track:16 Zenと悪 [Syunn]


 アン維勲ウェイシュンは音楽院からの呼び出しを警戒した。

 事務局宛に演奏会の出演オファーがあったようだが、どう考えても不自然だ。学内コンクールで輝いた記憶はなく、『offオフ・ theザ・ lightsライツ』も趣味の範疇を超える個人活動をしないと公表している。

 なぜ自分が、と怪しみたくなる状況だ。

 気味が悪くなり、職員に依頼人の名前を訊ねると、ホァンと答えた。

煩人ファンレン……!」

 犯人に間違いない。おそらくレイカの棺を人質に取ったという脅迫だ。断ったら何をされるかわからない。


 メンバー全員に事情を話し、指定された時刻に音楽院を訪ねた。

 仲間に台湾での事故を伏せたのは不誠実だったかもしれないが、傷の内側に残った砂の痛みが消えるまでは言葉にできない。

 朝の澄んだ青が遠ざかり、廊下の窓に映るトルドの街が重い夕暮れに沈んでいる。

 面談にはどうせ誰も来ないだろう。伸びかけの髪を輪ゴムで束ね、下は制服、上はTシャツとジャージだ。来られると逆に困る。

 相談室の扉を開けるとバイオリン科の講師が待機していたが、やはりレイカの姓を名乗った依頼人は現れず、連絡先も架空の番号だった。

アン君、申し訳ない。騙されたとはいえ、出停中に呼び出してしまって……」

「全っ然気にしないでください」

 不本意だけれど、オファーが悪戯と判明し、帰宅を促されるところまでは想定済みだ。



 犯人は何を仕掛けるつもりで自分を音楽院に行かせたのか。すでに辺りは暗く、月と太陽を足して割った色の街灯が点いている。

 射殺に失敗されたゾンビのように、2~3回ナイフで刺されるくらいは覚悟した方がよさそうだ。

 駅の近くで人混みに呑まれている途中、後ろから不意に腕を掴まれた。

 驚いて振り向くと、怯えた様子の女性がこちらを見上げていた。

「突然ごめんなさい」

 謝罪の声に思わず身を引く。この状況で警戒心を消せと言われても無理だ。

 会社員風の女性はショートカットの髪を乱しながら、不審な男につけられていると訴えてきた。

「大丈夫ですか……?」

 どう接してよいかわからず、彼女の話を待った。

 初対面の相手を一方的に疑いたくはないが、青葉あおばのケースを考えると、目の前の女性も雇われた人間かもしれない。

「3rdリバー沿いの『エニィ・メニィ』まで弟のふりをして一緒に歩いて」

 恋人ではなく、姉弟という設定が難易度を上げてくる。

「お願い」

 縋るように頼まれると断りにくい。相当困っているらしく、危害を加えてくる素振りもないので緩やかに応じてみた。こちらを殺すための人材派遣なら、ヒールを履いた華奢な女性を差し向けたりはしないだろう。

 意図的に距離を作る気にもなれず、当たり障りのない会話を挟みながらシティ内のショッピングセンターを目指した。

「迷惑じゃなかった? 知らない人なのに親切にしてくれてありがとう」

 警察に行くべきか迷った末、聴取が面倒で通行人に助けを求めたと説明があった。

 からかうように、女性が一歩前に出て顔を見つめてくる。

「ライツのシュンに似てるって言われない?」

 気恥ずかしくなり、曖昧な肯定を口元に載せて視線を逸らす。「……俺、本人です」

「えっ、そうなの? ライブで観たことあるけど髪型違うから気づかなかった」

 活動休止の件については触れてこなかったが、自分たちの曲を聴いてくれていたようで、しばらくのあいだ音楽の話題で親睦を深めた。

 ふと隣を見ると、女性は仕事のスケジュールを確認したくなったのか、バッグから手帳を取り出して何かを書き込んでいる。

 こちらに向き直った途端、眉を寄せて立ち止まった。

「パンプスに石の欠片入ったかも。ごめん、肩貸して」


 女性は目的地の看板の前で爽やかに礼を言い、灯りひとつ点いていない真っ暗なショッピングセンターへ歩いて行った。

 今日は定休日だ。『エニィ・メニィ』は客を受け入れない。

 周りの駐車場が草木の緑に覆われていて、ほっそりとした後ろ姿はすぐに見えなくなる。

 彼女は何者だったのだろう。なぜ自分に声をかけ、この場所まで同行させたのか。

 きっと事情は打ち明けてくれない。追っても意味がないことを察し、L館への帰路に就いた。



 奇妙な物語から離脱しきれないまま部屋のベッドに上着を放ると、ポケットの辺りに角のある輪郭が浮かんだ。

 嫌な予感を覚え、脱いだばかりのジャージに手を突っ込んでそれを抜き出す。

 無地の画用紙かと思ったが、小さなサイズの洋封筒だ。色は黒で、裏にも表にも文字は書かれていない。

 中身は、細かい数字が並ぶ印刷物。そして、乱雑に折り畳まれた手帳の紙が1枚。

 開いてみると、走り書きのような、けれど大人っぽい筆跡で『従わなければ身内の犯罪を職場にばらすと脅されました 指示は自宅のポストに届きました 引き受けてしまってごめんなさい』と綴られていた。


 リビングにメンバーを集め、謎めいた出来事を報告する。

 ヒントと思われる手の平サイズの表は、掲示用の大きな紙を切り取った一部のようだ。劣化の傷みで折り目が脆くなり、印刷も掠れている。

 これは何を意味しているのか。テーブルを囲む全員が首を傾げた。

 時刻にも、暗証番号にも見える。スポーツや実験などで計測した数字かもしれない。

 梯子状の傷。草原に佇む車。古びた表。

 一秒でも早くヒントを繋いで犯人を暴くべきだが、それより今は、あの女性が無事に帰宅できたかを知りたかった。加害者家族の立場を利用する卑劣さに憤りを感じる。

 犯人はふざけた計画のために、無関係の人々を容赦なく手駒にするつもりだ。弄ぶことを愉しんでいるとしか思えない。

 周囲の者にも苦痛を与えたくなるほど加矢間かやまめいを許せないというのなら、その内容を直ちに開示しろと言いたい。彼を正しい手段で裁くことができない理由、つまり法的に罰せられない何かがあるのだろう。だからこのような回りくどいやり方をしている。

 皆が探偵モードになっている中、「次はオレだろ」と二谷にたに

 挑発的な態度だが、微かに焦燥と不安を孕んだ声だ。

 深夜の荒れたピアノから、血の滲む感情が強く伝わりすぎている。

 その痛ましい音の叫びに複雑な魅力があり、彼の破壊的な鋭さを嫌いになれない。



 部屋に戻り、シャワーを浴びてからも、レイカの家に連絡するか否かを迷い続けている。

 すべてが解決しない限り仲間を置いて帰省するのは無理だ。

 それでも、叶うなら彼女の無事を確かめたい。

 硝子の棺に特殊な溶液を入れ、生きていた頃と変わらない姿で眠らせている。

 輪郭を保ったまま、綺麗な花に寄り添われていることだけが唯一の救いだ。

 運が悪かったと諦められるはずもなく、後悔を何度繰り返しても自分を許せなかった。

 この人生からはもう誰も失いたくない。

 口ずさんでいる真昼の歌が、故郷のぬるい夜風を思い出させる。

 彼女は今も、初めて言葉を交わした日を憶えているだろうか。

 忘れられるのが辛いのは、死んだ人間も、生きている人間も同じだ。



                               track:16 end.

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