空を眺める

柚月 智詩

 窓の外は澄み切った青空であった。雲ひとつない快晴。そして、この透き通る青空がそれほど珍しいものではないことを、私は知っている。関東平野は乾燥した冬晴れが多いという話は中高の授業で散々聞かされた話だけれども、何年か東京に住んでいれば誰でも知ることになる当たり前の空模様だ。

 私は、眠い目をこすりながら、毎朝けたたましい音を鳴らして安眠を妨害してくるをしてくる機械を乱暴に殴りつけた。音がすっと鳴り止み、部屋が静寂に包まれる。安寧の地から引きずり出す元凶を作った張本人を覗いてみると、ちょうど10時半を示していた。2限の量子力学の授業は、今から家を出てももう間に合わない。まあ、いつも仲の良い友達からノートを借りているし、偉そうな教授の顔を拝みに行くだけの儀式も飽きている。もう少し惰眠を貪ることにするかと、私自身の温もりで程よく温まった布団にもう一度身体を滑らせた。

 窓から覗く空を眺める。冬の空は、水色の絵の具で塗るには少し色が薄いかもしれない。何色で塗るのが良いのだろう。そんなことを考えていると、水色と青色を混ぜた絵の具で一面を塗ったキャンバスの静寂を破るように、一筋の飛行機雲が白くたなびいた。小学生が白い絵の具をこぼしてしまったような不恰好なその白い帯を眺めながら、私は目を閉じて二度目の眠りについた。


 再び目を覚ますと、昼休みの時間になっていた。私は、午後の授業も用事もなかったので、思い立ったように上野の美術館に出かけることにした。美術館は大抵平日は混んでいないし、何より静かに見てくれる人が多いので、日頃から都会のうるささに疲れている私としては、良い息抜きになる。

 こんな風に平日に思いつくまま観光地に行けるのは、大学生の特権だ。この前は、鎌倉と江ノ島に行った。初詣の時は本堂が見えないくらいの長蛇の列になる鶴岡八幡宮も、私が行った日は、その喧騒が嘘のように閑散としていた。江ノ島の水族館にも行ったが、水槽の中に気ままに泳ぐ魚たちを、子供や親子連れやカップルの目を一切気にせずにじっくりと見ることができる。週末に行っても、魚より人の頭を見る回数の方が圧倒的に多いし、人を避けるのに疲れてしまう。いざ魚の前にたどり着いても、後ろに人に立たれてしまうとちょっと屈んでしまったり、横の人に肩がぶつかっていないかだとか、結局魚より人のことを気にしてしまうせいで魚を見る暇がない。水族館から出て来る頃には、せっかくの休日を使って平日に吸い取られた体力と気力を回復するはずが、もともとゼロに近い体力をさらにすり減らす結果になる。本気で楽しみたいのなら、水族館は平日に行くに限る。

 私は、水族館に行くと、クラゲの水槽の前で立ち止まることが多い。形があるのかないのかもわからない透明な体が、力強く水を舐めるように掻いて進む。と思った矢先には、水の流れに身を任せ、ふわふわと水中を漂う。水槽の中にはたくさんのクラゲたちが所狭しと飼われている水族館も多いけれども、それでも気持ちよさそうに水槽を気ままに漂っている。そんな姿をじっと眺めていると、私も彼らと一緒に自由に水の中を漂っているような感覚になり、心が洗われる気がした。

 絵を見るときも、そんな心の安らぎを求めているのかもしれない。モネの『睡蓮』は、そこらへんの池に浮かぶ睡蓮を写したのとそう変わらないのだけれども、ずっと見ていたくなる、ずっと家の壁に飾っていたくなるような優しさがある。モネも含めた19世紀末の印象派という画家は、自然の光やそこに移ろう空気の揺らぎ、柔らかな光を柔らかく感じられるように描きたい一心で絵を描き続けてきたというが、本当に絵からその優しさや柔らかさがにじみ出てくる。

 私は、学生証を振りかざしながら独り占めしてきた景色や絵画を思い出しながら、今日の行き先を見繕うべく、慣れた手つきでスマホの検索画面を開く。どうやら『叫び』で有名なムンクの回顧展が来ているようだ。私の好きなモネやドガなど、19世紀末の印象派と同時代の画家らしいのだが、ノルウェーの画家は完全にカバー範囲外。頰がこけた謎の人物が頰の横に手を当てたあの『叫び』くらいしか知らない。だが、他に面白い企画展もなさそうである。よし、これに行こう。そう心に決めた私は、つい先ほどまでベッドでぬくぬくと芋虫のように縮こまっていたのが嘘であるかのように、素早く着替えを済ませ、玄関から勢いよく飛び出した。


 

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