「まもなく、上野、上野...。」

聞き慣れた女性の声が、山手線の上野への到着を告げる。平日の昼間となれば、私の倍くらいの歳で、私の数倍の勢いで話をし続けるおばさま集団か、束の間の休息を取る疲れ顔のサラリーマンくらいなもので、上野で降りる人もまばらである。私は、電車からゆっくりと降り、はやる気持ちを抑えつつ改札口へと向かう階段を上がった。そして、右手に見える「公園口」と書かれた改札を抜け、横断歩道を渡って美術館のある方に歩いて行った。


「本日は、休館日です」

 私は慌ててカレンダーを見る。月曜日だった。上野は月曜日が、六本木は火曜日が、美術館が大抵休みか短縮営業になっている日なので、いつもはチェックしていたのだけれども、今日はすっかり見落としていた。私はことごとくついていないなあ、とため息を漏らす。

 せめて外から見えるものだけでも見て帰るか、と美術館の近くの広場を歩いていた。そこには、彫刻家ロダンの『考える人』が難しそうな顔で私を見下ろすように座っていた。『考える人』は、もともとダンテの神曲をテーマにした『地獄の門』の一部として作られ、門の上から地獄でもがき苦しむ人々を見下ろす人にあたる。門の前の人の形をかろうじて成している地獄の住人たちを、じっと見つめ、考える様子が作品として残されている。なぜ、この『考える人』だけをもう一度別の作品として展示しているのだろう。私は、『考える人』の落ち窪んだ瞳をもう一度じっと見つめてみた。彼は何も言わず、私を静かに見下ろしている。ひょっとすると、彼に見つめられる私も、この世の中に凡庸な頭と凡庸な肉体と凡庸な精神で生まれ落ちた時点で、地獄の住人であったのだろうか。彼に見つめられ続ける苦痛にいてもたってもいられず、私は踵を返して駅の改札まで走っていった。


 確かに、私の半生は、ある意味で地獄であったのかもしれない。平凡という名の地獄の釜の中に、私は始終転がされ、煮込まれていた。幼稚園の頃こそ、自分の下手な歌を披露する恥ずかしさに襲われる時間が終われば、仲の良い友達と一緒に砂遊びをしていた。しかし、小学校、中学校と学年が上がるにつれ、絵を描くのも、歌を歌うのも、勉強も運動も、ごく平凡な出来でしかなく、みんながハマるものにもこれといって興味を示せなかった私は、電車の話で盛り上がる男子や、ファッションやリカちゃん人形の話で盛り上がる女子をよそに、1人ぼうっと席に座っていることしか出来なかった。先生と母の三者面談の時も「普通で素直でとてもいい子です」と褒められはしたが、何が普通で何がどういい子なのか、そういった話は何もなかった。家に帰ると、母も「いい子ね」と先生と同じ言葉で私を評価したが、それ以上何も口を出すことなく、台所で黙々と野菜を切っていた。

 この国では普通であることが是とされるというが、普通すぎることはどうもダメで、適度に普通であることが好ましい。例えば、勉強や運動は普通であっても、電車のことにものすごく詳しいだとか、普通の中にかすかに光る原石を互いに見つけて、その光り方が似た者同士がグループを作り、仲良しこよしの友達になっていくようである。かすかに光る原石もなく、ただ全てにおいて普通である私は、その宝探しに参加すらさせてもらえず、ただぼうっと虚空を見つめているだけであった。

 大学に入って数年経ち、ようやく友達らしい友達というものが幼稚園以来久しぶりに出来たのだが、その彼は、美しく光り輝くダイヤモンドで、何をやるにもパワフルで、エネルギッシュで、それでいて人に優しく接することのできる、そういった人であった。私自身は、彼のそばにいると、彼が光り輝くその反射によって、何も光らない私自身も少し光って見えるようで、彼が私のどこを見て友達になろうと思ったのかはわからなかったが、少しばかりの安心感を覚えたのである。

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