第一章 接触

 夕暮れ時の世界は、全ての境界が曖昧になる。薄くなるといったほうがより正確だろうか。境界はとぐろを巻いて捻じれてゆき、風景すらもぼかしてしまう。遠いようで、触れるほど近くにある。夢も同じなのかもしれない。男は夕日に包まれた草原に寝転び、沈み込むような感覚に身を任せる。

「……ちょっと、なに寝てるんですか、少佐! ウィル少佐!」

 聞き覚えのある声だった。ウィルは答える。

「瞼が重くて開かねぇんだ、抗いようのない……今にも落ちそうな……」

「それってつまり、眠たいってことですよね。起きて下さい」

 猫のように丸みを帯びた少女の目が、ウィルを呆れた様子で覗き込む。丁寧に手入れをされた銀髪のボブが風になびき、幾重もの光糸を作り出していた。

「反応、出たのか」

「はい、僅かですが。ここから南西に四キロの距離、境界に亀裂反応です」

 ウィルの問いかけに、少女は仄かに光彩を放つ青い眼で、南西を示していた。

「ウィル少佐、指示をお願いします」

 少女の声に、生真面目さが窺えた。お決まりの手順、やることは決まっている。長年相棒を務めてきた間柄ではあるが、規律を重んじ、段階を踏む少女は、いつも規律を軽んじてしまうウィルにとって、丁度良い生真面目さだった。

 虚空に亀裂が生じる、にわかに信じ難い現象が起き始めたのは、百年以上も前の事だった。発生頻度は不定期だが、過去に数度、亀裂によって人類を含む生態系は重大な被害を受けていた。亀裂から発生する霧が極度に有害であり、対象を問わず急激に腐食が進行し、生身で触れようものなら半日と命は持たない。町や村ごと霧に覆われ全滅したケースもあった。

 だが幸いな事に近年では亀裂自体が減少傾向にあり、被害は最小限に留まっていた。亀裂は修復可能な現象だった。その技術が確立したことも大きな要因だろう。要らぬ脅威は取り除くに限る。ウィルは起き上がり、小さく首を鳴らしていた。

「指示ね、ちょい待ち……っと」

 ウィルと少女は、小高い丘の上に居た。偵察に最適な場所。眼下には町が見える。目測でおよそ一キロの距離。ウィルの後方には、国境の壁と呼ばれる森林地帯があった。

「影響は止む無し、か」

 深い溜め息を吐いたウィルの声色が、硬く重いものへと変わってゆく。

「アノン、本部に伝達だ。シーヴォリー地区国境付近にて境界に亀裂反応あり、中央管理軍、先遣部隊所属ウィル=ヴィンハレム少佐の権限により、これより指示する範囲十キロ四方を凍結候補に指定、先遣部隊は住民の避難を最優先に行動、ウィル=ヴィンハレム少佐及びアノン中尉両名は亀裂の修復作業に当たる、以上だ」

「了解です、復唱します」

 アノンと呼ばれた少女の復唱と同時に、ウィルは町に視線を送る。それぞれの家屋にて夕飯の支度でもしているのだろう、煙突からは煙が昇っていた。先程まで町中を駆けていた子供達の遊び声は鳴りを潜め、平穏が時と共に流れてゆく。この国に限ったことではないが、国境付近の町や村は貧しかった。どの国を見ても大差はない。中央に行くほど裕福さが増していく。

 万が一、亀裂の修復作業に失敗すれば先の伝達の通り、この周辺は凍結される。一時の避難などではなく、移住を迫られるのだ。故郷を持たないウィルにとって、それが耐え難い苦痛だと理解していた。他の地区で再構築を図れるほど財を持つ住人は多くないだろう。失敗するわけにはいかない。ウィルの身体は急速に熱を帯び始めていた。

「ウィル少佐、本部より承認伝達、早急に事に当たれ、との事です」

「了解した。アノンは第二段階へ移行を許可、俺の援護に回れ」

「移行許可を確認、平常から第二段階へ移行します」

 アノンは言葉と同時に全身が仄かに発光し、光は額へと収束していく。身の丈百五十センチに満たない小柄で華奢な肢体は、音も無く空中へと浮き始め、上下迷彩の戦闘服から覗かせる透き通るような白い肌は煌めき、空中へ一歩、また一歩と踏み出していた。

 自立思考型人造兵器、アノンの呼称はそう呼ばれていた。人は自力で空を飛ぶことは出来ない。それが現実だ。その現実を打ち破ろうとした夢想家が居た。それは実現してしまった。アノンにも製造番号があり、公式の軍議では製造番号で呼称されることもあるが、ウィルはそれが気に入らなかった。一度として、名前以外で呼ぶことはない。

