第3話

最寄りの駅から三十分程度、電車を乗り継ぎ都心部から離れたベッドタウンの中心。人々の生活の身近にある動物園。ゲートをくぐると音久奈は一目散に駆け出し、色々な動物を見て回る。


子供のようにはしゃぐ音久奈についていくのがやっとで、動物たちを眺めている余裕などなかったが、ある檻の前で立ち止まると、フリルを激しくヒラヒラさせながら手を振って俺を呼んだ。


【音久奈】

「うわぁ、パンダだよパンダ! お兄ちゃん早く早く!!」


【武】

「音久奈ちょっと待てよ!!」


久しぶりに二人で動物園に来た喜びからか、それとも女装をしたことで吹っ切れたのかわからないが、いつもより口調が幼い感じになっている。


いや、単純に女装した事で吹っ切れたっていうのもあるかもしれない。


【音久奈】

「ほら! お兄ちゃん、パンダだよ!!」


にしても、ネコかぶりすぎじゃないか? いや、ネコって……被ってるって?


【武】

「音久奈、はしゃぐのはいいけど周りに迷惑かけるなよ!」


他人の目からするに、俺達は本当の兄妹のように見えるだろう。しかし、音久奈は女装した男だ。誰かが気が付きはしないかと内心緊張してしまい、楽しむどころじゃない。


【音久奈】

「お兄ちゃん! もう、お兄ちゃん!!」


目の前にいる可愛い子にお兄ちゃんと呼ばれるのはまんざらでもない気分だ。だけど、恥ずかしい気分も少しある。


が、本当に恥ずかしいのは……


【武】

「はぁはぁ……いや檻が小さいと思ったら……パンダじゃないぞ」


音久奈が指さしている先には、アライグマの偽物みたいな動物が草を咥えながら、コロコロと仲間とじゃれ合っている。


【音久奈】

「パンダだよぉ!!」


そんな音久奈と俺のやり取りを見ていた子供連れの家族がクスリと笑う。めちゃくちゃ恥ずかしい……本当はコイツ、俺と同い年なのに……


というか、その家族の子供までパンダとか言い始める始末だし……


【武】

「いや、レッサーパンダだよ……」


【音久奈】

「でしょ! パンダなんだよ!!」


ちなみに、この動物園にパンダはいない。


【武】

「いや、パンダはクマの仲間で、こいつは……ネコ目……イヌ亜目……」


ネコなのかイヌなのかはっきりしないな……生物学者にとっては大きな違いなのかもしれないが、一般人からするとまったくわけがわからない……


【音久奈】

「イヌなのかネコなのかわかんないね? お兄ちゃんはどっちだと思う?」


ネコ目とかイヌ亜目って見る人によって変わるとかじゃないと思うのだが。


【武】

「いや、どっちだと思うって……ネコじゃないか? 可愛いし」


【音久奈】

「じゃあ僕もネコ!!」


二つの意味でヒヤリとし、周囲を伺う。しかし、もう家族はいなくなっていたし、誰も俺たちの話を聞いていなかったようだからいいけど、可愛らしい服を着ていて、見た目も女の子そのままなのに、僕というのはなんとも……


しかも、僕もネコって……確かにネコ……いや、なんでもない。


【音久奈】

「お兄ちゃん、どうしたの?」


ぼんやりと考えていると音久奈が幼い顔つきで覗き込んでくる。その深い瞳と目が合うと思わず胸が苦しくなってしまう。


【武】

「あっ、いや、なんでもない……」


【音久奈】

「お兄ちゃん! 次はゾウさんだよ!!」


【武】

「ちょっと、待てって……しかし、そんな服着ててよく熱くないな?」


初夏といえども園内は熱気に溢れているし、周りの人だって半袖にTシャツのラフなスタイルが目立つ。にも拘わらず音久奈はヒラヒラのメイド服みたいな格好で軽やかに、園内を走り回っている。


