二節 「Nothing ventured, nothing gained.」

 不確かな視界で周りを見渡してみると、今自分がいるのがどこかの駅の改札口付近だと言う事が分かった。


 周辺は僕以外にも大量のゾンビがうようよとうろついており、自分が人間だったらと思うと怖気が立つ。



 早く主人公を見つけよう。



 今回の主人公はジェームズ=リドルという名前らしい。自分の名前は思い出せないのに、他人の名前なら分かると言うのは何とも皮肉な事だ。


 記憶の上では僕との面識はない。まあ、あったとしてもどうせ思い出せないだろう。どちらにせよ、実際に出会ってみないとどんな人物かは分からない。


 そんな事を考えながら僕がその場を離れようとした所、改札の向こう、ホームの方から騒がしい音が聞こえて来た。


 数名の男女が騒ぎ合う声と、断続的な破裂音。その乾いた音には、ここではない世界でだが聞き覚えがある。どうやら、僕の探し人は案外近くにいるようだ。


 音のする方へと身体を向け、僕はゆっくりと歩き出す。


 しかし僕が近付くよりも早く、改札の向こうからいくつかの懐中電灯の光が、ちらちらと見え始めた。


「クソッ! 何でこんなことに! 昨日までは一体もいなかったじゃねえか!」


「口を動かす暇があったら一体でも多く殺すんだな、クソガキ。事態はお前が思ってるほど甘くないぞ」


「ちっ、分かってるよ!」


 ここからはかなりの距離があるはずだが、彼らの言葉は非常にはっきり聞こえてくる。やはり嗅覚ほどではないが、聴覚も人間の時以上に機能しているようだ。


 目には懐中電灯の光源がいくつかあるようにしか見えないが、僕には先程の声の内、片方が主人公のジェームズの物だと言う事が即座に分かった。聴覚情報でも主人公を認識できると言うのは、新たな発見かもしれない。


 もう片方の声が誰の物かは流石に分からない。成人男性の声だったので、ヒロインと言う事は無いだろうが。


 目は役に立たないから、嗅覚を上手く活用してみようか。まだ慣れない能力なので、上手く使えるかは分からないが物は試しだ。


 ジェームズの匂いは、嗅いだ瞬間に理解できる。嗅覚でも主人公だと言う確信を得ることが出来た。仄かな汗の香りと、整髪料の匂いも少しするだろうか。


 彼の他には4人分の匂いが確認できた。内、2人がおそらく女性。女性の1人は化粧品のような香りと、心地よいシャンプーの残り香のような香りが混じっている。


 もう1人の女性は、露を溜め込んだ野の花のような澄み切った匂い。こちらは、まだ小さな女の子かもしれない。


 そしておそらく残りの2人が男性。1人は化学薬品の匂いを全身に纏っている。病院に行った時に鼻を突くあの匂いだ。


 もう1人は……大量の血液と、それに火薬の匂い。これが硝煙の香りというやつだろうか。案の定、先程から発砲しているのは彼だ。


「ジェームズ! 右よ! 気を付けて!」


「おっと!」


 ジェームズに注意を促したのは、若い女性の声だ。その瞬間、彼の付近で鈍い打撲音が聞こえた。ジェームズは何かしらの鈍器を武器にして戦っているのだろう。


「ケガはないかい、ジェームズ君」


 優しげな声で、薬品の男が声を掛ける。僕から20m近く離れている人物の声まで聴き分けられると言うのは、なかなか便利な能力だ。


「ああ、大丈夫だ。先生」


 薬品の男は、ジェームズに「先生」と呼ばれているらしい。匂いからしても、医者か何かだと考えるのが自然だろうか。


 そうしている内に、彼らは周囲のゾンビを蹴散らしつつ、徐々にこちらに近付いてきた。


 ここまで近付けば、目でもある程度彼らの様子が伺える。


 実際に見てみたところ、嗅覚の情報はどうやら概ね合っていたようだ。


 5人の男女の先頭を担っているのは、迷彩柄のズボンに黒いタンクトップの軍人らしき黒人だ。タンクトップから伸びる筋骨隆々の腕と美しいスキンヘッドが特徴的である。年は30前後か、もう少し上ぐらいだろうか。彼は拳銃を前に構え、定期的なリロードを器用に行いながら、目の前に立ち塞がるゾンビの頭を撃ち抜き続けている。


