雄として扱われていたウィル少佐とアノン中尉が、何者かの襲撃を受け大怪我をしたという噂が町内に蔓延していたからだった。

「恥を知れ」

 ヴェレンスはウィルとアノンが横たわる寝台の傍の椅子に腰かけ、足を組んでそう言い放つ。無論ウィルに対してである。

「……面目ねぇ」

「すみません」

 気を落とすウィルに、アノンも加えて頭を下げる。昨夜から付きっ切りで治療に当たっていた衛生兵達は安堵の表情を浮かべ、ヴェレンスに気を使ったのか、ネイバーハッド近郊に配されている中央管理軍の医療テントから姿を消していた。ヴェレンスの怒りに巻き込まれたくないだけかもしれないが。

 ウィルは身体を起こすと、寝台の上で両腕を回し、首を左右に鳴らして異常がないか確認を行う一方で、アノンは未だに身体の自由が取り戻せないでいた。

「今回の騒動で何名が殉職したか、貴様は把握しているのか」

 ヴェレンスがウィルに問う。

「前日の早朝の一件で四名、深夜に三名、計七名……であります」

「その通りだ。で、貴様はなにをしていた」

 ヴェレンスの鋭い目付きに、ウィルは押し黙る。アノンは二人のやり取りを見て、一言でも二言でもヴェレンスに言わねば気が済まなかった。確かに七名が殉職したが、それはウィルが到着する前の話しと、町を離れていた深夜の出来事である。ウィルに全ての責任があるとは到底言えないはずだった。少なくとも町を離れていた深夜の一件はアノンにも多分に責任があった。自身が話しをしたいと誘わなければ、ウィルの野性的な感が働き、被害は少なかったかもしれない。アノンは意を決し、ヴェレンスへ具申しようとした。

「あ、あのっ」

「黙れ、アノン中尉」

 思わずアノンは息を飲んでいた。全てを察しているようなヴェレンスの視線に、喉元どころか身体全体が氷付いたように動くのを拒否している。それだけの圧があった。

「前日の早朝の一件、その首謀者はお前達が鎮圧した。その事実に代わりはない。ビシャスという名の主犯格を一人取り逃してな」

 ヴェレンスの言葉が二人を貫いていく。

「深夜の一件はどうだ。私も含め、誰も主犯格の姿を見ていない上、私の愚息とその部下は近隣の森で襲撃を受ける体たらくぶりだ」

 ヴェレンスは唇を噛み、視線を落としていた。死ななくても良かった者達ばかりが逝き、打つべき者達は全てとは言えないにしろ、取り逃している現実がそこにあった。

「私は言ったな、制圧しろ、完全に、とな」

 押し黙り続けるウィルはヴェレンスを見返し、ヴェレンスの代わりに言葉を続ける。

「二言はない、そうだろ」

「……その通りだ、分かっているじゃないか」

 ウィルの言葉を聞き、ヴェレンスは不敵な笑みを浮かべる。

「昨晩襲撃をかけてきたのはシーヴォリー王立国領事館勤務のレイバーだった。指揮官はステイル中佐だが、事情聴取をするべきでは」

「あぁ、ステイルは失踪した、昨日な」

「……へ?」

 間の抜けた声を出すウィルを睨み付け、ヴェレンスが言葉を続ける。

「貴様達が寝呆けている間に当然、手は打ってある。居なかったよ、領事館は誰もな。もぬけの殻だった」

 ヴェレンスの言葉に、ウィルは呆れた顔を向ける。

「関与を自白しているも同然じゃねぇか……」

「そうとも限らんがな」

「……というと?」

「貴様達には我が組織の本部内での情報伝達に不備があったと前に伝えてあるな。その時に関わったと見られる軍人のほとんどが、取り調べ中、もしくは免職後、命を自ら断っていた」

 眉を潜め、ウィルが首を傾げる。

「どういう事だ、そんなきつい取り調べでもやっちまったのか」

「……貴様は相変わらず阿呆だな。やる訳がないだろう、大した事案とも当時は取られていなかったからな。退屈極まりない形式ばった取り調べ程度だ。死ぬほど眠たくなるのに変わりはないが、命を絶つほどではないだろう。にも関わらず、全員が例外なく自決している。まるでなにかに憑りつかれたようにな」

