深夜
私は、深夜2時に目を覚ました。外はまだ暗い。何の変哲もない曇り空だ。どうせなら、オリオン座とかシリウスとか、そんな綺麗な星たちが見える夜に目覚めたかったものだ。どこかのバンドが歌っていた「今夜星を見に行こう」とか言いたくなるような、そんな空がよかった。のそっと布団から這い出て、自分の机を見てみると、寝る前に「煩悩」と書いたノートが開かれたままであった。今は大晦日ではないが、深夜の街に飛び出せばどこかからゴーン、と心に響く除夜の鐘が聞こえてくるんじゃないだろうか。そして、私の煩悩も苦しみもちゃんと探し出して、消し去ってくれるんじゃないだろうか...。そんな、淡い期待を持ちながら、私は、夜の街の闇に飛び出していった。
終電はとうに過ぎ、駅前に人はほとんどいなかった。ぼうっと光る売店の灯りが照らす、灰色の蛇腹のシャッター。駅前の横断歩道は、人も車もほとんどいないのに、誰に見せるわけでもなく、赤と青が規則正しく往復運動を繰り返していた。それに呼応するかのように、切れかけの蛍光灯が、チカッ、チカッと息も絶え絶えになりながら、最後の力を振り絞って光っている。私は、駅前から私の家と反対の方角に歩いていった。横道がある。かすかではあるが、ゴーンという鐘のなる音が聞こえた気がして、私は、駅前の通りから街灯もまばらなその横道に入っていった。
ゴーン、ゴーンという音は、大きくなったり小さくなったりする。たどり着きそうかもしれない、と音が少し大きくなったと思ったら、また音が小さくなっていく。私は、鐘の音に合わせて餌を欲しがる動物にでもされたような苛立ちを覚えながら、普段通ったこともないような道に、ずんずんと歩みを進めて行った。
私は、分かれ道にたどり着いた。そっと立ち止まって周りを見渡してみる。家の明かりもなく、遠くにかすかに無機質な街灯が光っている。私の横には、大きな二階建てで青い屋根の古風な家のブロック塀が、灰色とも黒ともつかぬコンクリートをむき出しにして佇んでいた。果たして、この家には人が住んでいるんだろうか。その奥の家に目をやっても、相変わらずあかりは灯っていない。私は、ふと強烈な不安に駆られた。私は、この世界で一人になってしまったのではないか、と。
世界で一人になってしまったとしたら、私は平凡であるのだろうか。平凡とはそもそも、周りがいなければ「平凡」とは言えないのではないか。周りがいなければ「周りが興味を持っていること」もないし、そうすると、数少ない私の煩悩は、いよいよ何もなくなってしまうのではないだろうか。私は、煩悩を消すことよりも、煩悩がなくなることが、私が私でなくなるような気がして、煩悩を、人を探さねば、という気持ちに襲われた。
私は、必死で人間を探そうとした。しかし、深夜のこんな辺鄙な路地裏では、一向に見つからない。私は歩きに歩き回ったが、人の気配は一向にしない。息が上がってきた。心臓の鼓動も、いつになく速い。息を整えようと、息をゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く。そっと耳をすませると、ゴウ、ゴウと先ほどの鐘の音に似た音が聞こえている。ゆっくりと地面のあたりを見回すと、その音がマンホールから聞こえていることがわかった。あの鐘の音は、マンホールの下を流れる、水道の音だったのである。水道だけでは人間がいるかどうかの確証は得られないが、少なくとも「水」が流れている。何かが動いている。時さえ止まってしまったのではないかという不安にすら襲われていた、私は、ひどく安心して、いつもの寝間着のジャージ姿のまま、その場に座り込んでしまった。
私は、座り込んだまま、ゆっくりと自分の私の手元を見ようとした。暗くてよく見えない。たまたま持っていたスマホの明かりをつける。私は、左手がその明かりで煌々と照らされるのを見た。コンクリートに押し付けられたその手のひらは、その凸凹が記録されたように、綺麗な赤色の跡が残っていた。私は、自分が今どんな顔をしているのだろう、と思った。私は、スマホのインカメを自分に向けて、鏡代わりにして自分の顔を覗き込む。ごく平凡な顔だったが、私は頰に小さな傷があるのを見つけた。さっき座り込んだ時にちょっと石が飛んだのに傷がついてしまったのだろうか。傷がついたはずなのに、私は平凡から解放された気がして、少し嬉しくなった。すると、スマホの中にあるその顔も少しだけ笑顔になっていた。スマホの中にある私の顔が、私の顔であるのかが段々と心配になってくるくらいに、私は私の顔を見て笑顔になっていた。
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