六節 「友達だから、伝えない」

 晴夏と結以の2人は完全に見失ってしまっていたが、行先は保健室だと分かっている。


 僕は不意に誰かに出会ってしまった時のために、苦しそうな演技だけは続けて廊下を歩いていた。


 保健室が近付いたところで、養護教諭が向こう側から歩いてくるのが見えた。


 肩口まで伸ばした茶髪に黒縁眼鏡。あの特徴的な容姿は、遠目でも見間違えることはない。


 足りなくなった備品でもどこかに取りに行っているのだろうか。見つかってもいいのだが、詳しく診断をされても困る。仮病が露見するのもそうだが、それ以上に時間を取られるのがまずい。


 僕はなるべく、空気となることを意識しながら彼とすれ違った。


「ん? どうかしたのかい?」


 ばれた。


 授業中に腹を押さえて苦しそうに廊下を歩いていれば、当然そうなる。


「あ、いえ、ちょっとお腹が痛くなったので、トイレに行こうかなと……」


「トイレ? 体育館のトイレの方が近かったんじゃ……」


 ジャージ姿でうろついていたので、体育の途中だと言う事はすぐに見破られてしまう。どう誤魔化したものか。


「ついでに、教室に忘れ物を取りに行きたかったんですよ」


 口から出任せが止まらない。こんな程度で果たして騙されてくれるのか。


「ふーん……? なるほど。まあ、そういうことなら行っておいで。もし苦しかったら後で保健室に来るといいよ。胃腸薬ぐらいはあるから」


「はい、わかりました」


 乗り越えた。


 彼の表情を見るに、僕のメインの用事は忘れ物の方で、それを誤魔化すために腹痛を訴えていると思われたようだ。彼は学生に甘いタイプの教諭なのかもしれない。


 まあ伝えたかった意図とは違うが、僕を引き留めないでくれるのならそれでいい。今しがた僕が来た道を歩いていく彼を横目に、僕は保健室へと向かう。



 保健室の前に到着すると、女子生徒の話し声が耳に入った。タイミング的に晴夏と結以で間違いないだろう。


 僕は入口の扉を少し開けて身体を寄せ、彼女たちの声に耳を傾ける。ジャパニーズ・ニンジャスタイルだ。


 万が一、物語への干渉が起きそうになった場合は、世界が勝手に僕を体育館に引き戻してくれるはずだ。この件ばかりは、全力疾走も覚悟の上である。


「大丈夫、結以? 痛まない?」


「うん、ちょっとジンジンするけど、湿布貼ったら気にならなくなってきたよ。ありがとう」


 しっかり耳を澄ませれば、十分会話の内容も聞き取れる。扉の隙間から少しだけ中を覗き見ると、足首に湿布を貼っている結以の姿と、屈んだ状態でそれを心配そうに見つめる晴夏の姿があった。


「もう晴夏は戻っても大丈夫だよ? 多分、これ以上はどうしようもないし……。付き添ってくれてありがとう」


「いや、まだ心配だからとりあえず先生が戻ってくるまではここにいるよ。結以が私の事がどーしても邪魔だって言うなら帰るけど」


「ふふ、いや、邪魔じゃないよ。じゃあもう少しいてもらおっかな。一人も寂しいし」


 先生と言うのは先ほどすれ違った養護教諭の事だろう。一体何をしに出て行ったのかは謎のままだ。


「そうやって結以が笑ってくれるの、何か嬉しいな」


「え?」


「あれから、元気なそさうだったし……」


「あ、うん……そうかも、ね……」


 結以が物悲しげに少しだけ俯く。やはり晴夏への報告は終わっていたと見て間違いない。


「あ、ごめんね。変なこと思い出させちゃって……」


「いや、いいよ。気にしないで。もう……終わったことだから」


 結以は健気にも、笑顔で晴夏に向き合う。


 そこにはもう、失恋で打ちひしがれていた少女の姿はない。彼女は自らに起きた辛い体験を乗り越え、既に前に進もうとしていた。


「それより、晴夏の方こそ海斗君とはどうなの?」


「え? 私?」


「うん。もしかして、私に気を遣って海斗君と話せてなかったりしそうだなーって思って」


 晴夏の事を、結以はよく分かっている。クラスは違えど、晴夏の状況は簡単に察しが付いていたようだ。


「え! いや、そりゃ最近は何となく話せてない感じはあるけど、結以に気を遣ってとかそういうつもりは……!」


「ふふ、焦っちゃって。晴夏かわいー」


「ちょっと、からかわないでよ!」


 暗い空気から一転して、場は和やかな雰囲気に包まれ始めた。結以の元来明るい性格が、彼女たちにとって良い影響を与えている。


「だけど、次は晴夏の番だよ」


「私の番?」


「あれ、まだそんな感じなんだ? うーん、こういうのって、本人より周りの方がよくわかる物なのかなあ」


「もー、何よ結以! はっきり言ってよー!」


 晴夏が結以の肩を掴んで揺さぶる。結以は笑いながら成されるがままになっている。


「それは……そうだなあ……。晴夏が自分で気付けるのが一番いいと思うなー」


「えー、何それー! 結以のいじわるー」


 晴夏が膨れっ面で結以をねめつける。怒っているというよりは、何となく話をはぐらかす結以の態度が不服なようだ。


「まあまあ。だけどこれは晴夏のためだから」


「そうなのー? じゃあ……いいけど」


 晴夏は納得こそしていないようだが、とりあえず落とし所として引き下がることにしたようだ。



 それからは、何という事のない談笑がまた始まったので、目的を果たした僕はひとまず体育館に戻ることにした。


 涼太はまだ、寝ているのだろうか?



