第四章 調査
シーヴォリー王立国は農業が盛んな国柄、特産品も多い。その一つが葡萄だった。芳醇な香りに爽やかな甘さ、菓子に酒にと用途は多岐に渡る。ウィルは特に、シーヴォリー産の葡萄酒に目がなかった。門衛塔の地下牢からステイルと共に外へ出たウィルは、街道を荷馬車で往来する商人達を見て、その事を思い出していた。投降してから半日以上、ほぼ何も口にしていない。地下牢で提供される食事に手を出す気にはなれなかった。一服盛られている可能性を考慮し、水も最低限、口に含ませるだけ。今は太陽の位置から察するに昼時だろうか。ウィルの腹の虫が鳴いていた。
「おや、空腹かね。領事館までもう少しだ、何か作らせよう」
「……いえ、お気遣いなく」
「そうかね、毒なぞ盛らんよ、部下にはね」
ステイルは後ろを歩くウィルに目を配り、含み笑いで告げていた。ウィルは思う。信用は置けない。ステイルに限らず、ウィルは誰にでもそのように接していた。一部例外は居る。だが取り分けうちの組織の幹部職には海千山千の変わり者が多い。ウィル自身も含めて。だからこそなにをするにも用心に越した事はなかった。
二人は城壁から少し離れた街道を進み、川沿いに建てられた中央管理軍の領事館に差し掛かろうとしていた。
「城壁の正門から程よく近くてね、便利なものだよ。君が収容されていた門衛塔とは少しばかり離れているがな。あれだよ、あの赤い建物」
ステイルの右手で指差す方向に、遠目からでも落ち着いた赤を基調とする外装の建物が見て取れる。二階建てで少し古めかしい。ブラッドウッド材でも使用しているのだろうか。シーヴォリー王立国の領土は盆地が多いと聞く。あの手の材木は入手困難のはずだ。ウィルの怪訝な顔にステイルは気付き、領事館に目を配るウィルを見て状況を察していた。
「余計な予算は使っておらんよ。あれは開国当時の貴族の屋敷でね、当主は没し、後を継ぐ者も居ない。借り手が付かなかった。ついには取り壊す予定だったものを組織が借り上げたそうだ。私は建物自体より、立地が気に入っているがね」
ステイルは言いながら、腰を片手で弱く叩いていた。内勤ばかりで現場に出ないとは言え、体力が無さすぎるのではないか。四十半ばのステイルは少々の路程に息を乱し、身体が痛いと一人愚痴を吐いていた。ウィルはそれに付き合う気はなかったが、行先が同じでは逃げられない。領事館にはアノンが居るはずだった。無事釈放され、領事館にて待っている。ステイルの部下の連絡だった。領事館に近づくと、一人の少年が出迎えていた。ステイルはその少年に声をかける。
「さて、着いたね、レイバー、彼がウィル少佐だ。ウィル少佐、この子はレイバー士長、私の部下だ」
ステイルの言葉に頭を下げ、レイバーはウィルに向き合っていた。肩口までの銀髪に青い目、身の丈は百六十程度だろうか、男性用の制服を見に纏っていなければ、女性に間違えていただろう。端整な容姿をしていた。
「レイバーと申します、宜しくお願いします」
「あぁ、宜しく頼む。アノン中尉は中に居るか」
「はい、中でお待ちになっております。ご案内します」
レイバーは言い終わると領事館の扉を丁寧に開け、ステイル、ウィルの順に通った後、音を立てないように慎重に扉を閉めていた。領事館の中は貴族の屋敷だったこともあり装飾品はどれもシンプルであったが、気品に溢れる品揃えだった。外装同様赤で統一された家具類、モダンな様相、その中央階段の麓に立つレイバーも映えて写り、まるで一枚の絵画のようだった。
「こちら中央階段を昇りまして左手、執務室の手前にあります、応接間にてアノン中尉はお待ちです」
一切の無駄な動きもなく、レイバーは中央階段を昇っていく。まるで劇の一幕のような瞬間だった。ステイルも後に続くが、やはり疲れていたのだろう。一段昇る度、溜め息を吐く。優雅さとはかけ離れていった。私は執務室で資料を用意する、お茶を入れてやれ、ステイルはレイバーにそう告げると一人執務室へと入っていった。レイバーは応接間の扉を開け、こちらですとウィルを促す。悪いな、ウィルの言葉に頭を下げるレイバー。応接間に入ると、豪勢な応対用テーブルに椅子が整然と並べられており、その中に見知った顔が座っていた。
「ウィル少佐!」
「よう、元気そうだな」
アノンは飛び起き、ウィルの傍へと駆け寄っていた。
「ご無事で……暴れなかったんですね」
「一国の正規軍相手にそうそう暴れねぇよ、めんどくせぇ」
「あら、私が居なくても良い子にしてたんですね、偉いですよ、ウィル少佐」
「なんだと思ってる訳、俺の事……」
ウィルとアノンの会話に、微笑むレイバー。お茶を入れてきます、お待ち下さいと言葉を残し、応接間の扉を閉め立ち去っていく。ウィルの表情に陰りが差していた。
「なにもされなかったか、アノン」
「はい、なにも」
アノンは即答する。ウィルの心配は痛いほど伝わっていた。今回の対応はどうすればよかったのか、最善手は打てたのか、私に対して迷惑をかけてしまったのではないか、ウィルは見た目によらず心配性で、心が弱かった。寂しがり屋なのだろう。彼のこれまでを考えれば、仕方のないことだった。乱暴に見えて情に深い。アノンは話題を変えていた。
「新しい任務が付与されるそうですね。内容、聞いてますか」
「いや、まだ聞いてない」
ウィルの回答に、頷くアノン。
「私も聞かされていませんが、検討は付きます。ちょっとまずい状況ですね」
アノンの言葉に、ウィルは怪訝な顔を向ける。
「国境付近では先の亀裂以外、反応が広範囲というか、微弱過ぎて判断に迷ってしまって。私の探知能力に誤作動が起きているのかと疑ってたんですが、国内に入って確信に変わりました。実はその」
アノンが続きを話そうとした丁度その時、扉を優しく叩く音が聞こえた。入ります、レイバーの声だった。ウィルとアノンは見合わせ、話しを後に手近な席に座る。一呼吸を置き、レイバーはゆっくりと扉を開け、応接間へと入っていた。
「失礼致します。シーヴォリー国産の紅茶になります。お入れしますね」
レイバーは丁寧に茶器をテーブルへと並べ、茶葉を茶器へと移し、熱湯を高い位置から注ぐ。少々蒸らします、そう言い終えると今度は茶菓子を取り出し、二人の前へ差し出していた。蒸れる茶葉から立ち上る湯気に、上質な香りが広がっていく。思わずウィルの腹の虫が目を覚ましていた。
「……あ、えっと、なにかお作りしましょうか」
レイバーの気遣う応対に、ウィルは申し訳なさそうに答える。
「気にしないでくれ、茶で十分だ」
アノンは素直に笑っていたが、レイバーは苦笑に留まっていた。後輩にあまり気を使わせたくなかったが、腹が減っては仕方がない。後で何か食いに行こう。一時の段落の後、扉が勢いよく開く音がした。資料を両脇に抱えたステイルが応接間へと入ってくる。肩か足で開けたのだろう、行儀がよいとは言えなかった。
「扉を開けておけと指示しただろう、レイバー、何をしていた」
「申し訳ありません」
ステイルの怒声に、頭を下げるレイバー。一言もそんな事言ってねぇけどな、ウィルは隣のアノンだけに聞こえるように呟く。レイバー君なら事前に指示があればやってますよね絶対、アノンも同調していた。
「なにか言ったかね、ウィル少佐、アノン中尉」
思いのほかステイルは耳がいいようだ。ウィルは苦笑せざるを得なかった。
「まぁいい、新しい任務の話しだ、資料に目を通してくれ」
ステイルは吐き捨てるようにそう言うと、レイバーに資料を全て渡し、ウィルとアノンに対するように椅子に腰かけた。レイバーは資料を選り分け、二人へと差し出す。資料は報告書類とシーヴォリー王立国の地図で構成されており、地図には小さな黒い×印が多数書き込まれていた。国内を埋め尽くす×印。良い意味での記号には見えなかった。
「渡した資料の内、地図を見てもらいたい。近年シーヴォリー王立国内で起きた亀裂の発生箇所だ。過去に類を見ない頻度で発生している。本部には報告しているが、まだ内密の話しだ。言うまでもないが、他言無用だよ」
ステイルが襟元を緩め、椅子に深く座り、溜め息を吐く。ウィルも唖然とする他なかった。
「異常、としか表現出来ませんね」
「左様、異常だ」
たった一つの亀裂が町や村を崩壊させる。地図には少なくとも三十を超える箇所に×印が記されていた。一体どれほどの被害があったのか、想像すら出来ない。ウィルは急ぎ報告書類を確認するが、被害状況は軽微なものだった。中央管理軍が動員された記述も見当たらない。ウィルに困惑が広がっていた。
「気付いたかね、ウィル少佐。この国はね、独自に亀裂修復の技術を確立し、事態に対処している。我々の与り知らぬところでな」
ステイルが目を細める。有り得ない、正直なウィルの思いだった。技術の独占を謳う訳ではないが、事は亀裂の発生である。修復に失敗すれば周囲に甚大な被害が及ぶ。一国の問題ではないのだ。連合国条約にも亀裂が発生した場合、連合国政府及び中央管理軍に対し速やかに報告する旨が明文化されている。明確な条約違反だった。
「条約の穴とも言うべき事態だろうね、亀裂が発生し、報告義務が生じたとしても、亀裂自体を修復してしまえばなかった事に出来る。自殺行為に等しいが、技術の発展は望めるね。まぁ割りに合うかは疑問ではあるよ、なにせ修復には人造兵器の生産が不可欠だ」
ステイルの言う通りだった。亀裂修復の技術を確立する、言葉にすれば至極単純であるが、事はそう簡単ではない。亀裂の探知、修復要員の出動、失敗に際しての凍結準備、そして人造兵器の生産、課題は山積みなのである。
「特に人造兵器の核となる霊石が希少でね、市場では純度の低い粗悪品でも高値で取引されている。まぁこの国は霊石のホットスポット、産石国だからね、資源も金もそれなりに持っているだろう。問題は、どこで技術を手に入れたのか検討が付いておらん。難儀なものだよ」
ステイルの言葉に、アノンが僅かに反応を示していた。純度の低い粗悪品、ステイルは確かにそう発言した。人造兵器を消耗品扱いする類の人種。多数派の意見。ウィルは少数派だった。慣れて、流して、諦めるに至った。それでも面と表現されると心が痛む。ステイルは気にも留めず話しを続ける。
「人工義体の生成、霊石の核化、そして人造兵器への教育、どれも一筋縄ではいかないものだよ。我々以外にこれらの技術を有している組織及び個人は多くない。それらにも一斉に捜査が及ぶだろう。丁度良い、とは言葉が悪いかもしれんがね、優秀と名高い君達二人が現場に居るのも何かの縁、本部にも了解を得たが、君達に任務を与える事になった」
ウィルは資料をテーブルへ投げ置き、一言返答する。
「内容は?」
ウィルの言葉に、ステイルは眉をひそめる。
「噂通り、優秀だが粗暴なようだね、ウィル少佐」
ウィルの態度にステイルの評価、応接間の空気は重くなる一方だった。黙して睨み合うウィルとステイル。沈黙はステイルが破っていた。
「まぁいい、任務の主な内容は二点、一つはシーヴォリー王立国内で頻繁に亀裂が発生している要因の実地調査、もう一つは亀裂修復の一連の技術を流した組織又は個人の特定だ。公式筋から入手した技術者の名前は偽名だった上に所在も在籍も不明。足取りが掴めていない。この国に潜伏している可能性が懸念されているのでね、捜査に一役買ってもらいたい。内容は以上だが、質問はあるかね」
「特に」
ウィルはあからさまに不機嫌だった。原因はステイルの失言だが、とやかく言っても仕様がない。アノンが代わりに挙手をしていた。ステイルは首で促す。
「アノン中尉、質問を許可する」
「ありがとうございます。質問を一点、現在シーヴォリー王立国内では我々の制服及び活動を模倣し、それらを悪用した犯罪集団が確認されているとの情報が先程の資料にもありましたが、これに遭遇した場合の対処、及び国内で活動する際の留意点をお聞かせ願います」
手を挙げたまま発言するアノンに、ステイルは下げるように指示を出す。
「宜しい、アノン中尉の質問通り、この国では我々への関心は極めて高い。悪い意味でな。よって制服での行動は勧めない。身分証だけを携行し、着替えを調達しろ。経費は後方に申請しておけ。遭遇した場合は検挙して構わん。実地調査にそれも含めておこう」
ステイルの言葉にアノンは頷く。
「あぁ、それと君達にはレイバーを同行させる。二人ともこの国の内部事情に疎い面もあるだろうから、道案内と戦闘補佐、両面からレイバーにバックアップさせよう」
レイバーは頭を下げ、至りましたと発言する。ウィルとアノンは顔を見合わせていた。
「君達が任務に赴く際、コンビで動く事は承知している。その戦果もな。だがこのレイバーもアノン中尉同様、人造兵器だ。経験は浅いが使えるよ。アノン中尉ほど霊石の質は良くないがね」
ステイルの止まぬ失言にウィルは呆れ、アノンは目を細めるだけに留まり、レイバーは反応を示さなかった。アノンと同じ銀髪に青い目、人造兵器特有の容姿。同行の是非を問う気も失せ、ウィルは早々に応接間を出ようと席を立っていた。
「それとウィル少佐、ここは信仰国でもある。ストラグル教団といってな、教えはなんだったか……ともかく大神官殿に面通しが出来るよう手筈を整えておいた。折を見て尋ねるといい。この国で行動するには必要不可欠な人脈だよ」
「了解しました。行くぞアノン、レイバー」
ウィルが促し、アノンも席を立つ。レイバーはステイルに一礼し、二人の後に続いていた。ウィルは思う。やはりステイルとは相容れない。第一印象通りの男だった。三人が応接間を去り、足音が遠ざかるのを確認したステイルは溜め息を吐く。
「扱い辛い奴らだ。そもそも態度が気に入らん。剛勇が売りの大男に、人造兵器風情の小娘、あの女を呼び出すのに最適解だったとは言え、邪魔者が増えてしまったな……」
ステイルは座ったまま足を組み、椅子を小さく指で叩く。
「まぁいい、不良品だが首輪は付けた」
万事に影響無し、必要であれば殺すだけ。あの二人の動向も逐一首輪が報告してくれる。予定と少しずれてしまったが、大筋は達成出来るだろう。昼下がりの陽光が応接間へと差し込み、随所に陰影を刻み込む。明暗が分かれたステイルの顔には、醜悪な笑みが浮かび上がっていた。
シーヴォリー王立国内に置いて最も栄える首都シルヴォリアの人口は二十万人であり、大都市と呼べるほどではなかったが、昼食時の繁華街は活気に満ちていた。店先から立ち上る香ばしい匂いは食欲を掻き立てられ、足が自然と店先へ向かわせる。
支度を終えたウィル一行は、今後の路程の確認と食事を兼ね、繁華街の入口にある豚肉料理店に腰を落ち着かせていた。ウィルの注文した豚肉と野菜、少々のキノコを甘辛く炒めた料理が一行のテーブルへ大皿で運ばれ、三人は箸を進める。
「うまいな、これ、保存食とは天と地の差だ」
「本当に美味しい」
ウィルとアノンの反応に、微笑むレイバー。
「国内では代表的な料理なんです、お気に召したようで、嬉しいです」
店の雑踏に紛れた三人は、端から見れば旅行者と思われる動きやすい服装に着替え終わっていた。ウィルは黒の半袖シャツに濃緑のカーゴパンツ、アノンは明るい青のニットベストにスリムジーンズ、レイバーは紺のパーカーに麻色のスキニーパンツを選択していた。腰部に巻き付ける収納帯が多少目立つが、通信機や武器の類が収納されている。許容範囲と願いたい。気付くとレイバーの箸は進みが遅く、ウィルとアノンに遠慮している節が見受けられた。
「レイバー、気を使わんでいいぞ、食え」
「そうですよレイバー君、この人大食いなので、無くなっちゃいますよ」
二人の気遣いにレイバーは視線を落としていた。どう答えていいか分からないのだろう。ウィルが言葉を続ける。
