track:17 Nebel [2tani]


 二谷にたに縨眞ほろまはビルの前で足を止めた。

 ふざけた招待があり、初対面のライブハウスに来ている。

 朝と昼の間頃、部屋を訪ねてきた青葉あおばに起こされて異常事態を知った。

 キャンセルしたバンドの代わりに今夜、自分がキャスティングされているという。

 公式サイト宛に届いた観客からのメッセージで発覚したらしい。

 まるで生贄だ。犯人の手引き以外には考えられないが、こちらがステージを拒否した場合はどうするつもりだったのか。不意打ちの出動に備えて自己管理をするほどのプロ意識は持ち合わせていない。

「突発ライブより切りつけられる方がましだな……」

 ビルの階段を下りながら、教えられた裏通路を探す。

 会場が地下3階なのは嫌がらせだろうか。誰にも打ち明けていないので、犯人がドイツで暮らしていた幼少期の出来事を調べ上げたとは思えなかった。

 けれど、一抹の憂いが靴底を重くする。いつになったら狂人と自分を繋ぐ鎖を断ち切ることができるのか。



 開始時刻と同時にマイクへ向かう。不思議とステージそのものへの不安はなかった。

 暗闇とスモークに包まれたスタンディングエリアを眺めてみたが、およそ400人の中から犯人もしくはその手駒を見つけ出すことは難しく、演奏中に撃たれても諦めるしかない状況だ。

 ざらついた気分でギターを鳴らすと、瞬く間にライトが灯る。

 こうなると簡単には逃げられない。衆目に晒されたステージは鉄壁の檻でもある。

 客の反応に期待することを怖れ、頑なに距離を置きたがっていたが、エネルギーに満ち溢れた歓声と拍手を素直に有り難いと思った。

 罰ゲームのような理由でここに立っているけれど、『offオフ・ theザ・ lightsライツ』とは属性の違う音楽を受け取って貰いたい。

 今回だけは歌詞の言語もすべて自由だ。


 暗さを隠せない自分の音に振り回され、逸脱した感情が溶け出していく。

 隅々まで覗かれるのが怖くて閉じた目を開けられない。

 弱味を見せれば容易く破壊される。

 中盤に差しかかった頃、汗っぽい手の平に違和感があった。

 曲の合間にさりげなく確認すると、血糊に似た液体が斑に染みている。

 マイクが黒なので気づくのが遅れたが、策略に嵌って取り乱す様を披露するつもりはない。

 この程度は予想の範疇だ。初めから無傷で済むとは思っていない。

 歌いながらスタンディングエリアを見回した。先ほどから会場内が酷く暑い。

 髪を整えるふりをして手の平の赤をもう一度確かめた。色をつけて塗料に見せかけているが、本性は精神に作用する毒かもしれない。

 もしかすると客の中に、加矢間かやまめいを殺しかけた犯人ではなく、あの猟奇犯が紛れているのではないか。あいつがマイクに細工をしたという証拠がほしい。

 頭を吹き飛ばされて絶命したはずだが、肉体だけが死んで他の人間に乗り移ったと考えれば、ここに存在していることに矛盾がなくなる。殺害への熱意と執念を引き継いで生まれ変わったとしても不思議はない。

 きっと殺しに来る。

 反撃を躊躇えばデッドエンドだ。

 自分の思考が正常から乖離していることを察しながらも、身に迫る焦燥と恐怖を撥ね退けられない。

 側の客に『すごい汗。大丈夫?』と問いかけられているのが口の動きでわかった。

 とにかく集中しなければ。次の暗転で殺されるとしても、歌と演奏に手を抜くことは許されない。



 アンコールを含めて17曲で終了し、音の余韻を刻んだまま控室に引き返す。

 怖れていた事態は灰化した。狂人は未だ甦っていない。

 摩耗した指先でドアを開け、ギターを放って即座に手を洗う。無個性なソープであっさりと流れていく赤い染料。

 マイクを包み込むように持つ癖をからかわれていたなら最悪だ。

 乱暴に水を飲み、終えたばかりのステージを回想する。

 加矢間詺の曲を人前で歌ってみて改めて、彼の音楽が透明な青を湛えた泉であり、孤独な夜景でもあることを知った。死なせるにはあまりに惜しい逸材だ。本人はいつも、大人びた表情を浮かべて静かに苦しんでいたけれど。

 ソファでやさぐれた精神を休ませていると、会場のスタッフが袋に入れた手紙とプレゼントを運んできた。

 礼を言って受け取り、短い挨拶を交わしてライブハウスを後にする。

 鍵盤と歌は及第点だ。聴きに来てくれた人々と、ステージでしか得られない喜びに感謝した。過ぎていく時間の中で、もう二度と同じ公演はできない。

 帰路の途中に適当な広場を見つけ、ベンチに紙袋を置いた。

 上からひとつずつ取り出して怪しさを判定する。

 最初のプレゼントは青葉と唇を重ねている『煮炊き』のオリジナルコミックだ。


 残りのアイテムが3分の1ほどになったとき、底の方に押し込まれている不気味な布を見つけた。

 端をつまんで袋から引き出す。

 それを目の前に掲げた刹那、衝撃で凍りついた胸の奥から聴こえるはずのない切断音が響いた。

 布の正体は子ども用のトレーナーだ。全体がくすんだ青の無地。そして、左胸の位置にブランド名と思われる小さなワッペン。繊維が傷み、内側のタグも文字が判別できない状態だ。製造されたのはかなり前で間違いないだろう。

 自分が幼い頃に着ていた服は、サイズが合わなくなると母親が纏めて処分していた。犯人の私物でなければ、店の古着か盗品の可能性が高い。

 割り振られたヒントであることは理解できたが、この服のイメージが悪い記憶を呼び戻そうとする。

 もうだめだ。錯覚の魔法で外気に鉄の味が混ざり始めている。

 足場が崩壊する感覚に耐えきれず、ベンチの座面に顔を伏せた。

 耳を塞いでも止まない足音。古びた床の軋み。

 振り子のように揺れる刃が、笑いながら血のしずくを落としていく。

 あの地下室で偶然生き延びた自分が呪われるのは仕方がない。不運と幸運に弄ばれただけだ。それでも、唯一の生存者という罪悪感に温度を奪われていく。

 どうせまともな人間のようには生きられない。

 立ち上がろうと腕に力を込めたとき、貰ったばかりの五線譜ノートが肌に触れた。

 血腥い刻印は、罰であると同時に、創り手へ贈られた異色のカートリッジでもある。精神の平和のために稀有なギフトを手放すわけにはいかないと思っている頭がすでに狂っていて笑える。

 必死に抗い続けたけれど、消せない記憶と地下室の血の色を、いつかは自分の一部として受け入れられることを祈った。

 その日を標とし、音楽に傷だらけの命を捧げる。



                               track:17 end.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る