「おいおい、それってつまり」

 ウィルの言葉に、ヴェレンスは頷く。

「洗脳だな。もしくは外部から操作され、意図的に口封じされていると見て間違いないだろう。下劣極まりないやり方だ。私が知るステイルという男は痴れ者ではあるが、洗脳だ操作だと行える専門的な技術はなに一つ持ち合わせていない男だ」

「……ステイル中佐も洗脳されていたって事か」

「単に踊らされているだけかもしれんがな」

 昨夜の襲撃がなければ、にわかに信じ難い話しではあったが、ウィルには多少なりとも主犯格に心当たりがあった。いくら自身が人造兵器だったとしても、容易に製造出来ない抑制剤を特別に濃縮したと宣い、ウィルをも行動不能にした痺れ薬の持ち主。

「……レイバーなのか、黒幕は」

 ウィルの予測に、ヴェレンスは首を左右に振る。

「シーヴォリー王立国内の全土を跨いで亀裂の兆候を発生させ、狙いは判然としないが、国ごと沈めようとしている輩だ。レイバー一人が動いたところで、影響はたかが知れている。ここまでの事態に発展させるには、決定的に人手が足りん」

 ヴェレンスは足を組み直し、視線をウィルとアノンの手荷物へと向けていた。

「貴様達は昨夜、上空数百メートルまで高度を上げ、内密な話しをしていたと報告を聞いたが、正しいか」

「……あぁ、そうだが、なにか引っかかるのか」

 ウィルの言葉に、ヴェレンスは呆れた表情を浮かべる。

「仮に、レイバーが貴様達を目視で確認し、位置を概ね把握出来ていたとしても、昨夜の襲撃は正確過ぎたと思わないか」

 ヴェレンスの投げかけた言葉が、ウィルの思考に波紋を投げかける。

「容易ではないぞ。音も聞こえぬ遥か上空の標的を索敵し、射貫くなどな。もし独力でやったとするなら、獣か、超人の域だ。だがもし、索敵しやすい状況が貴様らにあればどうだ。容易とは思わんか」

 言ってヴェレンスは立ち上がると、ウィルの収納帯を手に取り、中身を物色し始める。

「……おい、待て……いや、まぁいい」

「なんだ、親に見られて恥ずかしいものでも常時携帯しているのか、貴様は」

「ねぇよ、そんなもん」

「だろうな」

 次々とウィルの収納帯から荷物を取り出してはウィルの寝台へと放り投げるヴェレンス。その中には手製の爆薬も含まれており、寝台に到達する前にウィルが空中で受け取っていた。端から見ているだけで冷や汗ものの光景に、アノンも絶句していた。

「ふむ、これはなんだ」

 ヴェレンスの目に止まり、右手の人差し指と中指で挟むその物体は、銅製と思われる手の平サイズの紋章だった。アノンは何かに気付き、声を上げていた。

「それは、ストラグル教団の大神官であるファゴット神父から頂いたものです。国内で活動する際に、教団が関わる場所であれば協力を仰げるようになると言ってました」

「ほう、で、活用する機会はあったのか」

「あー……いえ、まだ一回も」

 アノンの言葉が終わるが早いか、ヴェレンスはその紋章を右の手の平に乗せ、果実でも握り潰すような自然さで紋章を握り割っていた。

「えぇー……」

 アノンの開いた口は塞がらなかったが、代わりに銅製だと思われていた紋章は砕けて木片が散らばり、表面を銅製のように見せかけていただけの木材と判明する。だがそれでは重さの違いですぐバレそうなものだったが紋章の中から得体の知れない紫色の石が顕わになっていた。

「これだろうな、貴様達の位置を知らせていたものは。何かは知らんが」

「……こんなもんで位置なんて分かるのかよ」

 怪訝な表情を浮かべるウィルに、ヴェレンスの眉間が一瞬反応していた。

「貴様、新兵からやり直したいのか」

「……面目ねぇ」

 ヴェレンスの怒気にウィルの危機を察したアノンが、救いの手を差し伸べていた。

「我々人造兵器の位置情報は、内部に核として存在する霊石を通して本部に伝達され、常に把握されています。おそらくですが、その紫色の石も、同様の活用が見込めるのではないでしょうか」