「気を使うなと言われれば余計に気を使ってしまう性質だろうが、命令だ。緩めろ。これから場合によっちゃどこぞの勢力と命の取り合いになるかもしれんが、お前を盾にも囮にも使うつもりはない。俺やアノンが食い終わるのを待って食うつもりだろうが、アノンの言う通りだ。全部俺が食っちまう前に、少しでも腹に納めておけ」
「……分かりました、頂きます」
ウィルの言葉に、レイバーの箸が進み始める。ステイルの事だ、レイバーにまともな教育も施さず、消耗品として扱っていたのだろう。ウィルはレイバーがステイルの送り込んだ見張りだと読んでいた。読んだ上で、それでも粗雑に扱う気にはなれなかった。レイバーにはレイバーの役目がある。ウィルやアノンも同じだった。やる事は変わらない。
であるならば、一時でもいい、消耗品でも部下でもなく、一人の人間として扱いたかった。博愛とは違う。ウィル個人の価値観だ。組織の幹部職として、多数派にとって、甘いと評されるだろう。それでも自分に嘘を付くよりはいい。
ウィルがアノンの目線を感じ、顔を見合わせる。アノンはにっこりと笑っていた。
「ウィル少佐、食べないと私とレイバー君で全部食べちゃいますよ」
三人の談笑、大皿は空となり、満足感だけが周囲を包み込んでいく。一行が店を後にする頃には宵の口に差し掛かり、日差しがゆっくりと傾き始めていた。季節は春、天気は晴れ、出発するには良い気候だった。
「んで、レイバー、確認なんだが、大神官とやらにまず会いに行きゃいいんだな」
「はい、我々が居るのは現在、中央地区の繁華街です。ここから南地区にあるストラグル教団の本部に向かい、大神官ファゴット神父に会う事が先決となりましょう。国内では方々に影響力を持つお方なので、実施調査を行う際の手助けをして頂ける手筈になっています」
レイバーの言葉に、ウィルはステイルの話しを思い出していた。
「ステイルのおっさんも手筈は整っているとかなんとか言っていたが、他言無用の任務だよな。そのファゴット神父は例外なのか」
「お、おっさんですか……」
ウィルの発言に狼狽するレイバーだったが、一呼吸を置き、話しを続ける。
「今回の亀裂の大量発生に伴い、グリス国王筆頭に国内会議が招集され、対策を練られておりました。その出席者に、ステイル中佐、ファゴット神父も名を連ねており、事情に精通されているお方なのです」
「なるほどね」
国策に集客力の高い宗教団体が絡んでくる事はよくあるが、多分に漏れずこの国もそうなのだろう。政治にウィルは疎かったが、見れば分かることもあった。繁華街から中央道を抜け、南地区の手前に来るまでの間、家屋や建物には両手が交差した紋章が掲げられており、レイバーの話しでは大多数の国民はストラグル教団の信徒だった。
「見えてきましたね、あちらが中央地区と南地区を分ける地区門と、二つの地区に跨る聖画像の広場になります」
繁華街から歩いて数十分の距離、レイバーが指し示す広場には聖画像が配され、見渡す限りの献花で彩られていた。近年まで国内に数ある団体の一つだったストラグル教団がここまで勢力を伸ばした理由は、聖画像に描かれた聖女の存在だった。
「残念ながら昨年の折、聖女アンナ様はお隠れになり、今も国民は失意に沈んでいます」
一行は聖画像の前に歩み寄る。そこに描かれたアンナは、短めの金髪に微笑を称え、国民に手を差し伸べていた。アンナの姿はどう見ても成人に達していない。ウィルは設置された石碑に視線を移す。齢十六、奇跡の体現、至上の御業を司る聖女アンナ、ここに眠ると記されていた。死因は明記されていない。ウィルは疑問を口にし、レイバーが答える。
「病死か」
「いえ……その、大きな声では言えませんが、御業の行使による衰弱と思われます」
「どういう事だ」
「聖女アンナ様は、如何なる病状や怪我も触れるだけで完治させる御業の使い手でした。原理は解明されていませんが、おそらく自身の命を分け与える事が可能だったのではないかと言われています」
レイバーの伝え聞いた話しが事実であるなら、アンナの死因は命の過剰な摩耗だった。絶大な能力には、絶大な代償が伴う。近しい間柄に、似た境遇の者が居るウィルにとって、他人事とは思えなかった。ウィルは思わずアノンに目線を移すが、アノンは不思議そうにウィルを見つめ返していた。
「どうしたんですか、ウィル少佐」
「……いや、なんでもねぇよ」
アノンに忠告しても無駄な事は経験が物語っていた。自分の命を軽く扱っている訳ではないのだろうが、とぼけた態度の裏には、決意を秘めている、アノンはそういう性格だった。ならば相棒として出来る事は一つだけ。負担を少しでも軽減し障害は残らず蹴散らしてしまえばいい。ウィルは小細工が苦手だった。目的が単純であればあるほど実力を発揮出来る。亀裂の修復に人造兵器を用いらない方法を手に入れるまで、それ一つに集中する。今はそれしかない。
一行は広場を抜け、地区門を通り、中央地区から南地区へと歩み出ていた。
「門番の人立ってましたけど、通行証とか、身分証を見せるとか、そういうの必要ないんですか」
アノンがレイバーに問う。レイバーは歩みを遅めずに目線だけアノンに向ける。
「国内の各地区門は、夜間を除いて通行可能なんです。一時期は通行証も存在していたのですが、利権が絡んでは商業の妨げになるとアーノルド国王が廃されてしまって……グリス国王は反対されていたようですが」
「一つの国に、二人の王ですか、正直なところやりにくそうですよね、色々」
「どうでしょうか……先代はお一人で、現在はお二人で国を統治されています。意見のぶつかり合いこそが国を発展させる、アーノルド国王のお言葉ですが、グリス国王も賛成された事なんです。二人の国王に、十一人の国務大臣、発議は国王のみに権限が与えられ、決議は国務大臣を含む十三人で多数決を取ります」
「んん、ややこしいですね……」
アノンも政治には疎かった。ウィルは黙して歩みを続けている。
「それほど難しい事ではありませんよ、新規事業を立ち上げたりするのは審査が通らねば出来ず、用地も国が配分していますので社会主義に近い性質はありますが、法や取り決めに関しては民主主義が色濃く反映されており、重要案件は国民投票も行われます」
「な、なるほど」
アノンの反応にレイバーは苦笑し、進路に視線を戻していた。南地区から入ってほどなくの距離に、ストラグル教団の本部だろう、ひと際目立つ巨大な紋章を掲げた教会が見える。教会の正面から左右に塔が配置され、真新しさを感じさせる外装だった。建築されたばかりなのだろう。ウィルがレイバーに問いかける。
「あれだろ、教団の本部」
「はい、ファゴット神父を始め、教団の方々の詰め所にもなっています。一階部分には大聖堂があり、信徒でなくても教義の聴講が出来るそうです。僕は領事館務めで足を運ぶ機会はありませんでしたが、多くの信徒が日々通っているそうですよ」
レイバーの言う通り、一行と進路を同じくする人は途切れる事なく、これから聴講があるのだろう、正面口から大聖堂に入っていく集団が居た。その集団の誰もが一様に一人の男へ握手を求め、頭を下げていた。黒一色の祭服に身を包む白髪の男。柔和な表情が印象的で、背丈はそれほど高くない。ウィルの視線にレイバーが気付く。
「彼がファゴット神父です、ウィル少佐」
「えらい人気だな」
「そうですね、心の優しい方で、大神官になられた後もよく町村を訪ねて教義を広めているそうです。孤児院の建設や、寄付で経営される無料の学校等、尽くす方と聞いています。昨年お隠れになられた聖女アンナ様のお父上でも在らせられます」
レイバーの言葉に、目を細めるウィル。
「娘さんが亡くなったばかりなのに、大丈夫なのか」
「どうでしょうか……心労からしばらく公の場を控えられていましたが、国内の情勢が荒れるにつれて再び信徒の前に立ち、救いの手を差し伸べているそうですよ」
人の波に紛れ、一行がファゴットに歩み寄る。先に気付いたのはファゴットだった。一行に向けた視線を、手を握り頭を下げる信徒に向け直していた。病気を治すことは私には出来ないが、安らぎを与えるよう努力します、いつもストラグル神は私達の傍に居ますよ、そう信徒に告げる。涙を浮かべながら信徒はゆっくりと手を離し、一礼をすると大聖堂へ入っていった。ファゴット神父は信徒を見送ると、再び一行へ視線を戻していた。レイバーが応じる。
「お久しぶりです、ファゴット神父。本日はご多忙の中お会いして頂き、ありがとうございます」
深々と一礼をするレイバーに応えるように、ファゴットは微笑を浮かべる。
「レイバー君だね、話しは聞いている。かしこまる必要はないよ」
ファゴットはレイバーからウィルとアノンへ顔を向けていた。
「ウィル=ヴィンハレム少佐と、アノン中尉ですね、ファゴットと申します」
「ウィルとアノンで構いません。本日は宜しくお願いします」
言葉と同時にウィルが頭を心なしか下げる。珍しくまともな対応、アノンも続けて頭を下げていた。何かおかしい、アノンは思う。
「どうか顔をお上げ下さい、今や大神官となった身ですが、気さくに接して下さい」
ファゴットの言葉に、そうですかと言い、頭を戻すウィル。続けて疑問を口にしていた。
「レイバーとはお知り合いだったんですね」
「ええ、ずいぶん前になりますが、領事館を尋ねたことがあります。その時に」
ウィルの眼光が鋭くなり、アノンとレイバーが気付く。ファゴットは表情を変えなかった。
「どのような要件で、一国の重要人物が我が組織の領事館に?」
「教義の一環ですよ、ステイル中佐から申し入れがありましたので、伺わせて頂きました。ステイル中佐は同胞ではありませんが、多様な見解も教育の一つだとか、領事館でお働きになられている方々へのご配慮と聞いております。素晴らしい事だと思います」
ファゴットは信徒を同胞と表現した。一般的な事なのか、ウィルには判別出来なかった。
「私に出来る事と言えば、それくらいのものでしかありません。お役に立てるのであれば何処へでも向かいますよ」
「そうですか、不躾な問答を謝罪致します」
「いえ、それよりも本日はお話しがあるとお聞きしておりますので、どうでしょう、奥に応接が出来る部屋がありますので、そちらへ向かいましょう。ここでは人目も引いてしまうでしょうから」
ウィルは同意する。こちらへ、ファゴットの案内と共に一行は、教会の正面口から左手を進み、脇にあった扉から中へと入る。教会の内装は外装と違い、使い込まれた家具や神具が並び、石作りの廊下には松明が灯され、光と影が妖しく揺らいでいた。
いくつもの扉を横目で見ながら通り過ぎ、一番奥の扉から部屋へと入る。ファゴットの執務室だった。ファゴットの執務机もよく使い込まれているのか、年代を感じさせる重厚さがあった。応接用のテーブルは木目調が黒ずみ、シンプルな木造の椅子が並ぶ。執務室の中も松明と蝋燭だけが光源を有し、窓は一つもなかった。代わりに通気口だろうか、天井に二つ真四角な空洞があり、そこから風の音が静かに聞こえてくる。密閉された洞窟のような窮屈さを感じるが、ファゴットに促され一行は椅子に座る。一言目はファゴットが発していた。
「ステイル中佐の使者から大まかな事は聞いています。各地へ赴き、国内で頻発している亀裂への対処をして頂けるとか……私に出来る事でしたら、喜んでご協力致します」
そう言うとファゴットは、机の引き出しから銅製と思われる手の平サイズの紋章を複数取り出し、一行へと差し出す。
「それは同胞の証であり、我が教団の紋章でもあります。裏面をご覧ください」
ファゴットの言葉に、ウィルは紋章を一つ取り、裏面を見る。シルヴォリア文字で何か記されているが、公用語以外に疎いウィルには何が記されているのか分からなかった。アノンも紋章の裏を見ていたが、シルヴォリア文字も読めるのだろう、答えを口にする。
「この者達の行いは教義に則したものであり、これを咎める行為を禁止すると共に、同胞は惜しみなく協力されたい、と書いてありますね。最後の三文字がちょっと判読出来ませんが」
「最後の三文字は、私が記した印のようなものです。紋章も似たような物を製造することは容易でしょうから、真偽の判別に用います。教団の支部、及び出張所には通達を済ませています。期間は示しますが、皆さんが行動されている内は有効とし、なにかあれば代わりの物を発行させます。現在の印が記された物もお渡しした物以外、存在しません。ご活用下さい」
一行はそれぞれ紋章を腰部の収納帯へ収める。ウィルがファゴットに問いていた。
「我々の組織を模倣した犯罪が横行しているそうですが、ストラグル教団も似た被害を受けている、そういうことでしょうか」
「ええ、残念な事ですが、紋章が模造される事を危惧しました。我が教団は国内のみに布教しておりますので、まだ被害は少ないと思っていますが、中央管理軍ともなれば被害は我が教団の比ではないでしょう。心中お察し致します」
「昔からある事ですから、お気遣いなく。むしろ発生頻度で言えば亀裂同様、シーヴォリー王立国内が近年では群を抜いている。今回の行動で少なからず片づけておきますよ」
「ありがたい事です、他に私が出来る事はありますでしょうか」
「いえ、特には……レイバー、教団に寄る以外は、俺が行動路程を決めていいんだよな」
「はい、僕には残念ながら亀裂の兆候を探知出来るほどの能力はありませんので、お二人にお任せする事になります。申し訳ありません」
レイバーの顔に落胆の色が浮かぶ。ウィルは顔を横に振り、気にするなと声を掛ける。
「アノン、間近で危険な兆候は感じられるか」
「んんー……それがですね、どこもかしこも反応がありまして、兆候と言えるほど強くはないのですが、ここからそう遠くない距離に幾つか気になる反応があります。対応に困るパターンですね」
アノンの言葉に、ウィルは頭を掻く。
「しらみつぶしにやってくしかねぇか」
「それが一番、近道だったりしますからね、賛成です」
ウィルとアノンの話しに、ファゴットが焦りの色を浮かべていた。
「専門的な知識がある訳ではないのですが、今どこもかしこも反応があると仰いましたか」
ファゴットの質問に、アノンが答える。
「はい、現状の反応を見るに、国内のどこでも亀裂が生じる可能性があります。町中でも郊外でも、いつ発生してもおかしくない状況です。ステイル中佐から聞いていませんでしたか」
「いえ、彼からはなにも……グリス陛下との懇談の際に大まかな概要は聞かせて頂きましたが、状況は悪くなる一方のようですね……」
ファゴットの反応に、ウィルとアノンは探りを入れていた。ステイル中佐との繋がりを懸念していたが、全てを共有している訳ではないようだった。杞憂ならばいい。何事も疑ってかかることに損はない。得もしないが。ウィルがアノンに問う。
「気になる反応があるって言ってたよな、一番近いところで距離はどれくらいだ」
「おそらく二十……いえ、二十五キロはありますね、ここより更に南です」
「レイバー、南二十五キロに何がある」
「えっと、首都シルヴォリアから完全に出ていますね。最初の町はネイバーハッド、距離は十キロ程度です。更に次の町か村になりますので、おそらくシャグル町か、近隣の農村になります。道はそれほど舗装されていないため、馬車でも数時間かかります。到着は夜になりますが、どうしますか」
レイバーの至極当然の計算に、ウィルは唸っていた。自力で走ったほうが早い。アノンならば付いてこれるだろう。だがレイバーはおそらく付いてこれない。夜間の行動も気が乗らなかった。人造兵器の動力源は食事も含まれるが、大部分は太陽光だった。核となる霊石が太陽光を吸収し、内部で莫大な力を貯め込む。夜間では月が出ていたとしても、力を消耗する一方になってしまう。大きな戦闘が起きてしまったら、望まぬ結果に繋がるかもしれない。
