五節 「怒号」
魔物の襲撃から一夜明けたものの、村には未だ緊張の糸が張り巡らされていた。
テオボルトの傷は、セリアの応急処置の甲斐もあってそれほど大事には至らなかった。しかし魔犬の牙にはどうやら邪毒が込められていたらしく、暫くの間は経過観察という形で落ち着いている。
テオボルト自身としては怪我人然として診療所に居続けるのも気に食わなかったようで、意識を取り戻して早々、夜の内には宿に帰って来た。その際、ハルバートとセリアも共に帰って来たが、お互い一言も言葉を交わすことなく、それぞれの部屋に戻っていった。
そして今朝の食事の際にも、声を発する者は誰一人いなかった。
昼前になると、テオボルトが宿を出た。おそらくまた診療所に向かったはずだ。診療所の医者にも出来るだけ顔を見せるよう言われていたので、ついでにその辺りの用事も済ませるつもりだろう。
そういえば昨夜テオボルトを運び込んだ際、療養中だという4人目の人物を偶然見かけた。固いベッドで眠り続けるその少女は、テオボルトの妹であるらしい。名はエミリー・ブラッドだと、茶色い長髪に黒縁眼鏡の男性医師に聞いた。
エミリーはセリアより1つ2つほど年下に見え、テオボルトと同じ赤毛が特徴的な少女だった。眠っていたので詳細な性格は分からないが、兄とは対照的に小柄で華奢な体格をしているようだ。
長髪眼鏡の医者によると、エミリーは
ともかく、この件に関してはテオボルトの肉親という線が正解だったようだ。最後の仲間に関して色々と候補を出してはいたが、テオボルトにとって重要な人物だという点は当たっていたようである。
そしてこれまでのことから、そのエミリーの傷というのは、やはりハルバートが要因だと見て間違いないだろう。この辺りは昨夜の彼の言動からも、容易に断定できる。
昨日ハルバートが口にした「オレのせいでテオボルトまで……」という言葉の実際は、「オレのせいでケガをしたエミリーに引き続いて、テオボルトまで」ということだろう。ハルバートが戦いに消極的なのは、エミリーを傷つけてしまったことに責任を感じて……というのが妥当な線だ。
何が起こったかまでは分からないが、大方、昨日のように油断していたところをエミリーが庇って負傷してしまったとか、そんな事情ではなかろうか。正直な所その程度でもう剣を握れないのなら、さっさとその
当のハルバートはと言うと、案の定、朝から部屋を一歩も出ていない。引きこもりなら実家でやってくれ。セリアの方は、今日もまた物憂げにハルバートの部屋の扉を見つめている。
最早彼らの間に刻まれた溝は、絶望的なまでに深かった。
***
日が沈むころ、テオボルトが宿に帰って来た。ロビーでぼんやりとしているセリアを見つけると、いつもより数段低い声で、言葉を投げた。
「ハルバートはまだあの調子か」
セリアは虚を突かれたように、入口に佇むテオボルトを振り返る。
「え、ええ。まだ、立ち直れてないみたい」
まさか言葉を交わすことになるとは思っていなかったセリアは、困惑した様子でテオボルトに答える。
テオボルトはセリアの返答を聞くと、まっすぐハルバートの部屋へと向かった。
「いい加減にしろ、ハルバート。一度姿を見せたらどうだ」
扉の前で、淡白に声を掛けるテオボルト。感情を表にしないよう努めているが、その内に秘めた苛立ちが容易に伝わる声色だ。はっきりとしないハルバートの態度に、テオボルトは徐々に怒りを覚えているのだろう。眺めているだけの僕だが、気持ちはよく分かる。
テオボルトの声を受けて、ハルバートは部屋から出てきた。その表情はこの宿に到着したときよりも一層、沈鬱としたものになっている。
「テオボルト、すまない。オレのせいで……」
ハルバートもこのままでいいとは思っていないことは僕にも分かる。加えて、何かを変えようと外に出た矢先にこのような目に遭ったのでは、より沈み込むというのも当然だろう。
しかし彼は主人公だ。この世界を負って立つ男だ。それだけの人物が、そんな有様でどうする。
「思い上がるなよ、ハルバート」
テオボルトが怒気を露わにする。彼の抑えられない感情を前にして、ハルバートの目には動揺の色が現れ始めていた。
「俺が傷を負ったのは俺が弱かったからだ。お前がどうこうなどという問題ではない」
「でもあの時は……」
「くどいぞ、ハルバート! あれは俺の戦いだ! どこぞの腰抜けなどは、全く以って関係ない!」
テオボルトの怒声が、宿内に響き渡る。正面から受けたハルバートは元より、セリアや僕までもがその声に思わず身を震わせた。
しかしやや間が開いて、冷静さを取り戻したハルバートに生み出されるのは、反骨心から来る同じく怒り。
「オレだって……オレだって戦いたいさ! だけどオレが剣を抜けば、またお前たちを傷つけてしまうかもしれない。自分を見失って、見境なく人々を斬り捨ててしまうかもしれない! それだけは……それだけは避けないとダメなんだ!」
ハルバートの感情の吐露を、僕は初めて耳にする。
やはり彼も、本当は熱い男なのかもしれない。誰よりも優しく強い、勇者なのだろう。しかし、たった少しの
「オレの内に流れる呪われた血は、自分ではどうすることもできない……。もう何度も、剣を抜こうとしたんだ。柄を握った。手に力を込めた。でもその度に、オレの剣で倒れていくエミリーの姿が浮かぶんだ……」
初めて聞く話に、少しだけ僕も面食らう。どうやら僕が考えていたより、事態は簡単ではないようだ。
今の言葉から想像するに、エミリーを傷つけたのはハルバート本人だということだろうか。そうだとすると、随分話は変わる。自らの手で仲間を斬る。そのうえ重傷まで負わせたとなれば、勇者として立ち直れなくなるのも道理と言えば道理だ。
何が正しくて、何が間違っているのか。誰が被害者で、誰が加害者なのか。それを裁定する権利は少なくとも僕にはない。
ただそれでも、それでも僕は――また彼に立ち上がってもらいたい。
「自分のことも律せずして、何が剣士だ! 何が勇者だ!」
再び、テオボルトの怒号が飛ぶ。すでに彼も、溢れ出る感情を制御できていない。この現状を打破したいと思えばこそ、彼の思いは言葉になる。
「お前は邪竜に怯える人々を救うために立ち上がったのではなかったのか。今も苦しむ人々を、笑顔にするため戦うと決めたのではなかったのか! 自分自身に怯え、自分で決めた道さえ貫けぬ男に、どうして邪竜など倒せようか! 何ゆえ世界が救えると言うのか!」
テオボルトの怒りを前に、ハルバートは既に意気消沈し始めていた。
「だったら、オレはどうすれば……」
「そんなことは、自分で考えろ。ただもう戦わないというのであれば、目障りなだけだ。どこへなりとも消えろ」
テオボルトはそうハルバートに吐き捨てると、踵を返して自室へ戻る。
後に残されたハルバートは何の言葉を発することも出来ず、そのまま2階から1階へと駆け下り、セリアの前を抜けて宿の外へ飛び出して行った。
――その右手に、彼の相棒である聖剣を握り締めながら。
「ハルバート!」
思わず後を追うセリア。彼女自身も、追い付いたところでどうすれば良いのかは分かっていないだろう。ただそうであったとしても――
そうしてひとり取り残された僕は、ただその場でぼんやりと立ち尽くしていることしか出来なかった。
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