私は、上野駅の階段をいつになく素早く駆け下りた。かなり勢いをつけていたので、前につんのめりそうになった。ちょうど電車が行ったばかりだったようなので、私は黄色い線の前にひかれたスタートラインのような緑色のテープに、脚を揃えて立っていた。私の少し後ろには、どこか田舎町から出てきた修学旅行生だろうか、制服をきた高校生くらいの男女が、一つの群れをなすように固まっていた。


「まもなく、2番線に、電車がまいります」

ドスッ、と背中に強い力を感じた。前のめりになって倒れこむ。目の前にホームの鈍い灰色のコンクリートが襲ってきた。

「大丈夫ですか...?」

私はうつ伏せの状態から後ろを振り返り、声の主の方を見上げた。アイロンがかかったワイシャツにスーツを羽織り、ネクタイをきちんとしめた出で立ちの男性が私を見下ろしている。何に押されたのかは、わからない。この男性が押したのかも、わからない。けれども、地獄の釜の中で悶え苦しむ私を嘲笑い、少しばかりの余興として救いの手を差し伸べてやるか、というような彼の見下ろす瞳に恐ろしさを感じた。とっさに私は、彼の暖かく柔らかいその手を振り払い、そのままホームの前の方へと駆け出して行った。

高校生の一群は、クラスごとに分かれていたのかホームを駆けている間、何度か見かけたようだが、私の目には彼らが楽しそうに談笑しながら、時々私の方を不思議そうに見つめ、時には指をさしながら笑っている様子が映っていた。


家に帰ると、私は部屋の扉を閉め、大学の授業でろくに使ったこともないノートを開いた。ペン立てに立てられた真新しいボールペンを一本手に取り、ゆっくりと息を整えながら「煩悩」と書いた。私にしては珍しく自分の興味で理系クラスで一人だけ取った仏教の授業で、「人間が苦しむ原因は、自らの煩悩にある」と教えられたことがある。私の煩悩はなんなのだろう、煩悩がわかれば、それをなくすことで、私はここまで苦しむことはないんじゃないんだろうか、そんな淡い期待が私の中に寄せてきたのである。

煩悩

・平凡であること。

・みんなが興味を持つことに興味を持てないこと。

...

しばらく考えていたが、これ以外に一向に思いつくところがなかった。大学に入ってから、美術館に行くことと、ちょっと宗教っぽい話に興味が出たのだが、周りに興味がある人が本当にいない。休み時間になると水を得た魚のようにガールズトークに花を咲かせるパリピ女子たちを横目に、私は大抵一人で本を読んでいた。美術館は一人で行けるし、宗教を学ぶのも本を読んでしまえばいいので、結局私は一人で遊べる趣味しか持てていないのかもしれない。ガールズトークは、近所のおばさんたちの井戸端会議の進化前と言ったところで、どうせ何も内容はないのだろうなとは思いつつ、なぜ内容が何もないのにあそこまで盛り上がり、笑顔でいられるのかもよくわからず、私はその仲間に入ることはなかった。

 「平凡であること」「興味を持てないこと」どちらも私の力でどうにかなるものなのだろうか。あのパリピの群れに加わるくらいなら大学を辞めて、さっさと社会に出て仕事をしたい。社会に出れば、たとえ仕事に興味が持てなくても、私がどんなに平凡であっても、私は「お金」をもらうという形でその存在価値を示すことができる。社会の歯車になりたくない、という話をよく聞くが、私はむしろ社会の歯車になりたい。時計が一つの歯車が壊れてしまったら動かなくなるように、私は社会の歯車になることで、社会という時計の一部になりたいのだ。

 私は、自分の「決定的な煩悩が思いつかない」という最大の煩悩を考えることに疲れ、そのまま布団に入り、目を閉じた。

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