ウィルの思考にファゴットが言葉を挟んでいた。
「馬車であれば翌朝、手配させましょう。今夜はここでお休みを取られてはどうでしょうか、部屋を用意しますよ」
ウィルがアノンを見る。
「兆候はまだ出ていないんだよな」
「はい、急激な力でも加わらない限り、安定しています」
「もしもの場合は知らせろ、夜間でも出る」
了解です、アノンはウィルに答えていた。ウィルはファゴットに視線を戻す。
「お願いします、お手間を掛けてしまい申し訳ない」
いいんですよ、係の者に伝えてきます、ファゴットはそう言うと執務室を後にする。レイバーは視線を落としていた。
「すみません、足を止めてしまったのは僕が原因ですよね。空間を掌握出来ない僕には、行動に速度を出す事が出来ない。噂に名高いウィル少佐ほどの身体能力も発揮出来ませんが、僕一人でもお二人を追いかけますので、どうかご再考を」
レイバーの苦悩に満ちた顔、ウィルはレイバーの頭に手を置く。
「いいんだよ、俺が休みたいんだ。昨日からまともに寝てないからな。それにレイバー、お前が居ないと俺達は道も分かんねぇしな」
ウィルの大きな手に顔が隠れ、レイバーは俯く。分かりました、レイバーはウィルに答えていた。
「レイバー君が落ち込む必要ないですよ。この人の身体能力がおかしいだけですからね」
「お前が言うなよ……」
ウィルとアノンの会話に、レイバーは微笑んでいた。規格外なのは自覚しているが、人の道を外れたくはない。出来るだけそうしようと決めた。レイバーの劣等感を解消してやる事は難しいが、寄り添う事は出来る。自己満足でもいい。見捨てるよりは。
お待たせしました、部屋の用意が出来ましたよ、食事はどうされますか、ファゴットが扉を開け、一行にそう告げていた。ウィルは思う。ようやく長い一日が終わった。明日は長くならなければいいが、望みは薄い。ウィルが促すと一行は立ち上がり、執務室を後にしていた。
食事は簡素なものだったが、味付けはウィルの好みだった。ストラグル教は肉も酒も禁じられていない。食後に出された国産の葡萄酒が効いたのだろう、ウィルは眠りに落ちていた。飲み過ぎたかもしれない。宛がわれた宿泊者用の部屋、ウィルとレイバーは同室だった。これまた簡素な寝具に、壁には不相応な大きさの紋章が掲げられていた。
寝返りを打ち、レイバーも寝息を立てている。人造兵器と呼ばれる彼らにも休息は必要だ。生まれは人工だろうが、決して機械ではない。人として扱って然るべき存在に、世界は厳しかった。ウィルは眠りながら、眉間にしわを寄せる。月の明かりが屋内を照らし、窓の枠が影を伸ばす。宿泊者用の部屋は教会の正面口で見た二つの塔に配置されていた。塔と塔は石橋で繋がっており、出入りは制限される。男女別にしているからだ。アノンは左手の塔、ウィルとレイバーは右手の塔に宿泊していた。正面口に向かって、という意味の呼称ではなく、実際に左手の塔、右手の塔と呼ばれている。それらの呼称はストラグル教団が信仰する唯一神ストラグルに起因し、ストラグルはそれぞれの手から御業を行使出来る存在だった。一方は赦しの力を、一方は理解の力を示す。食事の際、興味があればぜひ聴講にお越し下さい、ファゴットの誘いをウィルはやんわり流すに至った。目に見えない存在を信じる事にウィルは興味が持てない、それが理由だった。生まれた時から親の存在もなく、少年に至るまでの記憶もない。自身の名ですら思い出すのに数年かかった。育ての親からは名付けてもらえず、おい、だの、お前だのと呼ばれていた。不遜な物腰が際立つ女と霧雨の光景、ウィルはよくこの夢を見る。最初の記憶だった。忌々しいようで、自分がどこから始まったのか確証が持てる瞬間。悪夢のようで、忘れられない記憶。
ウィルがふと目を覚ますと、視界の端、窓の向こうに一瞬、影がよぎった気がした。気のせいだろうか、ウィルは寝息を立てるレイバーを起こさぬよう音もなく寝具から降り、窓の外を見やっていた。心配のし過ぎだろうが、気になって再度眠る気にもなれなかった。ウィルは普段着を着たまま寝る癖があった。即座に行動に移るためだ。今もその時かもしれない。ウィルは慎重に窓を開け、窓際に腰かけ外を一望する。地上から五階相当の位置、窓脇には申し訳ない程度の出っ張りが存在するのみ。
念のためだ、自分にそう言い聞かせる。ウィルはそのまま窓の外へと身を躍らせる。音は無かった。開けた窓から夜風が優しく部屋に流れ、レイバーの頬をなでていく。寝息は静かに続いていた。
アノンが宿泊する部屋は左手の塔、七階に位置していた。教会の敷地はそれなりに広かったが、塔以上に高い建物はなく、地区門にほど近い教会の塔からは、首都シルヴォリアの展望がよく見えていた。月の明かりは鮮やかに輝き、濃紺の空と薄い白色の雲が織りなす夜景は美しく、アノンも窓を開け放ち堪能していた。昨晩の地下牢とは雲泥の差だ、夜更かしには最適の夜。もう少しだけ夜景に酔いしれたい欲望にかられるが、ウィルのよく休めという言葉が脳裏をよぎる。怒るとたいそう怖いウィルを思い、アノンは身支度をしようと窓から離れ室内へと視線を戻す。アノンも普段着のまま寝る癖を付けていたが、今日は用意された寝間着でもいいだろう。上着に手を掛け、裾を手繰ろうとしたその時だった。革靴の音が、小さく窓際に鳴る。アノンは後ろへ飛び、低く構えていた。
「こんな夜更けに女性の部屋の窓に降り立つとか、デリカシーのない人ですね」
アノンは言うなり侵入者を見据える。仄かに眼が光彩を放ち始めていた。全身黒の服装に覆面を被り、性別すら判然としない不審者。歓迎出来る相手ではなかった。アノンの言葉に返す事もなく、覆面は部屋へ侵入し、だらしなく両手を振る。暗器、アノンは状況を察し、両手に力を込める。窓の外へ吹き飛ばそうとアノンが動く数瞬前に覆面は動いていた。地をなめるような動作に、室内の影と同化するような動線。月の明かりでは心もとない状況、常人では覆面の姿を見失うかもしれないが、アノンには通じなかった。地を這い、すくい上げるように打ち込まれた一撃をアノンはかわす。アノンの銀髪が幾分切られ、宙を舞う。覆面の手にはいつの間にか短刀が握られていた。
「夜目は効くほうなんですよね、私」
覆面の腹を思い切り蹴飛ばし、アノンは隙を作る。空中で半回転し、態勢を整えようとする覆面だったが、急激な力に押され、窓から吹き飛んでいく。アノンが空間を掌握し、押し出していた。室内の備え付けの家具が軋みを上げる。
「――っ!」
窓から離れ続ける覆面だったが、態勢を立て直し、窓枠に向けて何かを投げ付ける。かぎ縄か、アノンが察するより早く覆面はかぎ縄を視点に壁に張り付き、再度アノンの部屋に踏み込もうとする。追撃を加えるために身を乗り出すより、室内で応戦するほうがいい。アノンの全身は煌めき出す。先のやり取りで既に段階を平常から二段階目に上げている。非常時の緊急手段、許可は必要としない。アノンは身構えるが、窓に姿を現し片足をかけた覆面が呻き声と共に再度空中へ蹴り飛ばされていた。
「アノン!無事か!」
ウィルだった。覆面は横腹に蹴りを叩き込まれ、塔の下部方向、教会内部の中庭にまるでボールのように弾み落ちていた。ウィルはそのまま壁を伝って中庭へと降りる。人間業ではなかった。アノンも窓から飛び出し、空中を駆け下りていた。
覆面の起き上がり様に止めの一撃を見舞う予定のウィルだったが、暗闇から投げ放たれたナイフに動きを制され、その場に足を留めていた。不審者は複数か、ウィルは投げ放たれたナイフを手で掴み、暗闇へ投げ返していた。途端に影が二つ、暗闇から飛び出す。潜伏している不審者がいなければこれで合計は三人。目的は不明だが、一様に覆面を被る不審者達は尚も追撃を図る。覆面の二人が同時に挟撃をかけウィルへと迫っていた。
「めんどくせぇ」
ウィルは地面に指と手の平を差し込み、覆面二人に狙いを定め、土や小石の混ざった土砂を巻き上げる。動作の軽快さとはかけ離れた土砂の量に視界は遮られ、乱れ飛ぶ小石が覆面二人を飲み込んでいく。驚嘆と悲鳴が混ざる中、ウィルは前屈みに突進をかけ、左方に居た覆面を手近にあった壁へ叩き付ける。力なく崩れ落ちる覆面は手足が妙な方向に曲がっており、それきり動かなくなった。残る覆面は二人、一人は土砂からの打撃から回復し、態勢を立て直したのか、再びウィルに迫っていた。先程蹴り飛ばした覆面はまだ起き上がっていない。ならば向かってくる覆面の迎撃が優先とウィルは右手の裏拳を覆面へと放つ。覆面は態勢を低くかわし、回転しながらウィルの左足目掛け足払いを掛ける。鈍く固いものが打たれる音、ウィルは微動だにしていない。覆面が僅かに動揺したところをウィルの撃ち下ろした拳が捉えていた。密閉された空間が爆発したような地鳴りが響き、覆面は地面に少し埋もれた状態で動きを止める。あと一人、ウィルが振り返ると蹲っていた覆面が目と鼻の距離まで迫り、短刀がウィルの顔面を捉えようとしていた。
「させるかーっ!」
空中を駆け下りてきたアノンの左足がまたもや覆面の横腹に命中し、アノンはそのまま覆面を蹴り上げる。両手で空中を掴みアノンは追撃をかける。一撃、二撃と覆面は空中へ撃ち上げられ、アノンの両手を組んだ一撃が覆面を地面へと叩き落としていた。盛大に湧き上がる土埃にウィルは片腕で顔を隠す。
「少しは手加減しろよ、アノン」
ウィルの呆れ顔に、高揚し火照る顔のアノンが空中から降り立っていた。
「なに言ってるんですか、ウィル少佐!油断しないで下さい!」
「あの程度じゃ傷一つ付かねぇよ、知ってんだろ」
「そういう事じゃないですよ、馬鹿!」
「上官に向かって馬鹿って、お前……」
ウィルは頭を掻きながら、叩き落とされた覆面に目を向ける。土埃が収まり、そこに横たわっているはずの覆面は姿を消していた。アノンに困惑の色が浮かぶ。
「嘘……全力で撃ち込んだのに……」
ウィルほどではないにしろ、アノンの連打を受け、堪えきれる人間はそう多くない。しかも今回はウィルが先制を当て、手傷を多少負わせている相手である。普通ではない、ウィルとアノンは言いようのない不安を感じていた。騒動を聞き付けたのだろう、そこかしらの部屋には明かりが灯り、夜間の警備要員が中庭に集結しつつあった。
「覆面の狙い、なんでしょうね」
アノンがウィルに問う。
「どうだろうな、ただの野盗にしちゃ腕が立つ」
ウィルは腕を組み、思考を巡らせていた。襲撃の目的が判然としない。金品が目的であれば、宿泊者を襲うメリットは少ない。無一文の可能性があるからだ。繁華街で大金を持っているような素振りを見せた訳でもない。
「俺が物取りをするなら、人気の少ない場所を狙う。裏通りに面した倉庫とかな。警備くらい居るだろうが、ここよりはマシなはずだ」
中庭に集結した警備要員はざっと十名程。これで全員という訳ではないだろう。警備要員達は一様に不審者達の末路を見やり、驚きの表情を浮かべている。一人は壁に叩き付けられ手足が明後日の方向に向き、もう一人は地面にめり込んでいる。唯事ではなかった。渦中に居るのが大神官の客人でなければ捕縛されても仕方のない状況だったが、幸いな事に駆け付けた者達の中に見知った顔の男が二人居た。大神官ファゴット、そしてレイバーだった。
「一体何が……」
ファゴットがうろたえる横をすり抜け、レイバーがウィルとアノンに駆け寄る。
「申し訳ありません!案内の任を受けていた僕が、いざと言う時に!」
「あー……いや、俺が悪いんだ。嫌な予感がしてな、お前を起こさずに独断で外に出た。指揮官として満点の行動じゃなかった。すまん」
頭をやや下げるウィルに、レイバーはすがり付くように身を寄せる。
「そんな、僕の方こそ気付かずに寝ているなんて、本当に」
役立たず、そう続けようとしたレイバーの口を、アノンが指で押さえていた。
「ウィル少佐も反省している事ですし、次に同じような事があったら、力を貸して下さいね、レイバー君」
「……は、はい」
レイバーは尚も目に涙を浮かべているが、それ以上なにも言わなかった。完全に俺の失態だな、ウィルは一人、眉間に指を這わせていた。落ち着きを取り戻したファゴットは周囲を見渡し、ウィルへと視線を戻す。
「襲われたのですか?この二人に」
「二人ではなく三人です。一人は取り逃しました。目的を持って襲ってきたのか、たまたまそういう状況になったのか判断しかねますが、アノン中尉の部屋に侵入され止むなく戦闘になりました。殺してはいませんが、今すぐ聴取を行える状態でもないでしょう。追って真相を暴く必要があります。念のためお聞きしますが、過去に同様の侵入、又は襲撃をされた事は?」
ウィルの言葉に、考え込むファゴット。
「……いえ、教団設立以来、多少のいざこざはあれど、表立った武力行使を受けたのは初めてです。いくら国情が荒んでいたとしても、教団本部に侵入しようとした輩は居ませんでした。驚きを隠せません」
「そうですか……」
ウィルは思う。過去に実績がなくとも、覆面達の決起の時期と、自分達の滞在が重なった可能性はある。かなり薄い線ではあるが。となると本命はやはり金品などではなく、アノン本人ということになる。もしくは中央管理軍の者であれば誰でもよかったか。確証はどれもない。
「警備の者を増やしましょう、皆さんに何かあっては面目が立ちません」
ファゴットの申し出に、ウィルは同意するか迷っていた。狙いがもし自分達なら、無用な迷惑をかけてしまう。再度襲撃が行われ、教団に被害が及ぶようでは元も子もない。ファゴットの面目より実益を取りたいウィルは、妥協案を提示する。
「人員の増強は被害の拡大に繋がる恐れがありますので、どうでしょう、我々を同じ部屋に宿泊させてもらえませんか」
「同じ部屋に……ですか」
ファゴットが難色を示す。
「おそらく教団本部の共用スペース以外、男女を明確に分けて運用なさっているのは承知しています。教義上か、運営においてのノウハウかはさておき、侵入を図った覆面達の実力は侮れません。二次被害の抑制、この一点を鑑みてもこれがベストの案です」
ウィルの提案に、ファゴットは唸っていた。気持ちは分からなくもないが、ファゴットを始め、教団内部の人間は覆面達との一戦をおそらく見ていない。経験に差はあれど、軍人でもない一般市民をいくら増員しようが意味はないに等しかった。それほど覆面達の実力は一般市民の領域から外れていた。少なくとも姿を消した覆面一人においては。
残念ながらファゴットの案は死体袋が増えるだけだ。ウィルはファゴットに面と向かう。
「ご厚意には感謝しますが、先程の条件が受け入れ難いのであれば、今すぐにでも我々は出発致しますので、捕らえた覆面二名は速やかに国の衛兵に引き渡しをお願いします」
「……分かりました、お部屋を用意しますので、お待ち下さい。侵入した者達の引き渡しはすぐにでも行います」
ウィルの妥協案に、ファゴットが折れた瞬間だった。提案したウィル本人は、受け入れられないから立ち去ってくれと言われるだろうと予測していた。覆面達の狙いが不明な時点で立ち去るのは非情かもしれないが、火急の任務に付いている以上、いつまでも教団本部を守ってやれる訳でもない。国と中央管理軍に事の次第を報告し、探りと見回りを依頼しようかと思っていたのだが、ウィルの的は外れたようだ。
「それじゃあ一晩だけですけど、覆面さん達がまた来るかもしれないので、交代で見張り、やりましょうか」
アノンの言葉に、ウィルは歯切れの悪い答えを返す。
