一節 「師走の朝に、鐘は鳴る」

譲次じょうじ! いい加減起きなさい! 学校遅れるわよ!」


 突如僕の耳に飛び込んでくる怒鳴り声で、微睡まどろむ間もなく覚醒状態に入る。布団から起き上がると、身を切るような寒さに思わず身震いした。


 そうか、今は12月だった。


 色々と状況を判断する必要があるが、とりあえず今のは母親の声と見て間違いないだろう。目覚まし時計を止めた記憶だけは、ぼんやりと残っている。


「はーい! 起きてる起きてる! もう行くから!」


 どことなく朝が気怠いのは、僕がこれまで夜型の生活を繰り返していたからだろう。思い返してみると、昨夜は確かに遅くまで深夜番組を見ていたようである。朝がきついのも当然だ。


 昨日までの自分を呪いつつ、僕は部屋に掛けてある制服に着替える。時計を見るに、朝食を摂っている時間はなさそうだ。歯を磨いて、顔を洗ったらさっさと学校へ行こう。


 2階の自室から1階のリビングへ降りると、母親が朝食の皿を片付けていた。僕の分は用意されていない。いつもこんな調子なので、初めから朝食は用意しないのだ。父親は早々に仕事に出てしまったようである。


「まったく、いい加減自分で起きなさい」


「はいはい……」


 皿を洗いながら、母親が小言を垂れる。これもいつものことなので、適当にスルーして大丈夫だ。今は自身に刻まれた習慣に頼って動きながら、現状把握を行おう。


 洗面所で歯を磨きながら、自分の置かれている立場に思いを巡らす。記憶を辿る作業は、もう慣れたものだ。


 僕の名前は木村譲次きむらじょうじ。どこにでもいるような両親の下に生まれ、どこにでもあるような家庭で平穏に暮らす、どこにでもいる一般的な高校2年生だ。


 父親はIT系の営業、母親は専業主婦で、子供は僕ひとりだけだ。裕福ではないが、不自由でもない生活を送っている。


 僕が在籍している学校は、恋之丘こいのおか高校。普通科の2年B組に所属している。僕の住む恋之丘町にある高校ではあるものの、その名に反して公立ではなく私立だ。蛇足だが、公立が不合格だったので滑り止めとして受けたこちらに入学した。


 僕は部活に入っておらず、帰宅部である。大抵、授業が終わり次第、早々に帰る。


 たまに通学路にある本屋で立ち読みをしたり、近辺のラーメン屋を巡ったりはするものの、これと言ってアクティブな活動はしていない。


 友達は多くもないが少なくもない。クラスに何人かいる目立たない人。それが僕だ。


 ここまでの情報から考えるに、今回は現代が舞台の「学園物」の世界だということになるだろう。僕の日常生活の中には、学校以外に舞台として展開できそうな場所がない。間違いなく、物語は高校の中で繰り広げられるはずだ。


 また、先述の通り僕はこう言った世界観を「現代」だと定義できる。本来の僕の自己同一性アイデンティティーがこういった時代背景や世界設定に基づいているのか、はたまた僕をこんな状況に陥れたにとってこのような舞台がそう定義されるのかは不明だ。


 何にしても、今回は剣だ魔法だ竜だ魔物だといった不思議ファンタジーな現象は何一つ起きないし、誰も起こせない。この世界を席巻しているのは、理論に基づいた科学だけだ。まあ科学も不思議でないとは言えないが。


 ちなみに、主人公は僕が普段の生活で既に出会っている人物だ。端的に言ってしまえばクラスメートである。


 ヒロインに当たる人物にも何となく見当は付いている……が、まだジャンルの特定にまで至っていないので、今の僕の知識や情報だけでは断定できない。

 

 ただ、主人公がクラスメートだと言う情報だけでも、今回の舞台が高校だという仮定の方は、説得力が伴うだろう。



 ――ぼんやりとしていたら、随分と時間が過ぎていた。


 僕は口の中に溜まった泡を吐き出す。長々と歯を磨き続けたせいで、白い泡の中には血が混じっていた。歯茎がひりひりと痛む。


 さっさと学校に行こう。洗面を手早く終わらせ、僕は学校指定の鞄を手に持つ。


「行ってきまーす!」


「はーい、急ぎなさいよー!」


 未だ台所に立つ母親に玄関から声を掛け、僕は家を出た。



  ***



「おう、譲次。おはよう」


 通学途中、友人の黒木くろき涼太りょうたに出会った。


 涼太は中学時代からの友人で、僕と同じ2年B組に在籍している。彼も部活に入っておらず、休みの日には2人で遊びに行くことも多い。彼の家で遊ぶことも多いので、僕はあちらの家族とも懇意にしている。


「おはよう、涼太。随分と悠長だね」


 白い息を吐きながら、朝の挨拶を交わす。僕は少し早歩き気味に登校していたが、涼太は全く焦る素振りも見せず、のんびりと歩いていた。


「俺の経験上、この速度で十分間に合うんだ。そんなに急いで行ったところで別に何も得することもないしな」


 得はしないが、万が一間に合わなかった場合に損をする気がする。遅刻するとはそれだけでそれなりの汚名を着せられる行為だと僕は思うが、その辺り涼太はお気楽だ。


「ふーん、まあ涼太がそういうなら僕も急ぐ必要はないか」


「お、良い考え方だぞ、譲次。でも間に合わなくても俺のせいにするなよ」


「自信満々に言った割には、責任持てないんだ……」


 涼太とくだらない話をしながら学校へと向かう。一応腕時計で時刻を確認するが、今は8時20分。ホームルームまではまだ10分ある。確かに涼太の言う通り、時間にはまだ余裕がありそうだ。


 学校が近くなるほど、うちの高校の制服を来た学生が増える。


 恋之丘高校の制服はブレザータイプだ。シックなデザインは女子生徒人気も高い。噂では、裏ルートで大きなお友達にも人気の逸品だとかいう話もある。


 校門にまで辿り着き、教室に入ると同時にホームルームを知らせるチャイムが鳴った。


 もう少し余裕を持って着いている予定だったが、涼太と話しながらだったので少しゆっくりと歩き過ぎたのかもしれない。


 しかし何はともあれ、間に合いはした。僕は、遅刻の汚名を免れたのだ。



 ――こうして、僕の安穏とした学校生活が、今日も始まった。

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