track:18 偽傷行為 [mine]


 風上ふうじょうみねはサナトリウムの病室で画像データを開いた。

 昨夜、二谷にたにが受け取ったヒントだ。

 こちらは明け方まで起きていたけれど、昼を待ってから送信してくれたらしい。

「……トレーナー?」

 色褪せた青い子ども服。初等部の1年か2年くらいのサイズに見える。

 あまりにも前すぎて、めいがこれを着ていたかまでは思い出せない。

 隣に横たわる寝顔に幼少期の面影が重なって切なくなる。子どもの頃から、佇まいが誰もいない図書館に似た静けさで、夜に会うととても綺麗だった。

「背が伸びたのに全然変わってないわね。わたしはどうかしら……」

 普段、目蓋の裏に浮かぶ詺は寡黙な黒いパーカ姿で、苦痛を鎮めるように弾いていたピアノと、鍵盤に置かれた大きな手を頭の中で再生せずにはいられない。

 ふと掠れた記憶がよぎり、彼のパジャマにタグがついているかを確かめたくなった。肌に障るので、縫いつけられているラベルもすべて外すと言っていた。

 体温であたたまった布地をそっと捲ってみると、洗濯表示のあれは絶妙な器用さで切り取られていた。

 中等部までは彼の母親が針や刃物を持たせなかったけれど、音楽院に進学してからは自分で外していたのだと思う。

 折り返しヨエルに連絡し、現物を確認して貰ったところ、二谷に割り振られたトレーナーは高い確率で詺が着ていたものではないと判明した。傷んでいるがタグもラベルもついていて、手を加えた痕跡はないようだ。

 それでは誰の服なのか。そして、ヒントはこれが最後なのか。

 現在までに、詺を殺されかけ、彼の仲間も巻き込まれている。

 くだらない駆け引きに延々とつき合うつもりはない。


 手帳の余白を使って状況を整理している途中、やはりあの服に見覚えがあったように思い、ペンを置く。数分後、確信がないまま遡っていた『offオフ・ theザ・ lightsライツ』のサイトで不覚にも、件のトレーナーを着ている幼い詺と再会してしまった。

 衝撃で息が止まる。

 観客からのリクエストに応えて、メンバー全員が幼少期の写真を載せたらしい。

 フォーマルな上着に隠れているので気づきにくいが、細部も含めてあのトレーナーと一致している。

 やがて背景や服装から、初めて一緒に隣街のピアノリサイタルへ行った日の写真ではないかと疑い始めた。初等部2年に進級して間もない頃だ。ふたりきりの遠出だったので、片方がカメラを持ち、ひとりずつ記念撮影をした。

 犯人はおそらく何かを思い出させようとしている。詺に。あるいは彼と自分に。



 複雑な心境でトルド第Ⅳライブラリを訪れた。

 荒く吹く風の音が夕暮れの空に波紋を拡げていく。

 知りたかった情報は、導かれるような迷いのなさで見つかった。

 もう誰の助けも必要ない。

 二谷にヒントを渡した時点で、犯人はこちらからの接触を待っているはずだ。

 今後の進行によっては詺を先に殺される危険がある。それだけは避けたい。

 あちらは真実を歪め、彼が悪の起点だと思い込んでいる。

 詺は、なぜ毒を飲んだのか。彼自身と犯人にしかわからない不可解な行動が多すぎる。


 サナトリウムに引き返し、詺を庇護する方法を考えた。自分はここを離れて犯人と対峙しなければならない。

 彼の伸びた前髪を撫でてベッドに背を向けた刹那、手の平に心惹かれる感触があった。

「詺?」

 何度か声をかけたが反応はない。素っ気なく目を閉じたままだ。

 指が微かに動いた気がしたけれど、胸の空白が描き出した幻だったのかもしれない。

 その直後に鮮烈な閃きがあり、葛藤と逡巡の末、詺の腕から抜いた点滴の針で彼の手首に傷をつけた。色の濃い血液の粒がゆっくりと浮かび上がり、涙より速く零れ落ちていく。

 覚醒したばかりの不安定な状態で自殺を図ったように見えることを期待した。

 ベッドサイドのボタンを押し、すぐに来てくださいと叫ぶ。

 ショックを受けた表情を作りながら、駆けつけてくれたスタッフに取り乱した口調で偽の経緯を説明した。

 これでしばらく詺は、保護室で厳しい監視下に置かれる。

 サナトリウム内に共犯者が現れたとしても、常に複数の目に晒されている環境では容易に手を下せない。

 スタッフが医師を呼び出している隙に、血に染まる詺の薄い手首を指でなぞった。

 感情を閉じていれば、内面に少しの険しさも持たない、健気で素朴な人間に見える。

 けれど今、馴れ合いを嫌う詺と、暗く果てのない話をしたかった。

「心配しないで。わたしが終わらせるから」

 犯人をこの街から抹消しても、平穏な日々が手に入るわけではないことを理解している。

 悪意にまみれた世界で、弓矢のように降り注ぐ苦難と痛みを躱す術がない。

 幻想の中で詺を強く抱き締めたとき、自分たちが生傷の絶えない身体で生きてきたことを誇りに思った。

 峰、と呼ぶ低い声だけが、冷たい処刑場からの逃げ道を教えてくれる。



                               track:18 end.

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