「あぁ、そうだな」
「なんですか、そのボーッとした返しは。毎度毎度、計算通りには行きませんよ、ウィル少佐。切り替えていきましょう」
「……うるせぇよ、心を読むな」
アノンの感受性の高さには助けられる事も多いが、余計な一言も付いてくる。未だ騒然とした教団本部の様子を見る限り、それほど眠る事は期待出来ないだろう。夜明けまでおよそ六時間。交代は二時間制、最初の見張りは立候補通りレイバーになった。一人で全てやりそうな勢いだったが、その案は却下した。負担は分配するに越した事はない。レイバーは気負う性質なのだろう。その気負いは、責任感を宿すと共に、自棄を帯びる危険性があった。一時の上官風情ではあるが、上手く導いてやりたい。ウィルは一人、レイバーを見つめていた。
シーヴォリー王立国は夜間こそ各地区間の行き来に制限を掛けているが、外出禁止令が出ている訳ではなかった。深夜でも届け出さえすれば飲食も営業が可能であり、繁華街はどこもそれなりに賑わいを見せ、人通りは少なくなかった。
酒を飲み交わす群衆は男女の別なく、今日の収穫はどうだったのか、明日の天気はどうだ、それよりうちのかみさんの話しを聞いてくれ、そこかしこで他愛のない話しが花を咲かせる。その騒めきの中を一人の男が歩みを進める。
フードを被り、目元まで隠した浮浪者のようなその姿は、日中こそ目立つものの、深夜の繁華街でその男を気に掛ける者は一人も居なかった。
男はぶらりと歩みを止め、不意に飲食店同士の間にある細い路地裏へと身を潜める。独特の水気に満ちた路地裏は騒めきが遠くに途切れ、排気口の上に野良猫が一匹居るだけだった。男は両側の壁に手を当て、気配を探る。壁の向こうは備蓄庫かなにかだろう、人の居る様子は感じられなかった。男は眼前の暗闇へ目線を移す。
「困るね、勝手に動かれちゃ、分かっているのかね」
男の言葉に答えるように、暗闇から何者かの眼だけが浮かび上がり、光彩を放つ。月の光も届かぬ暗闇の中、その眼の持ち主の姿は判然としなかった。黒い覆面を被り、胴体から下は暗闇に同化している。息遣いさえ聞こえてこなかった。
「手傷を負ったらしいじゃないか、大丈夫なのかね」
男だけ喋り続けるが、覆面からの返答はない。
「まぁ君なら傷の治りも早いだろうから、心配はしていないよ」
男は言葉と裏腹に苛立ちを隠せないのだろう、指で壁を小さく叩く。
「今後なにか行動を起こす時は、事前に報告してほしいものだがね。許可も取れ。我らの大願、忘れないでくれよ。次は許さん、いいな」
そう言い残すと男は振り返り、騒めきの中へ戻っていった。覆面だけが残され、舌打ちが聞こえる。
「分かっている。我らではなく、私の大願だよ。子飼いの犬がよく吠える」
覆面は言葉と共に暗闇へと消え、路地裏には誰も居なくなった。僅かに空間の軋む音が響き、余韻だけが路地裏に伝わっていた。
昨晩の騒動が嘘のように静まり返った首都シルヴォリアの朝、ウィル一行はファゴットが手配をしてくれた馬車に乗り込み、一路南へ二十五キロの地点に出発していた。キャリッジと呼ばれるタイプの馬車で、二頭四輪の屋根付き、乗り心地は快適だった。昨晩の内に中央管理軍の本部へは報告を済ませてある。覆面達の引き渡しも無事終わり、今は取り調べを行うため覆面達の意識の回復が待たれている頃だろう。当分目覚めないとは思うが。
ウィルの提案でファゴットが用意してくれた部屋は教団本部の離れにある一室だった。広さは十分だったがあまり眠れなかったせいか馬車に揺られながらウィルは欠伸を漏らしていた。
「欠伸って酸欠が原因らしいですよ、深呼吸しましょうか、ウィル少佐」
「え、そうなんですか、アノン中尉」
「アノンでいいですよ、レイバー君」
酸欠だけが原因ではないだろうが、アノンの言う事に一理はあった。ウィルは馬車の室内で伸びをしようとするが狭くて上手くいかず、肩が吊りそうになる。馬車の適度な揺れ、のどかな牧草地帯、風の囁き、朝方にも関わらず暖かな陽の光。意識が遠のいていくのにこれほどの好条件もないだろう。地平線の彼方までおよそ平凡で日常的な世界が広がっていた。それでも静かに、だが確実に、この国は滅びの道を歩みつつあった。
「アノン、亀裂の反応はこの辺りも出てんのか」
「はい、首都シルヴォリアからもう数キロは離れましたけど、間違いありませんね、広大な範囲でいつ亀裂が起きてもおかしくない状況です」
「……そうか」
馬車を引く馬の息遣いと、平坦とは言えない道を車輪の通る音が鳴り響く中、ウィルは途方もない感覚に襲われていた。今や亀裂は国という名の面で発生しようとしている。自分達はその中の一点に過ぎない。押し潰されそうな無力感が、ウィルを包み込む。
「どうしたんですか、ウィル少佐。珍しくマジメな顔してますよ」
アノンの茶化した物言いに、ウィルは溜め息を吐く。心配している時に、心配していますと言わない性格なのは知っているが、今はそんな気分ではなかった。
「援軍は来るだろうが、対処出来るか不安でな、アノンはどう思う」
ウィルの硬い表情に、アノンは答える。
「国境線を基準に中央管理軍が展開予定です。私達以外のチームも多数、国内に入った事も報告で上がってきてます。崖っぷちなのは確かですが、やるしかないって感じですかね」
アノンは笑顔を浮かべ、右手の人差し指を目元に当てる。
「それに、私達の指揮官はウィル少佐です。頼りになる方です。なんとかしてくれます」
「なんとかって、なんだよ」
「バッチリ解決って意味です」
アノンの言葉に、ウィルは馬車の窓から外を見やり、視線を外していた。照れ隠しだが、アノンとレイバーにはバレているだろう。ウィルの相棒は存外、気持ちを奮い立たせてくれる事が上手いようだ。ウィルが室内に視線を戻すと、レイバーも笑顔を浮かべていた。
「あんだよ」
ウィルのやんわりと睨み付ける目に、レイバーが焦りながら言う。
「……い、いえ、お二人のやり取りが好きなんです。羨ましくて」
言葉と共に視線を落とすレイバー。
「僕はあまり会話が上手くないので、ステイル中佐とも会話が弾まなくて……」
「それってレイバー君が悪いんじゃなくて、こう言っちゃあれですけど、ステイル中佐に原因がありますよね、たぶん」
「俺もそう思う」
「えっ、えっ」
ウィルとアノンの言葉に狼狽するしかないレイバーだったが、一呼吸置き、二人に告げる。
「噂は色々あるお方ですが、僕にとっては恩人なんです」
レイバーは両手を膝の上で握り、思い出すように話していた。
「施設で生まれてすぐに、僕は出来がよくないと判断されました。数年後に受けた性能テストも散々だったんです。段階移行も出来ず、空間掌握も一度として成功しませんでした」
静かに、ウィルとアノンはレイバーに耳を傾ける。
「訓練にも呼ばれなくなり、その……廃棄される寸前だったんです。怖いとか、死にたくないとか、そういう事よりも、お役に立てない事が辛くて」
レイバーの両の目に、涙が浮かぶ。
「ステイル中佐が僕を引き取ってくれたんです。僕が廃棄されずに生きているのは、そのおかげなんです。酷い扱いもされず、仕事も与えてくれました。恩返しがしたいんです。お役に立てないのであれば、僕は生きている意味がないんです」
「あるだろ、意味は」
ウィルの言葉に、レイバーは顔を上げる。
「経緯はどうであれ、レイバー、お前は生きてんだ。あのおっさんに尽くすために生かされたのか、そうじゃないのか、そこに意味を求めることは否定しない。だけどな、それだけじゃないかもしれないだろ。俺とこうやって話して、息して、考えるだけでも、意味はあるさ。俺は少なくとも、お前とまたメシが食いたい」
「ウィル少佐……」
レイバーの手は震えていた。アノンが優しくその手を握る。言葉を発する事は出来なかった。同様の出自を辿り、結果が天と地の差があるアノンとレイバーでは、何を言っても同情や憐れみに取られてしまいかねない。身に染みてレイバーの境遇を理解出来るからこそ、アノンは何も言わなかった。ゆっくりとレイバーが息を吐く。
「……それでも、僕はなにかお役に立ちたいです」
レイバーの言葉に、ウィルは片手で制し、応じていた。
「焦るな、すぐに役立ってもらえそうだぞ」
ウィルの意図に判然としない表情を浮かべるレイバー。ウィルは上半身を窓から乗り出し、目線を馬車の運転手に移していた。ふくよかな体系に軽装の運転手は、手綱を自分の腹に引き馬車の速度を落としていた。馬車は牧草地帯を抜けた先の分かれ道で停車する。
「どうした」
ウィルが運転手に声を掛ける。運転手は帽子に手を掛け、一礼する。
「旦那、ちょいと待って下さい。道端に女が倒れてまして」
運転手の指差す先に、言葉通り女が倒れていた。栗色の長髪は埃だらけで、小柄な体系にワンピース姿、息を荒げながらそれでも前へ進もうと這いずる女は、靴を履いていなかった。
「アノン、レイバー、降りるぞ」
了解です、ウィルの言葉に二人が応じる。女に歩み寄ると小さく悲鳴を上げ、女は逃げようとする。ウィルが目配せし、アノンが声をかけていた。
「大丈夫ですよ、なにもしません。胡散臭いかもしれませんが、どうか落ち着いて」
アノンの言葉に目を白黒させ女は怯えるが、逃げる姿勢はなくなっていた。
「もう少し近付きます、宜しいですか」
「……は、はい」
女の同意を得たアノンは、近くへと歩み寄り、しゃがみ込む。
「お怪我はありませんか、その、特に足とか」
女の素足は酷く傷付いていた。壊死するほどではないが、放置出来るほど軽傷ではなかった。ウィルはレイバーに馬車へ戻り水筒と医療箱を持ってくるよう指示していた。遠出によく使われる馬車には大抵、簡易な医療箱を備えているものが多い。運転手が事態を察知し、レイバーに医療箱を渡していた。アノンがそれをレイバーから受け取る。
「応急手当をします。痛みますが、我慢して下さいね」
アノンの言葉に女が頷く。アノンはまず水筒を女の両足にゆっくりと掛ける。傷口が痛み疼くのだろう、女は嗚咽を漏らす。汚れや血を洗い流し、医療箱から取り出した包帯で丁寧に女の足を手当てするアノンの手際は素早かった。
「消毒とかしなくていいんでしょうか」
レイバーの疑問にウィルが答える。
「状況に依るな。裂傷程度なら水で洗い流すだけでいい。傷の修復を返って阻害しちまうからな。応急ならあれで正解だ」
専門的な治療はここでは望めない。早急に女を近場の医療所へ運ぶ必要があった。運転手にウィルが問いかけていた。
「最も近い町に行くとすると、首都に引き返すほうが早いか」
「いや、首都まで引き返すとなると、ちょいと時間が掛かります。ここからならネイバーハッドが一番近いですよ」
運転手は分かれ道の先、左手を差す。その言葉に女がまた嗚咽を漏らす。
「もしかして、そこから逃げてきました?」
アノンの問いに女は頷く。
「私の故郷です。襲われたんです、中央管理軍に」
女の言葉が場を凍り付かせる。アノンは言葉を続けていた。
「本当ですか」
「駐留所で見かける人じゃなかった……でもあれは中央管理軍の制服です」
ウィルが眉間に皺を寄せる。報告書にもあった中央管理軍を模した勢力の仕業だろうか。首都シルヴォリアに比べれば戦力は薄いが、事の次第を重く見た中央管理軍は、シーヴォリー国内に点在する町や村に駐留所を設けていた。近隣のネイバーハッドにも何人か組織の人間が詰めているはずだった。それでも女が逃げ出す程の事態に発展した。予想以上に好戦的で実力を兼ね揃えた勢力らしい。見過ごす事は出来なかった。
「ウィル少佐、どうしますか」
アノンがウィルに問う。
「報告が先だな、待機だ」
アノンは頷き、女に声を掛けていた。ウィルは通信機に手を当てる。
「ウィル=ヴィンハレム少佐だ。緊急要件に付き手近の最先任者を出してくれ」
通信機の向こうからお待ち下さいと返答が来ていた。数瞬の間を置きウィルへ通信が入る。
「私だ」
「……は?」
間の抜けたウィルの声に、アノンとレイバーが怪訝な表情を浮かべる。
「私だ、分からんのか、愚息」
ウィルは茫然としていた。最先任者を出せとは言った。だが通信所に務める階級の高い者と言えば、せいぜいウィルと同格の者程度。声の主が出る訳がなかった。
「なんであんたが出るんだ、ヴェレンス大将さんよ」
「情報は速さが売りだ。報告に不手際が続いているのでな。様子を見に来ていた。喜べ」
不運極まりない、ウィルは手の平で目を覆う。
「で、緊急要件と言ったらしいな、どうした」
急かす声に、ウィルは心がざわついて落ち着かない。深く息を吸い、強く吐き出す。
「早くしろ、私はお前と違って暇ではない」
ウィルは諦め、努めて平静を保とうとしていた。
「報告します。シーヴォリー王立国ネイバーハッドに置いて、我らを模倣した勢力が暴れているとの証言を得ました。昨夜通信した内容を一時保留とし、ネイバーハッドに向かい制圧する許可を頂きたく具申します、以上です」
「ほう、やれば出来るじゃないか」
一々癇に障る女だが、組織のトップでは悪態を付く訳にもいかない。ウィルは黙していた。
「許可しよう。昨夜貴様が通信した内容は、シャグル町及び近隣の農村に存在する反応の調査だったな。他の者を向かわせる」
「了解しました。事に当たります、通信は以上です」
ウィルは通信を切ろうとするが、ヴェレンスの声がそれを制していた。
「ウィル、我らを模倣して暴れる輩を制圧しろ。完全にだ。判っているな」
ヴェレンスの声に、怒気が孕んでいる。ウィルは察していた。
「御意に」
「さっさと行け、以上だ」
唐突に通信が切れた。ウィルのこめかみが微かに震えていたが、アノンとレイバーは見て見ぬ振りを続けていた。ステイル中佐の進言ではあったが、今となっては制服を着ていなくて良かったとウィルは思う。目線を女に移していた。
「名前を聞いてもいいか」
「……ネリスです」
「ネリス、状況を教えてくれ」
ウィルの言葉に、ネリスは頷く。
「朝、水を汲みに井戸へ向かったんです。家からそう遠くない距離です。帰ろうとしたら、誰かの悲鳴が聞こえて……拡声器で駐留していた人の声が聞こえました。家に入って戸締りをしろ、外には出るなって」
ネリスの目に、恐怖の色が浮かぶ。
「凄い音がして、悲鳴も遠くで止みませんでした。拡声器でまた声がしたんです。でも聞いた事のない人で、外に出ろって……危害は加えないから、人造兵器を匿っている家があれば出せと言っていました」
アノンとレイバーが反応を示すが、ウィルはネリスに続きを促す。
「父と姉が逃がしてくれたんです。急な事だったので、着の身着のまま走りました。遠出をしたことがなかったので、サンダルくらいしか持ってなくて……」
逃げるので精一杯だったのだろう、ネリスは走り続けた。サンダルが脱げ、それに気付かぬまま首都を目指した。ネイバーハッドの近隣で最も大きな町はそこだった。
「助けを呼ぼうとして、でも遠くて……」
ネリスの目から涙が溢れ出る。
「走りながら見た故郷は、火の手が上がっていました……中央管理軍の制服を着た人達が家の扉を蹴り破ろうとしていて……なんでこんなことに」
「分かった、ネリス、少し休んでくれ、ありがとう」
ネリスはウィルの言葉に項垂れ、涙が地に落ちては点を描いていた。ウィルは視線を運転手へと向ける。
「ネイバーハッドまで後どれくらいだ」
ウィルの問いに、運転手は分かれ道を指差す。
「あの分かれ道は左手がネイバーハッド行きで、右手はシャグルに向かう分岐点です。首都からは七キロ程の地点でございやす」
「つまりネイバーハッドには三キロ程度って事か」
運転手は頷く。ウィルはネリスに目線を向ける。
「町に診療所はあるか」
「は、はい、それほど大きくはありませんが」