【音久奈】

「うん、これ暑くないの!」


と言いながらも、やっぱり照り付ける日差しは強く、微妙ながら蒸れた音久奈の匂いが風に乗って鼻に飛び込んでくる。


ブラジャーとかは……着けてるんだろうか? 音久奈の胸が可愛らしい下着に包まれている姿を妄想してしまう。


【音久奈】

「早く早く!!」


音久奈の細い指先が俺の手を包む。まるで雲に包まれたかのような肌のやわらかさが心地よくて、このまま離したくないと――


【音久奈】

「あっ……」


はしゃぐ音久奈の楽しそうな笑顔に時間を忘れていたが、腕時計を見るともう昼を過ぎていた。お腹がすくのもうなずける。


【武】

「そういえば、昼飯まだだったな……どうする?」


【音久奈】

「僕、お蕎麦が食べたい!」


【武】

「あぁ、あの蕎麦屋か。ちょうどこの近くだったな」


客の少ないイメージしかなかったが、例にもれずその蕎麦屋は今日もガラガラだった。ファストフードを取り扱っている店なんて、この時間でも行列だというのに。


ほとんどの人が、動物園に来ておいて蕎麦を食べるというイメージがないんだろう。


座敷に腰を据えてメニュー表をめくり店員にオーダーを伝える。


【武】

「ざるそば一つ。音久奈は?」


【音久奈】

「冷やしとろろそば!」


【武】

「ここも変わらないな」


カウンターの向こう側で蕎麦を打つ頑固そうな親父はシワの数が増えている程度で、厨房にいる女将さんは今も若々しいまま。昔ながらの汚さに溢れている店内も、子供の頃からずっと変わらない。


【音久奈】

「僕たち、大きくなったね」


いや、音久奈は変わらないだろ……


【???】

「あら? もしかして、タケちゃん!?」


蕎麦を運んできた女性に呼ばれて顔を上げると、そこには懐かしい顔が。


【武】

「……あれ? もしかして、遥香ちゃん!?」


蕎麦屋の頑固おやじと若々しい女将さんの間に生まれた一人娘である彼女は、大人の色気を持った女性へと成長していて、見ていると感慨深さがある。


【遥香】

「そう、覚えててくれたんだね! よかった、元気してた!?」


【武】

「もちろんだよ! 遥香ちゃんこそ、いい女になって」


【遥香】

「いやね、口まで達者になって――」


遥香と俺が快活に話しているのを妬ましく思ったのか、音久奈はわざとらしく大きな音を立てて蕎麦を食べ始めた。


なんか、音がえっちだ……いや、そうじゃなくて。


【武】

「あぁ、で、なんだっけ?」


【遥香】

「えっと、そちらの子は……彼女……さん?」


【武】

「あぁ……そ、そうじゃなくて……えーっと、これは……」


音久奈の見た目があまりに幼すぎる所為で、彼女と言うには違和感がありすぎる。


どう説明すべきか考えあぐねていると、遥香は音久奈の頭に手を乗せて撫で始めた。


【遥香】

「そんなわけないわよねぇ……可愛いわね、何年生?」


小学生扱いされている事に思わず笑ってしまいそうになる。が、昔から音久奈は彼女の事を嫌っているし、今も変わらずすごく不快そうな表情をしているし、今にも怒り出しそうだし、どうにかしなくては……


【武】

「あっ、遥香ちゃん、やめてあげて……その子、人見知りが激しいから」


口が裂けてもその子が音久奈であるとは言えない……音久奈に女装趣味があって、俺は女装した子を連れ歩くのが好きだと勘違いされそうだ……


【遥香】

「あら、そうなの?

 よーしよーし、お姉さんがいい子いい子してあげますねぇ……」


遥香がハグしながら撫でまわすたびに、音久奈の表情が般若のごとく歪んでいく。右手にしている箸で刺し殺すんじゃないかと思われるほどに。


頼む、頼むからやめてくれ!


ガラッ――


【遥香】

「あら、いらっしゃいませー。それじゃあまたね」


【武】

「お、おう……た、助かった……音久奈、大丈夫……か?」


【音久奈】

「うん、大丈夫……」


全然大丈夫じゃなさそうにしかめ面をしている……機嫌を直してもらうにはどうしたらいいんだろうか?


【武】

「あぁ……えぇっと……うまそうだな、俺も一口貰っていいか?」


【音久奈】

「うん、いいよ。お兄ちゃん、あ~んってして!」


幻覚でも見ていたのかと思えるほど機嫌がよくなり、可愛らしい笑顔を咲かせる。


【武】

「あ、あ~ん……」


っていうか、あ~んされているのがとろろそばって……前人未到、人類史上初の未体験ゾーンじゃないだろうか? 普通、アイスクリームとかケーキとかじゃ……


【音久奈】

「おいしいね! お兄ちゃん!!」


音久奈の幸せそうな表情に思わず見惚れてしまう……


とくに、ズルズルと音を立てながら白い液体を口に運ぶ姿といえば、なんとも扇情的でいやらしい考えを過らせずにはいられない。すると、勢いよくすすられた蕎麦から飛び散った温泉卵の白身が音久奈の口元にねっとりと付着し、どことなく卑猥な絵面となる。