「アノン中尉、満点だ。ウィルと階級を取り換えようか」

 ヴェレンスの意地悪そうな表情に、アノンは全力で否定する。

「未だ嫌疑の段階だが、もしストラグル教団がレイバーと手を組み、または先導して事を成していたとすれば、人手不足は解消されるな」

「……まさか、あのファゴット神父が黒幕って事ですか」

「そうとも限らんがな。貴様達、発言の度合いが似たり寄ったりのレベルだぞ、大丈夫か」

「……面目ありません」

 ヴェレンスはアノンにも呆れたのか、溜め息を吐いていた。

「まぁいい。ファゴット神父には任意という名の半ば強制で聴取を行うとしよう。アノン、貴様の紋章も差し出せ」

「は、はい」

 アノンはヴェレンスの言う通り手荷物を手繰り寄せ、紋章を探っていた。

「ほう、さすがに回復が早いな。もう身を起こせるようになったのか」

「……えっと、治療に当たって頂いた方の技量が高かったからではないでしょうか」

 ヴェレンスの言葉に恐縮しながら、アノンは紋章を探り当て、ヴェレンスへと渡す。

「謙虚な姿勢は良い事だ。それを忘れるな。ウィル、お前に言っているんだ」

「へいへい」

「ちょ、ちょっと、ウィル少佐!」

 ウィルとアノンのやり取りを見ながら、ヴェレンスは表情を変える事なく医療テントの出口へと歩み出す。途中思い出したかのようにヴェレンスは振り返り、二人へと向き合う。

「体調は数日で戻せ。貴様達には同行してもらいたい場所があってな。またこちらから連絡を入れさせる。それまでは療養しろ、以上だ」

 そう言い終わると今度こそヴェレンスは医療テントを後にし、戻る事はなかった。嵐が過ぎ去ったような医療テントの中はウィルとアノンの二人だけとなり、沈黙が降りる。

 ウィルはアノンに背を向け、寝台へと不貞寝していた。気付かれないように奥歯を噛み締め、拳を握り込む。昨夜の襲撃にヴェレンスがもし援軍として現れなければ、自身どころか、アノンまでも殺害され、一連の騒動は根深さを一層増していただろう。

 完全に、そして生まれて初めての、ウィルの敗北だった。敵対勢力と相対した時、ウィルは今までこと戦闘において負けた事がなかった。初めての経験がウィルを蝕み、ウィルはアノンにどう顔向けしていいのか分からなくなっていた。

 途方もなく強いウィルが久方ぶりに味わう孤独と挫折だったのだ。霧雨の悪夢の中に置いてきたはずの感傷が湧き出し、ウィルの身体は微かに震えていた。アノンはウィルの変調に気付きながら、どう対応していいのか、分からなかった。アノンも同様の悩みを抱えていたからだ。ヴェレンス大将は言っていた。謙虚な姿勢は良い事だと。敵対していたゲイルさえも、自分に対して最強だと勘違いしているんじゃないかと言っていた。

 それは的を得ていたのだ。ほぼ全ての人造兵器が出来ない、又は持続出来ない事を自分は平然とやってのけてしまう。自然と自分は優れているのだと勘違いし、責任を背負う一方の人生だった。劣等感を抱いたレイバーと向き合い、同情に似た感傷にも浸っていたかもしれない。それが今回の油断を呼び込み、結果、大事な人まで失いかけてしまった。慢心だった。

 ウィルとアノンは会話のないまま夕方を迎え、食事の時間になっていた。二人の毒素を追い出すための薬剤と、薬用粥、少量の肉と油、そして野菜のスープだった。適度に温められた粥を口にし、頬張り過ぎたのか、アノンはむせていた。

「大丈夫か、アノン」

「……はい」

 ウィルも粥を頬張り、野菜のスープに手をかけていた。

「美味いな」

「……はい」

 短く交わされる二人の会話に、いつの間にかアノンの手元はぼやけ、気付くと涙が溢れ出していた。無言で頬張り続ける二人にそれ以上の言葉はなかった。

 昨晩、ライアンと約束した。後は任せて置けと。そして今日、ヴェレンスと確認した。完全に制圧すると。失った機会と、仲間は決して戻りはしない。自身が招いた慢心も、油断も、取り戻せる訳ではなかった。それでもウィルとアノンの眼には光が戻り、強い意思が宿り始める。時は夕暮れ、世界の境界が曖昧になる一瞬。空間の軋みなど一切なく、優しく沁み渡るような夕日が医療テントを包み込む中、二人は新しい世界へと歩み出そうとしていた。

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