ウィルは腕を組む。首都に馬車だけ引き返させるのも一つの手段だが、万が一もある。同行させ、場を鎮圧し、治療をするほうが得策か。ウィルは唸っていた。
「器具と施設さえあれば、私が治療を行います」
ウィルを見上げ、アノンが言う。
「診療所の状況にもよりますが、理想は細菌の検査が出来ればってところです。もし破傷風菌に感染していたとしても、潜伏期間は最短でも三日。間に合うはずです。骨折も先程確認しましたが、ありません。任せて下さい」
アノンの言葉に、ウィルは通信機に手を当てる。
「保険はかけたい、首都から援軍も要請しておこう。アノン、レイバー、ネリスを馬車へ」
二人が動き出すと同時に、ウィルは運転手へ顔を向ける。
「悪いが俺達は先行してネイバーハッドに向かう。近隣で待機していてくれ。赤の発光弾を撃ち上げる。それが鎮圧の合図だ。一刻過ぎても合図がなければ首都に引き返してくれ。道中派遣される援軍と合流し指示を受けてもらうことになるが……すまんな、手間を掛ける」
「いえ、あっしにも同じ年頃の娘が居ましてね、放ってはおけやせん」
運転手は踵を返し、馬車へと向かう。ウィルはレイバーに声を掛けていた。
「レイバー、馬車とネリスの警護を任せてもいいか」
レイバーは頷く。
「何かあれば手加減しなくていい、ぶっ飛ばせ」
「じ、自信はありませんが、努力します」
ウィルはレイバーに笑みを送るが、すぐにネイバーハッド方向を見据え、拳を鳴らす。傍らにはアノンが立っていた。
「いけるか、アノン」
「はい、近隣の地図は頭に入れておきました。先導します」
「よし、平常から段階を上げろ」
ウィルの言葉と共に、アノンの全身は煌めき出していた。整えられた銀髪が宙を舞い、妖艶な光を宿す。レイバーが感嘆を漏らしていた。
「段階の移行が静かで、それにとても早い……」
施設で見せられた優秀な人造兵器達の様相、そのどれよりもアノンは素早く、美しかった。
音もなく宙へと浮かび上がり、アノンはウィルに視線を向ける。ウィルは頷くと短く息を吐く。重い音が響き、ウィルは右足で地を蹴り出す。初速とは思えない速度だったが、アノンもそれに追従し、二人の加速は止まらなかった。
「えっ、早っ……」
レイバーの声が終わる暇もなく、二人の背は遥か遠くにあった。レイバーの横で馬車の準備をしていた運転手もそれに気付き、声を上げる。
「ありゃ、旦那さん、馬車なんて要らなかったんじゃねぇか、只者じゃねぇな」
運転手の言葉に、レイバーは俯く。
「みんなあれだけ早く走れるようになったら、あっしは廃業ですわ」
乾いた笑いを浮かべる運転手だったが、レイバーは小さく呟く。
「一部の、ほんの一部の優秀な方達だけですよ」
「……え、なにか言いやしたか」
「いえ、少し街道から離れて待機しましょう、すぐに援軍が来ます」
「へい、お任せを」
馬車の中ではネリスが小さく呻いていたが、命に別状はないのだろう、レイバーは二人の背を見送っていた。やはり自分とは一線を画す人達だった。噂に違わぬ武人と、最高傑作と名高い人造兵器の頂点。レイバーの瞳には闇が宿り、暗い思想へと引きずり込もうとしていた。それでもウィルとアノンの優しさに触れ、レイバーは苦悩していた。
朝の暖かな陽の光はレイバーの核に反応し、胸が力強く鼓動する。レイバーは胸に手を当て、息を吐く。僕だって生きている事に意味がある、ウィル少佐はそう言ってくれた。本当なのだろうか。どうしようもない劣等感が身を包み、今にも叫び出したくなる衝動に駆られるが、同行者を不安にさせる訳にはいかなかった。必死に噛み殺し、レイバーは目を瞑る。あの二人のように強くありたい。瞼の裏で理想の自分を思い浮かべるレイバーの影は長く伸び、街道に少年の現身を浮かび上がらせていた。
ネイバーハッドは首都周辺に点在する近郊農家を主とした町だった。その大半がこの町で生まれ一生を過ごす。首都にほど近いためか不自由が少ないからだ。人口は数百人と少ないが、裕福な者も少なくなかった。一人の男が声を上げる。
「目的が金なら好きなだけ持っていけよ、町から出ていってくれ、頼む」
男の懇願に、中央管理軍の制服を身に纏った長髪の男が歩み寄る。
「あ?なんか言ったか」
長髪の男は発言した男の首を掴み上げ、呻き声を上げさせる。
「ぐっ……やめろ、やめてくれ」
「なら黙ってろよ、くそが」
長髪の男が掴み上げた男の鼻を殴り付け、発言した男を黙らせる。悲鳴を上げて倒れ込む男に対し、更に暴行を加えようとした長髪の男を大柄の男が制していた。
「やめておけ、ビシャス」
大柄の男の言葉にびく付き、ビシャスは動きを止める。
「わ、分かってるよ、モンド兄貴、すまねぇ」
「これで全員か」
「あー……どうだろうな。今、帳簿を確認しているはずだ、おい、ゲイル」
ビシャスの呼び声に、細身のゲイルが答える。
「全員ではないですね。首都に商品を納めに行っている町民が十三名、行先不明が一名、それを除いた四百六名は揃っています」
「そうか、拡声器をよこせ、ゲイル」
モンドはゲイルから拡声器を受け取り、町民に向けて声を発する。
「後ろまで聞こえているな。再三忠告したが、危害を加えるつもりはない。抵抗するな。聞き入れられない場合は一人ずつ、聞いてもらえるまで殺していく。そこに転がってる衛兵みたいにな。判ったか」
モンドの声に町民達から悲鳴が上がるが、先程の一件で反抗の意を示す者は誰もいなかった。ネイバーハッドの中央広場に町民全員が集められていた。それなりの規模を有する中央広場だったが、町民全員を収めるには狭く、町民達は身を寄せ合っている。赤子の泣き声だろう、そこかしこで大人の呻きに埋もれ、泣き声が上がっていた。
「うるせぇな、くびり殺してやろうか」
ビシャスの声に、モンドが目を細める。ビシャスはその目線に気付くと顔を下に向け、黙るに至った。
「駐留してた奴らは片付いたのか」
モンドの言葉に、ゲイルが答える。
「いえ、駐留していた中央管理軍は六名、内三名は殺害、二名は捕縛しました。残りは見つかり次第排除しますが、人造兵器は見つかっていません」
「ちっ、こんだけ首都に近い駐留所なら居ると思ったんだがな、通信の妨害は続けろ」
「了解です」
ゲイルは通信機に手を当て、なにやら指示を出す。モンドは足元に転がしておいた捕虜二人に視線を移し、しゃがみ込む。男と女、一人ずつだった。
「なぁ、どっちでもいいから教えてくれよ。人造兵器ちゃん、居るんだろ」
モンドの問いに捕虜二人は顔を見合わせ、女は涙を浮かべ、男はモンドに向き合っていた。
「断る、味方は売らん」
「へぇ、見上げた根性だな、お前」
モンドはおもむろに懐からナイフを取り出し、向き合った男の胸に深々と突き刺していた。町民達からまたもや悲鳴が上がり、辺りは騒然とする。
「黙らねぇか!兄貴が話してんだよ!」
ビシャスの怒声に辺りは静まり返る。胸を抉られる男は呻き声を発するが、喉から込み上げる血でくぐもり、視界が霞み出していた。
「なぁ、あんたにも家族とか居るんだろ、話しちまえよ、簡単だろ、なぁ」
更に抉り続けるモンドだったが、刺した男が事切れていることに気付き、ナイフを引き抜いていた。
「なんだよ、壊れやすい奴だな」
モンドは肩を鳴らし、もう一人の捕虜に向き合っていた。女から小さく悲鳴が聞こえる。
「んじゃ次、お前な」
女の帽子を叩き落とし、纏め結いをしていた栗色の髪を無理やり掴み上げる。
「あっ……ぐっ、痛い」
女の反応に、モンドは薄ら笑いを浮かべる。
「お前、名前なんて言ったっけ、名札見せろよ」
モンドがナイフを放り出し、女の胸元が見えやすいように更に髪を掴み上げる。
「や……めて」
「へぇ、ライアンか、男みたいな名前だな、階級は三等兵ね。入ったばかりで災難だな」
ライアンの目に涙が溢れる。悔しくてたまらなかった。ライアンはネイバーハッド出身だった。故郷が危険に晒されていると報告を聞いたライアンは、駐留所勤務に志願した。僅か一日でこの事態である。誰が予想出来ただろうか。故郷は今、地獄の様相を見せていた。
「同じ質問だ。人造兵器ちゃん、居るよな。どこ行った」
モンドの言葉に、ライアンは顔色が蒼白となっていた。この質問の答え如何によっては、先の同僚と同じく、死を迎える事になる。激しく眩暈がし、ライアンは咳込んでいた。
「おいおい、質問に答えろって言ってんだよ、咳を俺の顔にかけんなよ」
モンドが髪を掴み上げていた手を緩め、ナイフを拾い上げる。ライアンにはその動きが、妙にスローモーションに見えていた。これが走馬灯というやつなのだろうか。ライアンは目を瞑る。涙が頬を伝わり、顎へと流れていった。
「お前もいい度胸だわ、もういいや、死ねよ」
モンドはナイフを構え、突き刺そうとした瞬間、激しく爆発する音がした。
「な、なんだ!」
情けない声を上げたのはビシャスだった。モンドはライアンを地に放り出すと、音の方向に顔を向けていた。
「ゲイル、状況報告」
「はい、人造兵器を発見したそうです。民家に潜伏し、通信を試みていました」
ゲイルの報告に、モンドがせせら笑う。
「傍受されている上に妨害されてんのによくやるな」
「派遣されたばかりで戦闘経験もないのでしょう、核だけ奪って後は用済みですね」
ゲイルが再度通信機に手を当て指示を出す。モンドはナイフを懐に納め顎で促す。
「行くぞ、ビシャス、ここは任せたぞ、ゲイル」
「了解しました」
「狩りだな、兄貴」
モンドは二人の返答を背に、首を鳴らしていた。
「さぁ、鬼ごっこを楽しもうや」
そう言い放つモンドの眼は光彩を帯び始めていた。続くビシャスも同様だった。ライアンはそれを目撃する。モンド、ビシャス両名は共に髪は黒色、眼も茶色だった。人造兵器特有の外見ではない。地に伏せたままのライアンに疑問が生じていた。
二人を見送ったゲイルは声を張り上げる。
「野郎ども、気を引き締めろ!狩りが終わり次第、撤収だ!」
ゲイルの声に、男ばかり十数人が声を返していた。ライアンは歯を噛み締める。戦闘訓練を受け、新兵の課程を卒業し、現場へ赴いた。慢心している訳ではなかったが、ここまで自分が無力だとは思ってもみなかった。行動を起こそうにも腕は後ろ手に縛られ、身動きもままならない。ライアンの声にならない声が、中央広場に沈み渡っていた。
ネイバーハッドの町内は建物がひしめき合い、細い路地ばかりだった。そこを全力疾走する一人の影が見え隠れしていた。刈り上げた銀髪に汗を滲ませる、青い眼を持つ少年だった。
「くそっ、一旦町を出るしかない!」
自身の背のすぐ後ろに男達が群がる。全員が中央管理軍の制服を着ていた。速度はそれほどでもない。逃げ切れる、少年は路地を駆け抜けようとしていた。
「おい、そっち行ったぞ、囲め!」
後方の男から声が発せられると同時に、路地の先にもう二人、男達が立ち塞がる。これは同士撃ちではない、少年は更に踏み込み、立ち塞がった男達に先制を仕掛ける。掴みかかろうとする男に左手の掌底を撃ち出すと、少年は力を込め空間を掌握する。掌底と同時に押し出された空間が男を吹き飛ばし、路地向こうの壁に激突させていた。前方は後一人。
「てめぇ、このクソガキが!」
残った前方の男が拳を放つ。少年はその拳を肩口でかわし、左の肘打ちを男のみぞおちに決めていた。
「てんめぇ……」
腹を抑え蹲る男を踏み付け、足の先から後方に蹴り出すとそのまま同時に空間を掌握し、群がる男達目掛け押し出していた。少年がその反動を利用して加速すると共に、後方の男達はまるで団子のように固まって吹き飛ばされ、路地のずいぶん奥まで吹き飛んでいった。
「よし!後はこのまま突っ切るだけだ!」
路地から出た少年はネイバーハッドのメイン通りを駆け抜け、町からの脱出を図る。原因は分からないが、通信が妨害されていて援軍が呼べない。更に傍受されていたのか、所在まで知れてしまった。少年は拳を握り締める。失態、その一言に尽きていた。味方の援護が出来ないばかりか、犠牲者まで多数出してしまった。
少年は汚名を晴らす事よりも、役割に徹しようと心に決めていた。まず町からの脱出、通信の確保、援軍の補助、少年に出来る事はまだ沢山ある。捕まる訳にはいかなかった。
空間を小刻みに掌握し、少年は加速を続ける。常人では追い付けない程に加速していたはずだが、思わぬ所から少年に語り掛ける男が居た。
「よう、人造兵器ちゃん、そんなに急いでどこに行こうとしてんだ」
少年は絶句していた。まるで散歩でもするかのように、一人の男が少年に追走していた。
「モ、モンド兄貴、待ってくれよ!俺はまだ上手く扱えねぇんだ!」
後方にもう一人、男が追ってくる。馬鹿な、少年は驚きを隠せないでいた。
「お前らの能力って便利だよなぁ、独り占めはよくないよなぁ」
モンドは言葉と同時に足を振り上げ、少年の腹を蹴り飛ばしていた。
「ぐぅっ」
少年の呻き声は短く、メイン通りに面した商店に突っ込まされていた。商品棚ごと倒れ込み、少年は態勢を整えようと店先を見据える。モンドは音もなくそこへ降り立ち、地面を数度、踏み締めていた。遅れてもう一人の男も合流する。
「なぁ、分けてくれよ、お前のその能力、使ってやるからよ」
モンドが肩を回しながら少年へと歩み寄る。少年は意を決していた。
「誰が貴様達のような輩に!」
少年が手を腰に沿え、そのまま両手をゆっくりと上へ動かす。店内が軋みを上げ、散財した商品が幾つも浮かび上がっていた。
「へぇ、なかなか上玉じゃないの、いいね、お前、いいよ」
モンドの高笑いが辺りに響く。少年はその高笑い目掛け、手を振りかざす。少年の動作と同時に浮遊していた商品が次々と速度を上げ、モンドへ迫っていた。商品の中には缶詰や食器類が含まれている。直撃すれば、致命傷ではないにしろ怯ませるには十分だった。
「ビシャス、相殺しろ」
モンドの言葉に少年は怪訝な表情を浮かべ、ビシャスは笑みを浮かべていた。
「あいよ!」
ビシャスが両手を突き出すと、高速で飛来していたはずの商品が力を失い、地へ落ちていった。少年は手を震わせる。モンドとビシャスの外見はどう見ても人間だった。同種ではない。にも関わらず空間の掌握を相殺された。事態は悪化を辿っていた。
「ビシャス、捕らえろ、壊すなよ」
モンドの言葉に従い、ビシャスが少年へと迫る。少年は地に足を付け、目一杯に力を込めると、身体ごとビシャスへ体当たりをかましていた。空間を掌握し、全身を加速させた突進をビシャスはまともに食らう。とてつもなく硬いものに突進をかけた感触がし、少年は肩に激しい痛みが生じていた。
「おい、ビシャス、相殺を忘れてるぞ」
上空まで跳ね飛ばされたビシャスに目線を送り、モンドは溜め息を吐いていた。
「核を移植してやっても使えねぇ奴だな」
そう吐き捨てるとモンドは少年に目線を戻す。少年は全身から疲労感が漂い、荒く呼吸をしていた。モンドはそれを見て笑みを浮かべる。
「力の使い過ぎだな、そろそろ限界なんじゃないか、なぁ」
モンドが少年へと迫り来る。少年は息を吐き、全霊を込める。モンドの撃ち出された右拳を左腕で外側へといなし、がら空きになった懐へ右手の平で反撃を放つ。掌握した空間を直接ぶつけ、吹き飛んだところで距離を取る算段だったが、少年の目論見は外れていた。
「掌握が荒いぞ、手をかざすまでもねぇよ、そんなもん」
モンドは微動だにせず、少年の掌握を相殺していた。動揺する少年に隙が生まれ、顔面に振り直したモンドの裏拳が命中する。
「あっ……ぐっ」
態勢を崩し、地に伏せるはずだった少年の身体は宙に制止していた。
「掌握ってのはこうやるんだろ、なぁ、気分はどうだ。する側から、される側になった気分はどうだよ」
