一節 「The ship has sailed.」

 薄暗い建物の中、僕は血塗れの肉片を貪り食っていた。


 一瞬で、それが人間の肉だと分かる。



 ――おぇっ。何じゃこりゃ。



 僕は焦った弾みで、目の前の死体から一歩退いてしまった。


 ここは少し頑張って、早急に状況を思い出すことにしよう。



 僕の名前は……分からない。何だこれは。脳がボロボロだ。


 自分自身についての情報は、ほぼ皆無だ。なぜこんなところで人肉を食べていたのか、そもそも自分は誰なのか……全く分からない。


 これはもう、パーソナリティーからのアプローチは不可能だと考えるべきだろう。別の方針に切り替えた方が良い。


 では、この世界についての情報はどうだろうか。


 ……これなら、断片的ではあるが何か思い出せそうだ。慎重に記憶を探ってみよう。



 この世界は……どこかの国のオールド・アッシュなる州のようだ。時代的には、現代とほぼ変わらないと見て良い。


 しかし周囲は荒廃しており、妙に巨大な壁が州境にある……はずだ。


 昔……と言うよりは比較的最近までは、何の変哲もない世界だったが、ある時……これは死体か? が、ひとりでに動き始め、街の人々を襲い始めた、と。


 どうやら僕もそれに襲われたようだ。死の際の光景が思い出せた。



 ……なるほど。大体分かった。



 今回のジャンルはパニックホラー。ゾンビ物の世界と言う事だろう。


 無辜むこの民は感染者によって襲われ、徐々にその勢力は増していく。おそらく、主人公たちはその中で生きる数少ない生存者として、戦い続ける……と言った所ではなかろうか。


 そして、僕はその世界のゾンビ。



 ……ゾンビか。



 いや、確かに端役ばかりが割り振られるのは承知していたつもりだが、まさかゾンビとは。あくまで生きている側の役回りとかにはしてくれないのか。


 最早、何でもありになって来た。


 しかし、今回もそうなってしまった分には仕方ない。しっかり自分の役割を全うするしかないだろう。



 ――どうせ他に、やる事もないのだから。



 現状自分の肉体には違和感がいくつかある。


 まず、視界の明度と彩度が異様に低い。分かりやすく表現すると、見える景色が薄暗い上に白黒だ。


 しかし逆に音と匂いには、いつもより鋭敏な感覚がある。特に匂いの嗅ぎ分けに関しては、人間の時では考えられなかったレベルで可能である。普段匂いがしないと思っていたよう物体からも匂いがするので、五感の中では嗅覚が一番優れていると考えて良さそうだ。


「ぅ……あ……」


 声は辛うじて出るが、まともに出るとは言い難い。舌は殆ど動かないので、意味のある言葉を発音するのは不可能だ。言語的なコミュニケーションは諦めた方が良いだろう。他に何か意思疎通を取る方法があるのかは不明だが。


 手足の感覚は希薄だ。ただ、腕や手先の力は案外強い。自分が想像しているよりは数倍の力で物を握っているように見える。しかし感覚が希薄な分、手の力は弱める方向にコントロールするのは難しそうだ。


 逆に脚の筋肉は、非常に脆弱だと思う。歩くだけでも精一杯で、走ろうとしてもかなり器用にバランスを取らないと転びそうになる。移動が難しいと言うのは、やはり大きなデメリットになるだろう。


 そんな所だろうか。


 ちなみに口の中に残っていた肉片に関しては、殆ど何の味もしなかった。味覚がないことまで踏まえて、舌は何の機能も果たしていないらしい。何故人間の肉を欲していたのかの詳細は、現状では不明である。



 概ね自分の中で状況を整理できた所で、改めて目の前の死体を観察してみる。



 年の頃は……10代の後半ぐらいだろうか? 少年なのは間違いないだろう。


 おそらく大体僕のせいだとは思うのだが、肉体の損傷が激しいので正確な情報は分からない。視覚が殆ど当てにならないのも、その要因のひとつである。


 ともかく、今の僕が彼に出来る事はひとつだけだ。


 震える両手をゆっくりと合わせ、目を閉じ心の中で呟く。



 ――ごめんなさい。ごちそうさまでした。



 理由はよく分からないが、おそらく僕にとっては食事だったのだろう。糧となった生命いのちには、最大限の感謝を。僕がまだ人間としての尊厳を捨てていないのであれば、そういったけじめは大事にしなければ。


 しかし僕が合掌を終え、ゆっくりと目を開けると、先ほどまで微動だにしなかった少年が目の前で佇んでいた。


「ぅあっ……?」


 思わず僕の口から変な声が漏れる。軽くホラーだ。いや、ホラーなんだけど。


 少年はその声に反応したのか、ゆっくりと僕の方へ目を向ける。しかし特に興味はなかったのか、彼はすぐに前を向き直し、そのままどこぞへと去って行ってしまった。



 これはつまり……まあ、それしかないか。



 わざわざ説明するまでもない。僕というゾンビに噛まれたがために、彼もまたゾンビになったと言う事だろう。


 そもそも世界がこんな状況に陥ったのは、間違いなくその仕組みが全てだ。


 ゾンビが生きている人間を噛む。噛まれた者はゾンビと化す。その繰り返しによって、雪だるま方式でゾンビの数が増える。こうして個々では大した事の無い化け物が、数の力によって脅威と化す。その一端が、今目の前で繰り広げられただけだ。


 しかし、まだ見ぬ主人公にとって不利益になるような行動を取ってしまったのは、いささか申し訳ない気持ちにもなる。


 ただ、まあ……それも試練と言う事で乗り越えてくれ。1体ぐらいなら増えても増えなくても一緒だろう。


 ……安易だろうか?


 いや、しかしもう起きてしまった事はどうしようもない。今はとにかく、主人公たちを探し出して物語を見物せねばならない。


 一体、どこにいるのだろうか。


 そんな事を考えて一歩踏み出そうとした所、先ほどまで少年がいた場所に、大きな紙と手のひら大の黒い石が落ちているのを見つけた。



 何だろう、これ。



 紙の方には何かの図面が事細かに書かれているが、視界不良と建物自体の薄暗さもあって、解読する事まではできない。


 石は……とりあえず黒い。色彩感覚が弱いせいで、もしかしたら真っ黒ではない可能性もあるが、おそらくこれは実際に黒いのではないだろうか。


 どちらに関しても、どこか明るい所なら調べられるかもしれない。とりあえず拾っておくことにしよう。


 紙の方は折り畳みたいが、今の僕にはそんな器用な事は出来なさそうだ。僕はそれぞれを両手に握り締め、その場を後にする。



 さて、主人公はどこだろうか。



 ずるずると脚を引き摺りながら、僕はゆっくりと建物の中を歩き始めた。

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