  ***




 体育が終わって昼休み。


 ジャージから制服に着替えて早々、海斗が誠を連れて教室を出て行くのが目に入った。


 このタイミングでの海斗のイベントを見逃すわけにはいかない。僕は昼食を後回しにして、とりあえず彼らを追うことにする。


「おーい、譲次。飯食おうぜ」


 涼太、襲来。


 結局体育の間、自分が出る試合以外は全て寝ていた涼太が、いつも通り昼食に誘う。


「ごめん、涼太。ちょっとこれからやることがあるから、今日は勝手に食べててくれない?」


「お? そうか、珍しいな。じゃあ、今日は生徒会の方で食うか」


 物分かりの良い男、涼太。やはり持つべき物は、物分かりがよく不穏な行動にも詮索しない授業中にすやすやとよく眠る友人だ。


 涼太が教室を出て行くのを見送って、早速僕は海斗達の後を追う。


 何とか廊下の先で階段を降りて行く2人を見つけたので、そこからはまた距離を保ちながら彼らに付いて行った。


 着いた先は例の校舎裏だった。


 彼らの密談の定番なのだろうか? 何故いつもここで重要な会話を行おうとするのか。たまには気分を変えて屋上なんかどうだろう。いや、屋上は校則的に生徒立ち入り禁止で使う者は滅多にいない場所だった。


 何にせよ、ここに着いてしまったのなら仕方がない。僕は趣向を変えて、近くの木の陰から彼らの話を聞くことにした。


「で、話って何だよ、海斗」


「ああ、晴夏の事なんだけど……」


 結以の話をするのかと思っていたが、晴夏の話だった。


 現状では海斗にとってやはり晴夏の方が重要なのか、結以の一件についてはもう誠に話してしまったのかは分からない。


「その話か。結局、まだあんまり話せてないみたいだな」


「まあ、それもそうなんだけど……。あのさ、この前、誠に言われて週末とかもしっかり晴夏の事、考えてみたんだよ」


「へー、殊勝な所もあるんだな。ちょっと海斗の事、見直したよ」


 誠が、からかい口調で海斗に答える。海斗は、こいつ、と一言呟きながら、誠を軽く小突く。


「で、考えてはみたんだけど……やっぱりよく分からなかった。ただ、何ていうか最近……あいつのこと考えてるとさ。すげえ頭の中とかもやもやするんだよ。それで、気付いたらそのことばっかり考えてさ。ほら、あいつよく分かんないとこあるし」


 微妙に海斗の思考回路は核心からずれている。


 結局のところ、海斗も晴夏も似た者同士と言うことだろう。周囲の人間は容易に彼らの本質に気付いているのに、当人同士だけが気付いていない。


 まったく、もやもやするのはこちらの方だと言うのに……。


「あー、まあ……なあ。確かにそういう部分はあるかもな」


 誠は、神妙な面持ちで海斗の話を真面目に聞く素振りを見せてはいるが、どう見ても口元がにやけている。誠が分からないはずはないのだ。分かっていながら現状を楽しんでいる風でさえある。食えない男だ。


「だろ? だから、この状況はもう俺の力じゃどうしようもなさそうだし、とりあえず誠に話して色々解決案を出してもらいてーなって思ったんだよ。どう思う?」


「はー、なるほど。そうだなあ……」


 答えは明白なのだが、海斗の事を思えばこそ、誠はどう答えるべきか悩んでいるようだ。


 まずそもそも、海斗と晴夏の仲が、元に戻る必要はない。彼らに必要なのは、前に進むこと。関係を進展させることだ。


 有体ありていに言うと結局は、細かい事は良いからさっさと付き合っちゃえよ、という事なのだ。


 しかし案外純粋な側面を持っている海斗に、面と向かってそう言う訳にもいかないようなので、誠も考えを巡らせている。一歩踏み出す勇気さえ出れば解決なのだが、そもそも自覚がないと来た。思っていた以上に、海斗は問題児だった。


「悪いけど、俺も力にはなれんかもしれんな、こればかりは」


「え? どうしたんだよ、誠」


「結論を俺に求めるのはまだ早いかもしれないってことだよ、海斗。それは、お前が自分で気付かなくちゃいけない事だ」


 誠の出した結論は、放置。というより最早、放棄だった。思考の放棄。


 こればかりは、誠が関与しても意味がない事だと判断したのだろう。海斗のこれからを思えば、確かにその方が良いのかもしれない。


「はあ? 何だよそれ。誠らしくねえな」


「何とでも言え。話がそれだけなら学食行くぞ。腹が減って仕方がない」


「はぁ……分かったよ。何か、しっくり来ねえな……」


 渋々と誠に追従する海斗。とりあえずこの話はこれで決着したらしい。


 投げやりに見えなくもないが、誠の海斗への対応は友人だからこそのものだった。やはり海斗がここまで成長して来れたのも、誠の存在があればこそだろう。


 彼らの姿が見えなくなる頃には、僕の腹でも虫が鳴いていた。腕時計で時刻を確認すると、昼休みに入って既に15分ほどが経過している。


 僕はいつものカレーライスの味を思い出しながら、急いで学食へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る