少年は宙へと空間ごと締め上げられ、呼吸もままならずもがいて手を振る。モンドの掌握を相殺出来るほどの力はもはやなく、意識を失いかけて尚、少年は抵抗しようとしていた。
「可愛いなぁお前、飾りたいくらいだよ。核を抜き取った後はキレイにしてやるからな」
モンドの声が耳から遠ざかり、少年は意識を失っていた。役割を果たせぬまま朽ちていくのか、少年の眼から光が失われ、頬にはヒビが生まれていた。
少年の意識が途絶える数瞬前、アノンは空高く舞い上がっていた。野鳥が群れを成し、空を悠々と飛び去っていく。アノンはそれを横目にネイバーハッドを目指していた。
周辺は快晴だった。どこまでも続く青空に地平線が並び、壮大な景観を作り出す。
「おい、アノン、高すぎるだろ」
アノンの下方、手を繋ぐウィルが不満を口にする。
「高度を出さないと敵さんに見つかっちゃうじゃないですか、我慢して下さい」
「……へいへい、分かりましたよ」
愚痴るウィルをよそに、アノンはネイバーハッド上空に辿り着いていた。眼下には町並みが見える。人の往来がない所を見ると、どこかに集められている可能性が高かった。
「あそこだな、アノン、町民を見付けた」
丁度、町の中央付近に広場があり、町民はそこに居た。おそらくほぼ全員なのだろう。およそ地上から二百メートルの地点にウィルとアノンは宙に浮いていた。あまりにも高度があるせいか、状況が判然としなかった。
「それにしても駐留してるうちの連中から通信が全く入ってこないが、全滅したんじゃないだろうな」
ウィルの疑問に、アノンが答える。
「中央管理軍はそんなにやわじゃないですよ。おそらく通信を妨害されているんでしょうね。もしかしたらですけど、傍受されているかもしれません」
アノンの予想に、ウィルが目を細める。
「てぇ事は突入したら通信は最低限以外、禁止だな」
「そういうことになりますね」
二人が意を決する直前だった。町中では少年がビシャス相手に突進をかけていた。強い空間の掌握にアノンが反応する。
「――っ!」
アノンの変化に、ウィルが気付く。
「どうした、アノン」
「見て下さい、町中の……あそこです。一番大きい道で戦闘が行われています」
「うちの連中か」
「おそらく、人造兵器は我が組織が主に所有しています」
ウィルの下方向の建物が激しく振動している。だが途端にその振動は止んでいた。
「まずいですね……反応が消えかかっています」
「分かった、降ろせ」
「……はい?」
アノンの間の抜けた言葉に、ウィルが再度同じ言葉を言う。
「降ろせって言ったんだ。アノンは中央付近の広場に居る町民を保護しろ。敵対勢力は片づけて構わん、行くぞ」
「宜しいのですか」
アノンが引き留めるのは最もだった。下手に突入した場合、犠牲者が増えかねない。だが手をこまねいている場合でもなかった。
「二言はない」
「了解です」
ウィルの決心に、アノンは従った。いつもの事だが。
アノンは上空を蹴り出し、急降下を始める。全身に当たる風は凄まじく、常人では息をする事さえ許されなかった。
「っ……見えてきたな、あそこでいい、アノン、俺をぶん投げろ」
「ご武運を」
「お前もな」
ウィルとのやり取りに、アノンは微笑んでいた。レイバーも言っていたが、アノンもウィルとの会話が好きだった。シンプルで、嘘がない人。今回もどうにかしてくれるだろう。
アノンはウィルと繋いだ手を一旦後方に振りウィルごと掌握した空間を投げ飛ばしていた。
「うおっ、早っ」
ウィルの言葉は空中へと掻き消えみるみる内に町内へと落ちていく。それなりの高度はまだあるが、あの人なら大丈夫だろう。アノンは中央付近の広場に向け、空中を蹴り出していた。
少年とモンド達の戦闘は終わり、ネイバーハッドの町並みは静寂を取り戻していた。モンドの歩く音だけが路上に響く。少年は力なく地に倒れ、呼吸は弱々しかった。モンドは満足そうに少年を踏み付け、笑みを浮かべる。
「楽勝だったな。消耗品風情がこんな力持っちゃいけねぇんだよ、有効活用って奴さ」
モンドは少年を抱え上げ、中央広場へと戻ろうとしていた。
「おい、ビシャス、どこだ、帰るぞ」
「ま、待ってくれよ、兄貴」
ふらふらとビシャスが歩み寄ってくる。少年の全力の突進を受けたせいか、足取りが少しおかしくなっていた。
「折れたんじゃねぇの、足。ゲイルに見てもらえよ」
モンドがビシャスから目線を外し、歩み出そうとした、その瞬間だった。モンドの目の前に、大きな塊が恐ろしい速度で落ちてきた。露店の屋根をぶち破り路上に転がったそれは、モンドより大柄な男だった。
「……は?」
阿呆のような声を出すビシャスとは裏腹に、モンドは少年を放り出し立ち尽くしていた。紛いなりにも戦闘経験を積んでいるモンドの直感が、耳鳴りに似た警告を鳴らす。
「あーいてぇ、ぶん投げろとは言ったけどよ、加減しろってんだ」
大柄の男が首を左右に鳴らし、五体満足か確認している。モンドは思わず身構えていた。ビシャスが声を掛けながら歩み寄る。
「あんた誰だよ、てか空から降ってこなかったか、今」
大柄の男は戦闘服こそ着ていないが、明らかに異質だった。立ち振る舞いに隙が全くない。モンドはビシャスに声を張り上げる。
「不用意に近づくなビシャス!この馬鹿野郎が!」
モンドの怒声に、ビシャスが項垂れる。
「なんだよ、兄貴、話しかけただけじゃねぇか」
ビシャスはモンドに視線を移した瞬間、横腹に急激な圧力を感じていた。
「へ?」
状況を判断する前にビシャスの身体は僅かに宙に浮きほぼ直線を描いて通りの向こうに蹴り飛ばされていた。モンドの舌打ちを気にも留めず、大柄の男はゆっくりと歩み寄っていた。
「お前の弟か、あれ。馬鹿そうだな」
「……あぁ、俺も扱いに困っていてね、馬鹿ほど可愛いものはねぇが、度が過ぎる」
大柄の男は笑みを浮かべ、腕を伸ばすと指を一本一本鳴らしていく。
「誰だって聞いてたな、自己紹介しようか。中央管理軍所属、ウィル=ヴィンハレム少佐だ。うちの組織の制服を着ているようだが、所属はどこだ」
ウィルの問いに、モンドの額には汗が滲み出していた。
「こ、これは少佐殿でしたか。私はシーヴォリー王立国ネイバーハッド駐留所勤務、モンド曹長であります。先程少佐殿が蹴り飛ばしたのは弟のビシャス、階級は二曹であります」
「へぇ、駐留所勤務ねぇ、そりゃいきなり蹴り飛ばしてすまなかったな」
ウィルが歩み寄る分、モンドが後ずさる。
「なぜ距離を取る、モンド」
「……いえ、大した事では、申し訳ありません」
ウィルが前進した足元には少年が倒れていた。どう見ても健康そうには見えない状態に、ウィルは目を細める。
「モンド、この子は何故倒れている。名前はなんていうんだ、階級は?」
矢継ぎ早に繰り出されるウィルの質問に、モンドの汗は止まらなかった。聞き間違えがなければ、大柄の男はウィル=ヴィンハレム少佐と名乗った。かの有名な、剛勇ウィル少佐、荒れ狂う暴風、人智を超えた化け物、二つ名はいくらでもあった。
「我が組織には合言葉があるのは知っているな。山と言えば川、谷と言えば岸だったか。モンド、念のため答えてくれ、葡萄と言えば?」
ウィルの問いに、モンドは唸る。葡萄と言えばで始まる合言葉なぞあるのか。
「……酒でしょうか」
「ははっ、そうだな、葡萄と言えば酒だったな」
にこやかにモンドへ歩み寄るウィルだったが、声は全く笑っていなかった。
「で、お前、本当は誰だ」
言うが早いか、ウィルの体重の乗せた右拳がモンドへ迫る。モンドはかわし損ね、とっさに手をかざしウィルとの間に障壁を作り出し受け止めていた。
「ぐぅ!」
呻き声が絞り出され、モンドは後方に数歩たたらを踏む。ありえない現象だった。空間と空間の狭間に障壁を作ったのだ。衝撃が伝わるはずも、重さを感じる事さえもある訳がない。完全防御のはずの障壁をウィルは殴り壊す勢いだった。
「もう一度だけ聞く。お前、誰だ」
「ビシャス、手伝え!」
ウィルの圧に屈し、モンドはビシャスに声を張り上げる。ビシャスはかなり後方からこちらへ加速を始めていた。それを確認し、モンドは身構える。
「この子に何をした」
ウィルが一歩、また一歩とモンド達へ歩み寄る。
「ちょいと遊んでやったんだよ、すぐ壊れやがって、もう少し楽しめるかと思ったんだけどなぁ!」
モンドは言葉と同時にウィル目掛け、空間を掌握して押し出す。常人なら数メートルは優に吹き飛ぶ力を込めた。だがモンドの計算は呆気なくご破算になった。
「遊んだだけねぇ……そうかい」
ウィルは何事もなかったように歩みを止めなかった。確かにウィルの頬は歪み、後方へ向けて空間が押し出されているにも関わらず、それをものともせずウィルは進み続ける。
「あんた、なんなんだよ、この化け物野郎が!」
モンドがウィルへ飛びかかり、右足で蹴り出そうとする。ウィルの胸に直撃したはずが、それでもウィルは止まらなかった。
「人だよ、れっきとしたな。人でなしのお前と違って」
ウィルは胸元のモンドの足を左手で掴み、そのまま地面へ振り下ろす。辺り一体が地鳴りに似た悲鳴を上げる。モンドの悲鳴も聞こえた気がしたが、ウィルの耳には届かない。そのまま再度足を持ち上げ、手近にあった壁へモンドを投げ放つ。
「兄貴!なにしてんだよ!」
すんでのところでビシャスがモンドを受け止め、二人とウィルは再度対峙していた。
「お前ら、空間掌握出来るのか、生身だろ」
「やるぞ、ビシャス、全開だ」
ウィルの問いかけを無視し、モンドとビシャスは地を踏み締め、両手を突き出していた。途端に周囲は震え出し、軽い物から順に浮かび上がっていく。小石から始まり、果ては連なる商店の屋根が軋みを上げる。ウィルは小さく息を吐いていた。
「町の外まで吹っ飛べや!化け物野郎!」
モンドの言葉にビシャスも応じ、同時に二人が空間を押し出す。突風のような気圧の変動に、そこら中の物がウィルの方向へ飛び放たれる。
「遅い」
ウィルは言葉と共に地を蹴り上がり、左方にあった建物の壁へ飛び付いていた。誰も居なくなったメイン通りを突風が過ぎ去り、辺りが根こそぎ削り取られていた。モンドはウィルの動きを目で追い、驚愕の表情を浮かべていた。
「嘘だろ、おい、なんだよその飛び方!てめぇも空間掌握してんだろうが!」
常軌を逸した速度で移動するウィルにモンドが叫ぶ。
「鍛えりゃ出来るようになるさ、空間なんぞ掌握せんでもな!」
壁を蹴り、ウィルはビシャスの足目掛け踏み付けるように右足を食らわせていた。骨のどこの部分か興味はないが、ウィルの右足には何かを踏み折った実感が伝わる。
「うああ、いてぇ、いてぇよ!兄貴ぃい」
悶絶の表情を浮かべ、ビシャスは倒れ転がろうとする。隙だらけだった。状況に追い付けないモンドを横目にウィルは左手でビシャスの長髪を掴み上げ、腹部に右拳を撃ち放つ。胃から急激に込み上げ吐き出そうとするビシャスだったが、更に突き出した顎にウィルの右肘が決まり、首が異常に伸びた状態でビシャスはまたもや宙を舞っていた。
「くそが!邪魔すんじゃねぇよ!」
モンドは次々と両の拳を繰り出し、ウィルへと命中させる。薄く円状に伝わるよう空間を掌握し、ウィルの身体の内部から破壊を試みていた。常人ならば内臓が損傷し、肺は破裂、血飛沫が口から止め度なく溢れ出し、死に至るはずだった。
「いくら外側を鍛えようが、内臓まで鍛えようがねぇだろ!なぁ、どうだよ気分は!」
モンドの表情には狂気が滲み、口はだらしなく開いていた。今まで何人もこうやって殺してきたのだろう。いたぶり、追い詰め、手にした力をモンドは弱者に振るっていた。
だが、今回だけは相手が悪かったようだ。
「……おい、あんた……本当に何者なんだよ、なんで死なねぇんだよぉ……」
モンドは得体の知れないウィルを目の前にして、泣き出しそうになっていた。何度撃ち込んだのか数えてもいない両の拳は皮が裂け、血が滴り落ちていた。モンドの眼の光は徐々に失われ、頬から首にかけてヒビが生まれていく。モンドの眼はもはや真っ赤に充血し、死へと誘うはずの自身が、死へと近づいていた。
「その程度じゃ毛ほども効かねぇよ」
ウィルの言葉に力なく膝を落とし、モンドは天を仰いでいた。
「理屈は知らん。俺に空間掌握の類は通用しねぇ。刃物の類も大抵通じねぇ」
ウィルはモンドの首を片手で持ち上げ、強く締め上げる。
「モンド、お前の言う通り、俺は化け物なんだろうな」
小さく呻き声が聞こえるが、今のウィルはその手を緩める気にはなれなかった。
「最後だ、もう一度同じ質問をする。お前は誰だ。どこに所属している」
ウィルの問いにモンドは答える。
「ぐ……俺はよぉ、中央管理軍でも……なんでもねぇんだ……」
モンドはもがきながら、ウィルの手にしがみ付き足を痙攣させる。モンドに発生したヒビは顔全体に侵食し、ぼろぼろと皮膚が落ちていく。必死にモンドは声を出していた。
「言われた通りにしただけなんだ……力を手に入れて、調子に乗っちまっただけなんだよ、許してくれ、許して――」
モンドの言葉が終わる前に、ウィルはずぶりと濡れた音を耳にしていた。
「あっ!あぁあっ!」
モンドの悶絶する声に、状況判断を一瞬遅らせたウィルは、眼前に血濡れた手がモンドを貫いていた事に気付く。その手にはモンドの心臓が握られ、一気に引き抜かれていた。モンドは振り返り、心臓を抜き取った人物を見て落胆の色を浮かべていた。
「ビシャス……なんでだよ……」
「へへっ、兄貴、死なせはしねぇ、これからも一緒だ」
モンドの断末魔の言葉に、ビシャスは満面の笑みを浮かべていた。その様相は日常から大きく離れ、ビシャスの首はウィルの一撃により片側へ折れ曲がり、異様に長くなっていた。
ビシャスはおもむろに抉り出したモンドの心臓を口に含み、食い始める。
「なにやってんだ……お前」
既に事切れたモンドを地に降ろし、ウィルは眼前の光景に怪訝な表情を向ける。
「なにって、兄貴の核を食ってんだよ、一緒に、一緒になるんだよ!」
ビシャスはもはや正気を失っていた。モンドの心臓を全て平らげ、異常な高笑いを発する。ビシャスの身体に変化が生じていた。ビシャスの鼓動はウィルにも聞こえるほど大きく高鳴り、胸部や脚に留まらず、指先に至るまで膨張を始めていた。
「あははははは!きたきたきたきた!兄貴だよ!兄貴を感じる!」
ビシャスの膨張は更に続き、今やウィルの体躯を完全に上回っていた。身の丈二百五十は優にある。自身より身長の高い者を見上げる事に慣れていないウィルは、一歩だけ後ろへ引いていた。
「一緒、一緒、一緒だよぉお」
ビシャスは狂ったように同じ言葉を発し、ウィルに折られた首の骨を無理やり戻していた。ビシャスの肌は赤黒く膨れ上がり、中央管理軍の制服は破れて原型を留めていなかった。
「……やべぇな、こりゃ」
ウィルは腰部に取り付けた収納帯に手を忍ばせていた。通常戦闘において素手を好んで用いるウィルだったが、それは相手が人間だからだった。眼前のビシャスは人間から大分遠ざかっている。こだわりは捨てるべきだ、ウィルは意を決していた。
「さぁ、やり直そうぜ、兄貴、あいつぶっ殺してやろうぜぇ!」
ビシャスが天高く吠え、猛然とウィルへ襲い掛かり、ウィルは身構えていた。ここでビシャスを仕留めなければ、被害は想像も出来ない領域に達するおそれがある。手加減は不要、ウィルは両足で踏ん張り、肉弾と化してビシャスへと飛び上がっていた。
両者が衝突し周囲は壊れんばかりに振動する。ウィルは収納帯から手製の爆薬を取り出すとビシャスを軸に蹴り上がり顔面目掛け爆薬を投げ付けていた。距離を取る暇はない。
「あん?なんだこれ」
ビシャスの言葉は爆発と共に掻き消され、顔面を抑えながらもがき苦しむ。ウィルも多少食らったものの、爆発の衝撃と同時に後ろへ飛び、軽傷で済ませていた。