 その彼のすぐ後ろに続くのは、高校の制服だと思われる白いシャツにネクタイ、グレーのスラックス姿の主人公、ジェームズだ。彼の髪の毛は白っぽく見えるが、おそらく白ではなく金髪のミディアムヘアだと思う。彼は手に鉄パイプを握り締め、ゾンビ達の頭部を狙って振り下ろし続けている。


 ジェームズの後ろには、白衣を纏った黒縁眼鏡の男が続いていた。おそらくこれが先ほど「先生」と呼ばれていた医者だろう。年は20の後半と言った所だろうか。彼は、僕がギリギリ茶色だと分かる髪色の長髪を後ろで括っている。彼は特に戦う素振りは見せず、ただただ心配そうにジェームズの後ろを走っていた。


 医者の後ろには、おそらくジェームズと同じ高校の制服を来た少女が、小学生ぐらいの女の子の手を握って付いてきていた。制服の少女は、ジェームズと似たような金髪に、軽くウェーブの掛かったロングヘア。手を引かれている女の子は、赤茶っぽい髪色のさらっとしたボブが愛らしいが、その表情は不安に埋め尽くされている。


 制服の少女は、赤毛の女の子の手を左手で握り、右手には小型のナイフを持っているようだ。しかし彼女の下にゾンビが訪れる前に、ジェームズと軍人の男が周囲のゾンビを倒しているため、基本的にそれを使う素振りを見せることは無い。



 そうこう分析している内に、彼らは僕の3mほど先にまで迫っていた。


「多過ぎだろ! キリがないぞ!」


「ああ、流石にこれは持たないな……。仕方ない、一旦どこか隠れられる場所を探すぞ!」


「いや、だけどキースが……!」


「チッ、そうだったな。手の掛かるガキ共だ……!」


 前方にいるジェームズと軍人の男が、騒ぎながら迫ってくる。



 ……あれ? もしかして、まずいんじゃないか?



 ここに来て、僕はようやく自分の置かれている状況に危機感を覚え始めた。


 僕が彼らの立場だったらどうだろう。自分たちが前に進もうとしている所を、大量のゾンビが行く手を阻む。襲われる前に倒さねば、次にゾンビになるのは自分たちだ。


 倒したゾンビの後ろには、またゾンビ。しかしそのゾンビだけは、自我を持った特別な端役ゾンビだ。



 ……分かる訳がない。



 今僕の目の前で倒れたゾンビも僕も、彼らからすれば等しく敵だ。彼らは、間違いなく僕を倒す。僕は成す術もなく倒されるだろう。そして多分死ぬ。僕はゾンビとしても、生涯を終えるのだ。



 ……流石に、もう死ぬのは懲り懲りだ。



 僕はスカスカの頭の中にある歯車ギアを急いで入れ替え、軍人の男が僕の一歩前にいるゾンビを撃ち抜くのに合わせて、仰け反りながら倒れて見せた。


 設定としては、目の前のゾンビと並んでいた後ろのゾンビにまで、銃弾が貫通した……という状況だ。



 どうだ……いけるか?




「ウィリアム! 2体同時なんて、流石じゃないか!」


「……? いや、この銃は貫通するほどの威力はないはずだが……」


 ジェームズにウィリアムと呼ばれた軍人の男は、違和感を覚えたような表情を見せ、一瞬動きが止まる。


 頼む! そのまま行ってくれ!


「おい、ウィリアム! 何ぼんやりしてんだ! 前から来てるぞ!」


「あ? チッ、雑魚ザコが群がりやがって……!」


 ウィリアムはジェームズの一声で、目の前のゾンビへと立て続けに発砲する。


 一瞬の違和感は、これほどの窮地では些細な事だったようで、彼らはそのまま僕の後ろへと去って行った。



 ……どうやら、事なきを得たようだ。



 おそらく今の演技だけでも上手く行ったのだろうが、ジェームズの一言がダメ押しになった部分もあるだろう。ここは彼に感謝をせねばなるまい。


 ありがとう、ジェームズ。僕はもう少し生きていられそうだ。


 床で横になったまま暫くすると、彼らの声が徐々に遠くなっていくのが分かった。若干高い位置に彼らの声が消えて行くので、おそらくこの先に階段でもあって、そこを上って行ったのだろう。


 僕はおもむろに起き上がって、周囲を見渡す。改札周辺には、ただの死体と化した肉片と、黒ずんだ血液が一帯に広がっていた。


 せ返るような死臭は、感度の高まった僕の嗅覚を突き刺すように刺激する。



 おぇっ。



 若干の気持ち悪さを覚えながらも、僕はジェームズ達の後を追って、またゆっくりと歩き始めた。 

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