「第二段階への移行を完了、空間掌握率を八十パーセントに固定、行けます」

「よし、亀裂発生地点へ誘導を開始してくれ」

「了解しました。私に掴まって下さい」

 アノンは左手をウィルに差し出し、同意を求める。

「南西に四キロ程度なら移動の補佐まで必要ねぇよ、行くぞ」

「あ……でも」

 是非を問う間に、ウィルの巨体は地面を踏みしめ、飛び上がるように駆け出し、加速を始めていた。亀裂は南西の方角、つまり後方の森林地帯にある。

「ま、待って下さい!」

 アノンも空中を両手で掴み、片足で空間を蹴り出して加速する。

「なめんなよ、置いてくぞ」

 アノンと同様、迷彩の戦闘服に身を包んだウィルは、身の丈百九十センチの体躯からでは予想出来ない瞬発力に、ずば抜けた耐久力、さながら肉食の猛獣のように地を蹴り、黒に赤みを帯びた短髪で風を切り裂き、目的地へと突き進む。その脚力は人の領域から外れており、ウィルもそれを自覚していた。人造兵器でもない自分がなぜこれほどまでに強靭な身体能力を発揮出来るのか、答えは出せていない。唯一言えることがあるとすれば、ウィルはこの仕事に向いていた。瞬く間もなく、二人の移動距離は伸びていく。

「亀裂発生地点に接近、方位を二十度修正、ウィル少佐、そっちじゃありません!」

「あいよ」

 息切れの一つもなく、ウィルは速度を緩めず進路を修正する。国境の壁と比喩されるだけに、その森林地帯は木々が密集しており、移動が容易とは言えなかった。にも関わらず全速力で二人が移動出来るのは、個々の能力が極めて高いことに起因していた。アノンは空間掌握により、文字通り空間を掴み、蹴り出すことが出来る。木々の隙間を縫うように飛び周り、高所からウィルを誘導していた。

 片やウィルも、その身体能力に身を任せ、地を駆けるだけでなく、木々を踏み台として跳ね上がることにより、立体的な移動を可能としていた。

「目標を確認、接触します!」

 アノンの目線の先に、多少開けた空間があった。小屋を建てられるような面積はないが、手を広げて図るには広すぎる。国境の壁に出来た穴のような場所、亀裂はそこに発生していた。

「亀裂の進行状態は……発生直後ってとこか、開きかけてやがる」

 草原の中央、ウィルの体躯よりやや高い位置に、黒く亀裂が生じていた。幅約二メートル、亀裂の奥から、濃紫の気体が漏れ出している。早くも周辺の木々は腐り始め、耳障りな音を立てていた。触れてはいけないと本能で思わせる得体の知れないものがそこにあった。

「ウィル少佐! 空間修復の実行を具申します!」

「無論だ、アノンは定着の準備をしろ、一番から四番、連続で投げるぞ」

 発するが早いか否や、ウィルは腰部の左右に装着していた収納帯から小瓶を掴み取り、亀裂を四角形で囲うように四点を定め、親指と人差し指で弾くように小瓶を撃ち出す。ウィルの指と小瓶が奏でる甲高い音と共に、四つの小瓶は同時に宙を舞う。小瓶は勢いに任せ、通常ならどこまでも飛んでいってしまいそうだが、アノンが両手を突き出すと同時に、小瓶は宙に制止していた。まるで粘土に埋もれたように、小瓶が宙へと埋もれていく。

「定着完了、いつでも行けます」

 アノンの全身は更に煌めき、夕暮れ時に燃え上がるような陽炎を作り出していた。

「よし、第三段階への移行を許可する、限定解放だ」

「了解です、第二段階から第三段階へ限定解放、空間修復を開始します!」

 電撃が弾けるように小瓶は破砕し、中に収納されていた銀色の石が顕わになる。それらは捻じれながらゆっくりと融解していき、虚空に波紋が形成されていた。水面を連想させる、虚空の様相。亀裂は軋む音と共に、波紋に包まれ消えかけていた。

「修復率七十パーセント……八十パーセント……」

 アノンの状況報告と重なるように、亀裂の軋む音がより一層大きくなる。断末魔の悲鳴に似ていた。ウィルはこの瞬間が好きにはなれなかった。忌むべき存在を消しているのに、達成感に浸ったことはない。両腕を組み、ウィルは虚空を見続けていた。

「空間修復、成功です、ウィル少佐」

 波紋が収まると同時に、亀裂が修復された虚空と、ただ残響が残るのみ。息を多少荒げながら、アノンはウィルの隣で宙に浮いたままだった。その顔色から、相当の疲労が見える。

「ああ、任務完了だ、第三段階への限定解放を停止、平常に戻れ、お疲れさん」

「了解です、平常へ移行します……」

 身に纏っていた陽炎は消え去り、アノンは小さな音を立てて地へと降り立つ。第三段階を解放したアノンの能力は絶大だった。空間を掌握するだけでなく、干渉することすら可能となる。講義で原理を学んだウィルですら、理解の及ばない力。当然、相応の代償が伴う。