ウィルが用いた爆薬は、赤色と緑色の薬液が一つの容器に納められ、中心を軸で区切っていた。通常は混ざり合うはずのない構造だったが、中心の軸をずらす事によって穴が開き、二色の薬液は化学反応を起こす。ウィルの加減によって起爆までの時間は自在、通常なら数秒置いて起爆させるものだが、今回は猶予がなかった。起爆まで一瞬で達するように軸を目一杯回していたのだ。
辺りには盛大に土埃が舞い上がり、ウィルはビシャスを見失っていた。
「くそ、どこ行きやがった」
ウィルが視線を左方に移した瞬間だった。真逆の右方からビシャスが突進をかけ、ウィルは経験のしたことがない衝撃に吹き飛ばされ、手近の壁に叩き付けられていた。
「っ……マジかよ」
壁に手を付き、態勢を整えるウィルに追撃を加えるビシャス。ウィルも態勢を低く伸び上がり、ビシャスに応戦していた。猛り吠え合う殴打の応酬は幾重にも続き、両者の激突は徐々にネイバーハッドの景観を壊していく。地鳴りのような撃ち合いは遠く離れた中央広場まで響き、まるで戦場の様相を呈していた。瞬時に決着は付かない。ウィルは歯を食い縛り、ビシャスの一撃一撃をいなし、アノンの事を思い浮かべていた。援護には行けそうにない。無事で居てくれ。ウィルは焦燥を募らせ、ビシャスへと向き合っていた。
ウィルとビシャスの戦闘の余波は中央広場でも動揺を誘い、ゲイルが一人呟く。
「何が起きてるんだ……モンドも通信に応じない」
ゲイルは苛立っていた。狩りに出た自軍の勢力が戻ってこない。そればかりか、状況はおかしくなる一方だった。ゲイルの変調にライアンが気付き、声を上げる。
「うちの援軍が来たんじゃないの?町民を解放するなら今の内よ」
「黙れ」
「今なら死罪は免れる、最悪終身刑でも生きていられるのよ、考え直して」
「黙れと言ったのが聞こえねぇのか、くそアマが!」
ゲイルは激昂し、ライアンの腹部を強く踏み付けていた。小さく呻くライアンだったが、その眼には士気が戻りつつあった。冷静そうに見えてゲイルも短気だった。挑発すべき状況ではないが、交渉するならこの動揺を利用する他ない。ライアンは言葉を続ける。
「お、お願いよ、人質なら私がなるから、みんなを解放してあげて」
「もう一度は言わないぞ、黙れ」
ゲイルは冷ややかな目線をライアンに送り、腰元に下げていた短刀に手を掛けていた。
「だいたいお前、頭悪いだろ。いくら中央管理軍の軍人だとしても、ネイバーハッド町民四百六名とお前一人で釣り合う訳がない、単純な計算も出来ないのか」
ゲイルの言葉に、ライアンは唇を噛む。交渉の余地はないのか、ライアンが思考を巡らせる中、遥か上空ではアノンが耳を澄ませていた。ゆったりとした動きで空中に制止する。
「頭が悪いのはどっちなんですかねぇ」
アノンは天を背に、地を前に構え、短距離走の態勢を取る。
「別々に人質を管理されてたらどうしようかなーっとか思ってたんですけど、言質が取れましたね、一気に確保といきますか」
発する言葉と同時にアノンは空中を猛烈な速度で駆け下りていく。一筋の光線が中央広場へと一直線に伸び、地上は目前に迫っていた。
「ゲ、ゲイルさん、あの、ゲイルさん!」
仲間の男がゲイルに声を掛ける。
「どうした」
「あの、上見て下さい、なんか降りてくるんですけど」
「……あん?なに言ってんだ、お前も頭すっからかんなのか」
ゲイルはそう言うが、男の言う通り空を見上げていた。ゲイルの視界に映る一筋の光線。瞬時に人と判断出来なかったが、みるみる大きくなるその光線は、確かに人の形を成していた。
「ありゃ一体なんだ……」
アノンは状況の混乱を察し、一気に中央広場へと降り立つ。同時に空間を掌握し、それぞれ武器を所持し立ち上がっていた男達を周囲に弾き飛ばしていた。悲鳴は遥か遠くに響き、男達はそれぞれ壁や家屋にぶつかり呻き声を上げている。その中にゲイルも居た。
「くっそが!なんだってんだよ!」
ゲイルは空中で身を翻し、後方に空間を押し出して勢いを殺すと、地へと降り立っていた。ゲイルの眼は黒色で、髪は緑がかっていたが、その目線は確かに光彩を放っていた。
「混ざりものですか、難儀なことしてますね。命削りますよ」
ゲイルを見据え、アノンは自身を中心に両腕を左右へと振り、空間を掌握し始めていた。町民達を囲うように半月状のドームを築き出す。ゲイルはその状況を見て愕然としていた。
「おいおい……お嬢さん、その銀髪に青い眼、人造兵器だろ」
「どうでしょうね」
アノンは目を細め、尚も築き上げたドームを厚く、堅いものに形成し始める。
「どう空間を掌握したら、そんな事が出来るんだ。押し出すか、蹴り出すか、その程度じゃなかったのかよ!」
ゲイルの疑問は最もだった。一般的な人造兵器が出来ることは二つのみ。空間を押して利用するか、少々掴んで短時間浮くだけだった。アノンが今見せるような形状を作り出す事は前代未聞の現象だった。しかも町民四百六名全てを囲う大型のドームを形成するのに、一体どれほどの力を消費しているのか、ゲイルには想像も出来なかった。あれだけの領域を掌握してしまえば、瞬時に力尽き、肌はヒビ割れ剥がれ落ち、やがて枯れ木のように死に至るはずだった。
にも関わらずゲイルの眼前に存在する少女は、それを維持し、強化し、平然と生きている。異常、その一言だった。
アノンは思う。町民を守りながら、いかに早く周囲の敵を全滅させるか。時間との勝負だった。猶予は無に等しい。中央広場に降り立つ直前、ウィル少佐を投げ飛ばした方向から、異様な反応が噴き出している事にアノンは気付いていた。与えられた役目は理解している。それでもウィル少佐の状態が気掛かりだった。あの人がこと戦闘において誰かに負けるなぞ想像も出来ない。出来ないが、不安が全くないと言えば嘘になる。迅速に、事態を納めなければいけない。アノンから発せられる煌めきは、決意に呼応して強く研ぎ澄まされていた。
不可解な現象に包まれ、ネイバーハッドの町民達は混乱を極めていく。あらぬ方向から光り輝く少女が舞い降り、自分達を脅していた男達を弾き飛ばすばかりか、常人の目に見えるほどの領域を形成し、守ってくれている。敵ではないにしろ、得体の知れない余所者に変わりはなかった。その中で唯一人、ライアンだけが状況を把握していた。これだけの領域を掌握出来る存在は、軍籍に身を置く者達の間で知られている限り、一人しか居ない。中央管理軍が所有する人造兵器で最高傑作と名高い存在。アノン中尉をおいて他に有り得ない。ライアンは胸が高鳴り、声を発する。
「アノン中尉!アノン中尉なんですか!」
ライアンの必死の呼び掛けに、アノンは首を傾げていた。知り合いだろうか、見覚えがない。だが悪意は感じられなかった。アノンはライアンに視線を送り、小さく頷いていた。
「良かった……援軍が来てくれたんですね。しかもアノン中尉が来て下さるなんて」
「あー……援軍といいますか、成り行きといいますか……」
「え?」
怪訝な表情を浮かべるライアンに、アノンは首を左右に振る。
「いえ、状況を教えてもらえますか、えーっと」
「ライアン三等兵です、報告させて頂きます、少しお待ち下さい」
後ろ手に縛られたまま倒れているライアンは身をよじり、アノンを見上げる態勢から正そうとするが小さく呻きを上げるだけで、上手くいかないようだった。
「ごめんなさい、その状態では話し辛いですよね」
アノンが親指と中指を合わせ指を鳴らすと、ライアンを拘束していた縄の繋ぎ目が弾け飛び、縄は力なく地に落ちていた。ライアンは驚きの表情を浮かべる。
「……凄い、こんな小さな空間も自在に……」
「時間がありません、手短にお願いします」
アノンの言葉に、ライアンは周囲の異変に気付いていた。いつのまにかゲイルが接近し、アノンの作り出したドーム型の領域に両の手で掴みかかっていた。
「これだけデカけりゃ、一点に集中した掌握には弱いはずだ!野郎ども、穴が開いたら町民もろとも皆殺しにしろ!」
アノンの先制攻撃に耐えた数人の男がゲイルの声に応じ、各々が武器を手に持ち、身構えていた。アノンとゲイル、空間の掌握と掌握がせめぎ合い、ドーム型の領域は甲高い音を立てて軋みを上げていた。状況を察し、ライアンは急ぎアノンへ報告をする。
「今朝方、眼前の勢力がネイバーハッドに侵攻、駐留所勤務六名で応戦を試みましたが、六名の内、指揮官を含む三名は戦闘中に殺害され、私を含む二名は捕虜になり、内一名は先程殺害されました……」
ライアンは唇を噛み、報告を続ける。
「残る一名は援軍を呼ぶよう指揮官に命ぜられ、別行動を取っております。ネイバーハッドの町民は外に出ていた少数の者を除き、全てアノン中尉の領域内に居ます」
言葉を無心に吐き出し続けるライアンだったが途中から涙ぐみ、嗚咽が混ざり始めていた。
「こんなにっ……自分が無力だと思いませんでした。故郷すら守れないで、何が守れるのか私にはもう……」
ライアンは俯き、苦悩の表情を浮かべていた。アノンは幹部位として苦悩する新兵に対し声を掛けるべき状況だったが、差し迫る現状がそれを許してはくれないだろう。
アノンはあえて感情を殺し、事態の収拾に努めようとしていた。
「報告は以上ですか」
アノンの冷静な声に、ライアンが再度顔を上げる。
「は、はい、以上です」
「ならば、涙を拭きなさい、ライアン三等兵。貴官は我が組織の制服を身に纏い、町民達の前に居る、その事を忘れないで下さい。不安は伝染する、望ましくない状況になります」
ライアンが目を大きく開き、アノンの言葉の意味を理解したのか、涙を片腕で拭っていた。その最中もゲイルの掌握による相殺は続き、アノンが形成したドーム型の領域の一部分だけがくぼみ、今にも穿たれそうなほど状況は悪化していた。アノンは構わず言葉を続ける。
「敵対勢力の中に腕の立つ者が居るようです。私はこの領域を維持したまま、相殺されかけているあの空間を一瞬だけ解除し、打って出ます」
アノンの言葉に、ライアンは息を呑むが、その表情には強い意思が再び宿り出していた。
「解除した空間は再形成しますが、その刹那にもし敵対勢力が領域内へ侵入した場合、ライアン三等兵、貴官には迎撃を命じます。宜しいですか」
ライアンはアノンを見つめ、力強く頷いていた。
「私の収納帯に軍用ナイフが二振り納められているので、取り出して下さい」
「はい!」
アノンの指示通り、ライアンは収納帯から軍用ナイフを取り出し、自身のベルトに差し込む。更にほつれた髪を再度結い直し、ライアンは意を決しアノンに目配せをしていた。
「タイミングを合わせます、十カウントで行きますよ」
「了解です!」
アノンは小さく息を吐く。靴で地面を鳴らし、三つ、四つとカウントを刻む。アノンの強い眼光に、ゲイルが気付いた時にはすでに遅かった。カウントは九つに達していた。
「最後まで諦めないで、ライアン」
カウントは十に達し、アノンは言葉を発すると同時にゲイル目掛け走り出していた。密閉された領域内で空間を押し出すような掌握をする訳にはいかない。自力の疾走だった。
「なにっ」
まさかアノンが自ら向かってくる事を予想していなかったゲイルは動転し、空間の掌握が甘くなっていた。その心の隙に合わせたかのように、相殺を仕掛けていた領域が唐突に通常の空間へ戻っていた。アノンが故意にゲイルの眼前の空間のみ、領域を解除していた。
ゲイルは急に体重を掛けていた領域が無くなり態勢を崩す。アノンはその前のめりに倒れ込もうとするゲイルの肩口を狙い、右足で踏み付けていた。
「このくそアマがぁ!」
ゲイルの抜き放った短刀が横一直線に払われ、アノンは踏み付けた右足を軸に飛び上がり、それを紙一重でかわしていた。そのまま空間を掴み、更に上空へと昇り続ける。前転するように視界をドーム型の領域へ戻すと、アノンは解除した空間を再形成しようと掌握を行う。
その一瞬だった。ゲイルは両脇に居た男達を掴み、空間を押し出して領域内へ侵入させようと試みる。アノンの再形成とほぼ同時に事は起こり、男の一人は侵入に成功し、もう一人は再形成された領域と地面に胴体を挟まれ、半身が分かれて絶命していた。
アノンは奥歯を噛み締める。一人とは言え侵入を許してしまった。新兵のライアンに後を託したのは、万が一を想定しての事だった。まさか身内の命を放り投げるように侵入を図るとは思わなかった。やり口が度を過ぎている。
アノンの焦燥を他所に、ゲイルは声を張り上げていた。
「一人でも多く町民を殺せ!見せしめにしろ、あの人造兵器はこっちで片づける!」
ゲイルの言葉に呼応し、侵入に成功した男は手にした山刀を振り回し町民へと迫っていた。
「止めなさい!これは警告じゃないわ……近付いたら、殺す」
男を制していたのはライアンだった。アノンから借り受けたナイフを一方は順手で、一方は逆手で持ち、男の前へ立ち塞がる。ライアンの身の丈は百六十五と標準以上だったが、侵入した男はおよそ身の丈百八十と大柄で、肌も浅黒く、筋肉が隆起している外見だった。訓練では自身より大柄の相手を組みする経験も積んできた。ライアンは何度も心の中で繰り返していた。気圧されるな、領域内は自分が任されたのだ、引く訳にはいかない。引けば、故郷の人間が次々と殺されてしまう。躊躇するな。戸惑うな。
男が気持ちの悪い笑みを浮かべながらライアンへと歩み寄り、ライアンは叫んでいた。
「近づいたら殺すって言ったじゃない!」
体制を低く保ち、男の胴体に狙いを定めるライアン。逆手に持ったナイフを裏拳の要領で男に突き刺そうとするが、男の膝に撃ち上げられ、片腕は弾かれるように天を差し、ナイフは宙を舞っていた。ライアンは思わずそのナイフに視線を送ってしまうが、次の瞬間には視界に血飛沫が写し出されていた。
「……あ……え?」
順手に持っていたナイフが地に落ち、初めて自分の肩口が深く山刀によって斬り裂かれている事にライアンは気付く。一瞬痛みを感じず現実味が湧かなかったが、疼きと共に傷口が熱を帯び、耐え難い痛みの波が押し寄せ、ライアンは膝から崩れ落ちていた。声にならない悲鳴が喉から出ては口外へ吐き出される。その様子を見ていた町民達からも悲鳴が上がっていた。
「ライアン三等兵!」
アノンの悲痛な叫びに、ゲイルは下卑た笑いを浮かべる。
「なんだよ嬢ちゃん、計算でも狂ったか、自分は最強とか勘違いしてたんだろ、あ?」
ゲイルの指示で一斉に鉄矢がアノン目掛けて飛来する。男達の何人かは単発型のボウガンを持っていたのだろう、数瞬の暇もなく、鉄矢はアノンを貫こうとしていた。手加減など出来るはずもない、アノンは段階を上げながら男達を見下ろす。飛来していた鉄矢は唐突に空中で千切れ、鉄屑となって虚空へと消えた。弾く、防ぐ、避けるといった動作ではない。ゲイルは何が起きたのか判然としなかった。鉄矢の周辺が急にねじれ、飲み込まれて消え去ったようにゲイルの眼には写っていた。
「なんだ、今の」
僅かに残る鉄矢の残骸が風に流され塵になっていく中、ゲイルが次に耳にしたのは身内の男達の悲鳴だった。男達の首は次々と押し潰され、辺り一面に血の花を咲かせる。熟れた果実が散乱していくような様に、ゲイルは恐怖より先に、乾いた笑いが込み上げていた。
「ひ……ひひひ……お嬢ちゃん、なにをしてるんだよ……なぁ……ひひ……」
ゲイルが見上げたアノンの姿は陽光に照らされ、目を開けていられない程の煌めきを放っていたが、アノンの両の眼だけ視界に捉える事が可能だった。通常、人造兵器の眼は鮮やかな青色を宿し、人工の証とは言え美しさで敵うものは少なかった。だがアノンの両の眼は今、深紫の色を宿していた。鮮やかさとは真逆。美しさよりも妖しく、一度見合わせてしまえば二度と視線を外す事は望めない。それは死を予兆させる色だった。