【音久奈】

「お兄ちゃん、食べないの!?」


【武】

「あっ、えぇっと……」


こんないやらしい姿を目の前にして食が進むはずはない……悩ましさを抱え脳裏で葛藤している間にも音久奈は食べ進め、そのたび可愛らしい顔の周りに白濁液が増えていく。


え、エロい……認めたくはないが今の俺はそういう考えを持っている。


胸が苦しい……これはさすがに歳を食ったせいじゃない。


【音久奈】

「お兄ちゃん? どうしたの!?」


【武】

「いや、なんでもない……それより音久奈……顔が汚れてるぞ?」


いや、汚れているのは俺の方なわけだが……


【音久奈】

「えっ、ホントに?」


おしぼりを手に取って音久奈は自分の顔を拭くと、元通りの純粋な可愛らしさの笑みを俺に向ける。惜しい気がしないでもない……


【音久奈】

「どう? 綺麗になった!?」


【武】

「うん、バッチリだ」


俺はようやく食べ始める事が出来る。音久奈はすでに食べ終わっているのだが。


【遥香】

「お待たせしましたー。デザートのアイスです!」


【武】

「えっ? 頼んでないけど……」


遥香が小さくウインクをしたのでそういう事かと理解した。が、またも音久奈は不快そうな表情を示している。


【武】

「あ、ありがとう」


【遥香】

「今日のアイスはチョコレート味ですよー。

 よーしよしよし、いっぱい食べてねー」


どこかの動物研究家よろしく、音久奈を撫でまわして可愛がる。


わざとなんじゃないかと思えるほどの子供扱いだが、遥香は昔からこんなんだから悪意はないはず……音久奈を撫でると遥香は去っていった。


【音久奈】

「ねぇお兄ちゃん……あのさ、訊いてもいいかな?」


【武】

「どうしたんだ?」


【音久奈】

「お兄ちゃんって昔、遥香ちゃんと……結婚するって、言ってたよね?」


遠い過去の話。誰だって小さい頃は仲良くなった女の子と戯れ程度に、そういう事を口にするものだ。遥香もそれに対して頷いたわけだが、もちろん今の彼女を見る限り俺自身も含めて、互いに気にしてはいなかった。


【武】

「あぁ、そんな事もあったっけ? えっ!? 音久奈もしかして!!」


なるほど……それが原因だったのか……


【音久奈】

「べ、別に違うから!」


【武】

「いや、そうならそうだって言えばよかっただろ!?」


【音久奈】

「……そんな……言えるわけ、ないよ……」


それはそうかもしれない……だけど……言わなきゃ伝わらないのも事実だ。


【武】

「よし! じゃあ、告白しよう!!」


【音久奈】

「えっ! そ、そんな……ここでするの!?」


急な提案に驚きが隠せない様子で、頬を赤らめる音久奈は可愛らしい。


【武】

「そうだよ、今ここでする以外にどこにチャンスがあるんだ?

 明日また動物園に来る気ならそれでもいいけど!?」


【音久奈】

「たしかに、そうだけど……どうして動物園なの?」


【武】

「だって、アドレスとかID知らないだろ?

 今ここだからこそするんだ」


【音久奈】

「えっ? 知ってるよ! 昨日メッセージ送ったし、今日だってしたよね!?」


【武】

「意外と積極的だな。もう告白するしかないな! 俺も手伝ってやるから!!」


【音久奈】

「手伝ってやるって、どういう事?」


【武】

「だから、遥香に好きだって伝えるんだよ!」


そう、音久奈はずっと遥香の事が好きだったんだ。だけど、俺と結婚するとか約束していた所為で思いを告げられずにいて、振り向いて欲しいのに小さい頃から子供扱いされるばかりで、振り向いてもらえないもんだからやきもきしていたんだ。


【音久奈】

「えっ、僕が? 遥香ちゃんを!?」


【武】

「そうだ! 小さい頃に結婚するとか約束してたけど、あんなの冗談の一種だ。

 別に気にしなくたっていい。

 イライラするだけじゃなくて、自分の力で振り向かせるんだ!!」


すると、さっきまで色々な表情の変化があった音久奈は急に冷め切った顔になって、溜息を吐くと席を立った。


【音久奈】

「お兄ちゃん……それだから女の子にモテないんだよ……」


足早に店を出ていってしまう。


【武】

「えっ? それってどういう事だ!? あ、音久奈ちょっと待て!!」


【遥香】

「お客さん! お勘定!!」


【武】

「あぁ……っと、千円と小銭が……

 あっ! 音久奈、ちょっと待て!!

 二千円でおつりはいいや。それじゃまた」

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