「伝達は俺がする。アノンは休憩しろ、命令だ」

「……はい」

 ウィルの言葉に力無く答えるアノンは、明らかに疲弊していた。使い過ぎれば、命すら削っていくだろう。にも関わらず、亀裂の修復にはこれ以外、未だ手段を得ていないのも事実だった。理想と現実、力と代償、ウィルは苦悩する。人造兵器を消耗品扱いする組織事態も気に食わなかったが、解決方法を見出せず、所詮自分もその恩恵に預かっていることに腹が立っていた。無能が嫌だった。

 ウィルは苛立ちながら左耳の通信機へ手を掛ける。

「先遣部隊所属、ウィル=ヴィンハレム少佐だ。シーヴォリー地区国境付近の亀裂に対する修復作業は成功、帰還を具申する、以上だ」

 苛立ちは仕事へと昇華させる。ウィルの平静を保つ手段の一つだった。アノンをしばらく休ませる必要がある、ウィルが気遣うようにアノンへ視線を動かそうとした瞬間、大気を突き破る射出音が聞こえた。視界の先に妙なものが写る。鈍く輝く、鋭い切っ先。瞬時にウィルは鉄矢と判断した。

「アノン! 屈め!」

「――っ!」

 ウィルの怒声と同時にアノンは地面へと屈み、ウィルは庇うように前へ出る。射出音は二度した。脳裏を駆け巡る状況の把握と、肉体の動きは瞬時に連結される。先程までアノンの肩口が存在していた場所目掛け、鉄矢が飛来していた。ウィルは力を込め、左手の裏拳を用い鉄矢を弾き飛ばす。二発目は不運にもウィルの右足を掠め、屈んだアノンへ届こうとしていた。

 アノンが身構え、覚悟を決めた時、ウィルは右拳を下方向に突き出し、鉄矢を叩き落としていた。三度目の射出音は聞こえてこない。遠距離からの射撃にウィルは激昂していた。今すぐ射出音のした方向へ駆け出し、射手に報復したい。だが、疲弊したアノンを置いていく訳にはいかない。ウィルはその場に留まり、防衛に注力することを即断する。

 感情に支配されるな、特に自身は一度暴走すれば歯止めが効かない。それでは守りたいものも守れなくなってしまう。報復は二の次だ、安全圏内まで退却するしかない。ウィルの思考が最善手を導く前に、拡声器を通した声が聞こえてきた。

「不法に国境を侵せし者に告げる。今のは警告だ、おとなしく投降せよ。繰り返す……」

 内容は同じく、声だけが繰り返されていく。

「ウィル少佐、ここはシーヴォリー地区の外縁、国境の壁です。鉄矢の刻印を見て下さい」

 アノンの言わんとすることを即座に理解し、ウィルは鉄矢の刻印に目を配る。双頭の白馬に、剣と杖の紋章、紛れもなくシーヴォリー王立国境団の刻印だった。だが、納得出来ない。中央管理軍が亀裂の修復に当たる場合、国境を跨って活動することは、ほぼ全ての国が加盟している連合国政府の協定事項だった。国境を侵したとしても、修復作業中の者に対し、攻撃を行う事は協定違反となり、事態はより深刻さを増す。シーヴォリー王立国は騎士団を主力とした軍事国であり、王立教団が拝す唯一神の信仰を主とした信仰国でもあった。最近なにかと噂の絶えない国ではあるが、明白な反乱行為は現在に至るまで認められていない。

 だとすれば、こうも考えられる。シーヴォリー王立国境団を偽った他の勢力の可能性だ。鉄矢の刻印一つで、なにもかもを判断するのは早計だろう。しかし真実がどうであれ、実際に二人は攻撃を受け、今も投降を促す声は続いている。決断を迫られていた。ウィルは通信機に手を掛ける。

「本部へ、緊急伝達、亀裂修復作業後、ウィル=ヴィンハレム少佐並びにアノン中尉両名は、シーヴォリー王立国境団、もしくはそれに扮した勢力に攻撃を受け、投降を指示されている。後方部隊に支援を要請し対峙した場合、状況の悪化が予想されるため、一時的に投降を受け入れる。状況を確認後、対処してもらいたい、以上だ」

 乱暴に通信機を切り、ウィルは両手を上げていた。

「ウィル少佐、宜しいのですか」

「あん? いいんだよ、これで」

「はぁ……」

 状況が不明瞭な状態で、暴れる訳にはいかない。アノンも本調子ではない。投降する事が最善手かどうか、時間を稼ぐ必要があった。だが、それも一時だ。

「もしもの場合、暴れるぞ、いいか、アノン」

 ウィルの声は、未だ堅いままだった。

「いつもの事じゃないですか」

 ようやく体調が戻り始めたアノンは、力強くウィルを見つめていた。

「お供します」

「悪いな」

 奴らの足音だろう、複数の金属音が擦れ合う音が近づいてくる。もしもの場合が訪れない事を祈りたい。さもなければ、ウィルの身体に帯びた熱が冷める事は当分先になるだろう。決意を固めたウィルの眼光は近付く足音の正体を鋭く睨み付けていた。

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