「もっと近くで見たい」
ゲイルはそう言うと両足で飛び上がり、空間を足元へ押し出す事に注力する。少女ほど高く飛ぶ事は出来ないだろうが、少しでも近くに寄ってあの眼を見たかった。ゲイルは憑りつかれたようにアノンを目指す。
「私に許可なく触れていいのは、一人だけです。貴方じゃない」
アノンは右手をゲイルに差し出し、人差し指をくるりと一周回す。途端にゲイルは胸元に違和感を覚え、それきり身体に力が入らない事に気付く。ゲイルは胸元に視線を戻すと、大きな穴が出来ていた。血が滴り、吸い込んだ空気がくぐもった水の音を奏でる。手を差し込むと背中まで手が出てしまう。穿たれた、ゲイルは確信する。なんて力なのだろう。多少の力を身に付けた者だけが分かる、歴然とした差。眼前の少女は、本当に人造兵器なのだろうか。人の手で作り出した存在なのだろうか。ゲイルはその答えを得ぬまま、地上に辿り着く前に絶命していた。
アノンはゲイルの最期にさして興味も湧かず、自身が築き上げたドーム型の領域へ視線を移していた。まだ間にあうだろうか、領域内に侵入した男を探すが、アノンは意外な光景を目の当たりにする。
あれだけ怯えていたはずの町民達が寄ってたかって男に襲いかかり、医師と思われる白衣を纏った女性がライアンに寄り添って止血を試みていた。次々と迫り来る町民達に男は山刀を振り続け、声を荒げる。
「てめぇら!調子に乗ってんじゃねぇぞ!死にたい奴からかかってこい!」
十分に山刀を振るえないのだろう、男は威勢だけ良かったが、足には数人の町民が押し寄せ、振り回す手もほどなくして抑えられていた。
「うちの娘にこれ以上手は出させん!やるなら私からやるがいい!」
ライアンの父親なのだろう、必死に男に食い下がり、額からは血を流していた。
「離せよ!離せって言ってんだろうが!」
男の叫ぶ声に呼応するように、医師をどかせてライアンが立ち上がる。
「はぁ……はぁ……言ったはずよ、近付いたら殺すって、言ったはずよ!」
ライアンは駆け出し、放り出されていたナイフを拾い上げ、満身の力を込めて男の喉元へ突き立てていた。
「動いちゃだめよ!ライアンちゃん!」
医師の声が響く中、男は言葉もなくライアンの一撃で地に倒れていた。
「誰も……私の故郷に手は出させない……うっぐ」
ライアンの肩口からはまたもや血が噴き出し、仰向けに倒れ込んでいた。医師が駆け寄り、再度止血を試みる。ライアンの父親も顔面が蒼白になっているが、自身の怪我なぞ気にもせず娘に声を掛けている。
ゲイル率いる男達は、決して犯してはいけないところまで犯してしまったのだ。ネイバーハッドの町民達の心を、ライアンの一線を、そしてアノンの逆鱗に触れた。中央広場の状況は収束を向かえ、歓声が湧き上がる。だがアノンはドーム型の領域を解除すると、町民に向け声を発していた。
「まだ安心は出来ません!敵の残党と私の上官が戦闘を継続しています。すぐに町へ国内の衛兵が援軍を率いてやってきます。怪我人を介護し、避難を開始して下さい!」
町民に騒めきが広がるが、ライアンが弱々しくアノンの声に答える。
「みんな……あの人に従って……きっと大丈夫だから……」
その一声に、騒めきは鳴りを潜めていた。ライアンはアノンに視線を送り、頷く。行って下さい、そう言われた気がした。アノンも頷き返す。
アノンは踵を返し、ウィル少佐を投げ落とした地点へ進路を定める。未だ戦闘の余波は中央広場まで伝わり、戦闘の継続は疑いようもなかった。あの人がここまで手こずる相手をアノンは一人しか思い当たらなかった。それほどの相手という事になる。アノンは空中を蹴り出し、加速を始める。一秒でも早く、ウィル少佐の傍へ。アノンの煌めきは尚も輝き続け、神々しいまでの光線を描いていた。
中央広場の戦闘が終わりを迎えた今、ネイバーハッドの町中で激しく撃ち合う存在はウィルとビシャスの二人だけだった。メイン通りの商店や家屋は粉々に吹き飛ばされ、建物にはビビが入り原型を留める事が精一杯の状況だった。
「あんた、すげぇよ、硬いし早えし、もっとやろうぜ!」
ビシャスの叫ぶ声に、ウィルは舌打ちを返していた。力の源流が霊石ならば、いずれ底を付いてビシャスは死ぬはずだった。実際にビシャスの身体は至るところからヒビが生じ、赤黒い肌は朽ちて剥がれ落ちていた。だがビシャスの勢いは止まらず、剥がれ落ちた肌は再度膨張を繰り返して元通りになる有様だった。霊石一つが貯め込み、回復出来る範疇を超えている。
「てめぇ、何個食った、核を」
ウィルの言葉にビシャスは笑みを浮かべると右腕を乱暴に放つ。ウィルはそれを受け止め、ビシャスの右腕を自身の両手で掴むと、外側へ捻りビシャスの身体を宙に浮かす。視界が回転し、天地と自身の位置関係が分からなくなるはずのビシャスは、回転の方向とは逆に首を回しウィルを見据えていた。首の骨が不気味な音を奏でる。
「比喩じゃなく、化け物じゃねぇか、こいつ」
ウィルは持ち上げたビシャスを後方へ投げ飛ばし、距離を取っていた。ビシャスは空中で態勢を整え、首を元の方向に回しながら高笑いを上げる。
「何個めだったかなぁ……三つ?四つ?よく憶えてねぇや」
人差し指を口元に当て、だらしなく垂れたビシャスの異様に長い舌がうねり出す。
「兄貴のは美味かったなぁ、女の核も美味かった、ガキの核も美味かった。兄貴に隠れて食いまくったが、やめられねぇんだよ!美味くて美味くて、もっと食いたくてさぁ!」
ビシャスは言うと態勢を低く構え、両手を地に付ける。まるで四足歩行の獣。ひと際両脚が膨れ上がりビシャスは地を削りながら駆け出す。
「そこのガキも食ってやる!他にも居るだろ!兄貴には黙ってたが俺には判るんだよ、核の匂いがさぁ!」
飛び上がり自身へと迫るビシャスを見据え、ウィルは現状を正しく把握していた。ビシャスはアノンの存在に気付いている。傍らに倒れる少年ばかりかアノンを襲い、核を引きずり出し食うつもりだった。ウィルの全身は総毛立ち、その表情は凶暴性を明らかにしていた。
ビシャスの飛び付くような突進に、ウィルは微動だにせずビシャスの顔面を右手で鷲掴みにして制していた。恐ろしい握力に、ビシャスの悲鳴が辺りに響き渡る。
「あぁっ、やめろっ、離せくそ野郎!」
鷲掴みにするウィルに連打を浴びせるビシャスだったが、ウィルの握力は緩まなかった。
「誰を、食うって?」
ウィルの眼光にビシャスは目を剥き出し、得体の知れない恐怖に支配されていた。
「さっき言ったじゃねぇか!そこのガキと!誰か知らねぇけどここに向かってくる奴だよ!離せ離せ離せぇえええ!」
ビシャスの言う事が本当ならば、アノンがこちらに向かって来ている。中央付近の広場は鎮圧出来たのだろう、おそらくすぐにここへアノンは到着する。その前に決着を付けるべきだ。
ウィルは鷲掴みにしている右手に更に力を込め、ビシャスの絶叫がけたたましく木霊する。徐々にビシャスの身体からは力が抜け、だらりと両腕が地に垂れる。ウィルはそのまま地面へビシャスを押し付け、左拳に力を込め撃ち放つ。
「手加減はせん」
ウィルの左拳がまともにビシャスへめり込み、血を吐き出しながらビシャスの悲鳴は止まらない。不意にビシャスの放った右足がウィルとの距離を開ける事に成功し、ビシャスはその隙を付いて脱出を図る。目指すは町の外、ここでなければどこでも良かった。この男から逃れられれば、また好きなだけ狩りが出来る。核も食える。良い事尽くしだった。ビシャスは空間を後方に蹴り出し、四足歩行のまま地を駆ける。ネイバーハッドの町並みが視界の隅に高速で過ぎ去っていき、脱出は目前だった。
「逃げ切れる!よしよしよし!」
ビシャスの高揚を伴う声だったが、長くは続かなかった。
「逃がす訳ねぇだろ」
ウィルの声が聞こえた。ビシャスは駆け抜けながら辺りを見回す。前方、後方、左右、どこにもウィルの姿は確認出来ない。どこだ、どこだ、どこだ、ビシャスの焦燥は募る。
次の瞬間だった。急に押し潰されそうな圧力に見舞われ、ビシャスは態勢を崩し足が止まりそうになる。すんでの所で踏ん張り、再び駆け出したビシャスだったが、背中に妙な違和感を覚え動きを止めずに振り返る。ウィルが自身の背中に右手ごと突き刺し、血が吹き上げている光景だった。もはや上げ過ぎた悲鳴に喉はつぶれ、足がもつれてビシャスは倒れ込んでいた。
「……ど、どこから」
両手で必死に地を掻き、前へ進むビシャスだったが、ウィルが体内に入れた右手を捻ると激痛が走り、ビシャスは気を失いそうになる。ウィルは淡々と話していた。
「屋根だよ、飛び降りてぶっ刺したほうが早いと思ってな」
ビシャスの表情はもはや絶望に染まり、口を開いては閉じるを繰り返すだけだった。ウィルは刺し込んだ右手を引き抜くと、ビシャスに背を向け中央付近の広場へと向かう。
「み、見逃してくれるのか――」
ビシャスが言ってウィルに視線を送る瞬間、膨らみ上がる自分の身体をビシャスは目視する。ウィルが引き抜く際に残した爆薬が起爆し、体内は急激な温度上昇と共に、外側に無尽蔵に広がろうとする力が加わり、ビシャスは火と血肉をまき散らしながら爆散する。辺り一面が真っ赤に染まり、ビシャスは首から上だけを残していた。
「褒められたやり方じゃねぇな……」
ウィルは頭を掻きながら、ビシャスに目もくれず歩みを続ける。倒れた少年を抱え上げ、中央付近の広場方向に視線を戻すと案の定、視界にはアノンが写り、必死に自身のところへ向かっている様子が伺えた。
「おー、終わったかー?」
無造作に手を振るウィルだったが、みぞおちにアノンの飛び蹴りを食らい、悶絶する。
「なにが、おー、終わったかー、ですか!苦戦しないで下さいよ!馬鹿!」
「うぉ……おお……悪かった……」
ビシャスの一撃より、アノンの飛び蹴りのほうがよっぽど効く。ウィルは地に膝付き、アノンを見上げる。すでに段階を平常に戻したのか、アノンの煌めきは失われ、普段の容姿に戻っていた。違う点は一つだけ。いつも整えられ絹のように光糸を作り出すアノンの銀髪は、汗を含んで顔や首に張り付いていた。こちらも苦戦したが、アノンも相当の戦闘だったようだ。ウィルは立ち上がり、アノンを促す。
「で、首尾は」
「鎮圧完了です。町民の被害は軽微で、死人も居ません。ただ……」
アノンが俯き、ウィルは察して静かに言う。
「うちの連中はだめだったか」
「はい、衛兵も殺害されたようで、生き残りはライアン三等兵だけでした。不明が一人、援軍を呼びに行った子がどこかに居るはずなんですが……ウィル少佐、その子は?」
「んー、分かんねぇけど、たぶん敵じゃないな」
ウィルの左肩に抱え上げられ、力なくその身を預ける少年は刈り上げた銀髪に青い眼、中央管理軍の制服を纏っていた。呼吸は弱々しかったが、命に別状はなさそうだった。アノンは少年の頬に手を這わせ、目を細める。
「ヒビが入ってますね……過剰な消耗を強いられた可能性が高いです。ネイバーハッド上空で感じた反応はおそらくこの子でしょうね……早急に治療を。あと出来るだけ太陽光に当ててあげて下さい」
「あいよ」
アノンの言う通り日陰を避け、ウィルはメイン通りの中心を歩こうとした、その時だった。周囲の空間が軋みを上げ、甲高い音を発生させる。中央付近の広場方向とは逆、つまりビシャスの首が横たわる場所に空間の亀裂が発生していた。
「そんなっ、亀裂が出来るほどの兆候なんてなかったのに!」
アノンは驚愕し、ウィルは少年を庇うように身構える。軋みを上げて縦横二メートルに及んで開かれたその亀裂からは、不思議と有毒な霧は発生せず、ただぽっかりと虚空に亀裂が開いていた。亀裂の奥は暗く判然としなかった。
「いますぐ修復を……うっ」
段階を上げる準備に入ったアノンが呻きを上げ、地に手を付き荒く呼吸をしていた。
「ぐ……こんな時に力が残っていないなんて……」
中央付近の広場での戦闘、アノンにとってかなりの消耗を強いられたのだろう、頬や首にヒビは発生していなかったが、その表情から余力があまりない事がウィルに伝わっていた。
「町民に避難は命じたか」
ウィルの言葉に、アノンは頷く。
「最悪、凍結だ。アノンは段階移行を一旦禁止する。無理するな」
「でもっ」
珍しくウィルに食ってかかるアノンだったが、ウィルの強硬な表情に押され、諦めたのか顔を下に向けていた。不気味な空間の亀裂に変化はなく、安定している状態だった。広がる様子はない。閉じる様子もないが。
不意に、空間の亀裂から何かが見えた。黒い影に、人間のような手。ウィルは目を凝らすが、急に発せられた聞き覚えのある声に怪訝な表情を浮かべる。
「……あぁ、迎えに来てくれたんですね、私です、ビシャスです……」
生首が喋った。ウィルはさすがに驚愕する。なんという生命力だろうか。どのように声を出しているのか判然としないが、生首となったビシャスが亀裂から出てこようとする何かに話しかけていた。
「申し訳ありません、御身のため、尽くすべき私めが、欲情に駆られて御身に捧げる霊石を平らげてしまいました……お許しを、お許しを……」
ビシャスが話しかけ続ける黒い影は、亀裂から完全に身を乗り出し、ネイバーハッドに降り立つ。その外見にウィルとアノンは見覚えがあった。全身黒の服装に、覆面を被った不審者。
「覆面だよな、あいつ」
「……亀裂から出てきましたね、今」
ウィルとアノンは顔を見合わせる。昨夜襲撃してきた覆面と同一人物かは断定出来ないが、その外見に体躯は記憶と重なる部分が多い。まさかこの場所、このタイミングで再会するとは思いもしなかった。覆面はウィルとアノンを一瞥するとビシャスの生首を抱え、亀裂へと戻っていく。覆面の脇から垣間見えるビシャスの纏わりつく視線が、ウィルとアノンを舐めていく。ウィルは拳を鳴らしていた。
「アノンは待機だ、援軍を待て。すぐに戻る」
少年を肩から降ろし踏み出そうとするウィルにアノンが近寄り、制止を掛ける。
「亀裂の向こうまで追う気ですか。戻り方はご存じで?」
「知らん、なんとかなるだろ」
「中に何が待っているかも分からないんですよ、だめです」
「離せ」
「嫌です」
アノンの泣きそうな顔にウィルは困り果てる。敵対勢力の一部が逃げてしまう。アノンを振り切ろうとするが、記憶にある霧雨の光景と自身の姿、それにアノンが重なり動きを止める。
「嫌です」
アノンが同じ言葉を繰り返す。その間に覆面は完全に亀裂の中に入り、再び空間が軋みを上げ甲高い音を立てる。瞬く間もなく亀裂はなくなり、ウィルとアノンが残るだけだった。
「行っちまったな」
ウィルは諦め、全身から力を抜く。アノンはそれでも離れようとしなかった。
「もう行かねぇよ、離れろ」
「嫌です」
アノンは俯き、表情が判然としない。泣いているのだろうか、怒っているのだろうか。ウィルは溜め息を吐き、周囲を見渡す。状況は終了した。おそらくだが。
ウィルは収納帯から発光弾用の射出具を取り出すと、上空に向けて撃ち出していた。空気を切り裂く音と共に高く撃ち上げられた発光弾は、一定の高度に達すると爆発四散し、煌々とした赤い光と煙をまき散らし、事態の鎮圧を告げていた。平穏だったはずのネイバーハッドは襲撃され、あまつさえ亀裂まで発生してしまった。大局を見ればなに一つ解決の兆しが見えてきていない。ウィルはアノンの頭に手を優しく置き、頭上を見上げる。発光弾が描き出す赤い軌跡に視線を向け、いつまでもそれを目で追うばかりだった。
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